後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

川の源を考える(4)八王子市を貫流している一級河川浅川の源流をさか登る

2014年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

日本にある川はいずれも灌漑用水や水道水の水源として公共のお役に立っています。ですから個人が勝手に大量の水を工業用水に使ったり、河川敷に建物を自由に作ってはいけません。

そこで国土交通省が管理している全国の河川を一級河川として、河川法に従って保護しています。そして都道府県が管理、保護している河川を2級河川と言います。

全国にある一級河川はhttps://www.mlit.go.jp/river//toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/ に紹介してあります。例えば関東地方の一級河川は以下の通りです。

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私共が散歩や散策で大変お世話になっている多摩川は一級河川です。ですからそこに流入している全ての支流も一級河川として国が管理しています。

先日、川の源を考える(2)数多くの美しい湧水がある野川の源流地域 でご紹介した小さな野川も一級河川と大きな看板が出ています。

今日は多摩川の、2番目に大きな支流の浅川の源流をたずねて小仏峠の途中まで登って来ました。一番に大きな支流は秋川です。

お役所的な浅川の源流は陣馬山となっています。そして小仏峠は陣馬山とその南の景信山の南隣で、同じ尾根筋にあります。

今日登った旧甲州街道に沿った小仏峠から流れ下る清流は杉木立の中を流れていて、いかにも源流としてふさわしい景観の小川なのです。

陣馬山へは景信山を越える尾根道で行けますが、その下の谷川沿いの道が分かり難くてとても素人には簡単にはさか登れません。そんな理由で私は旧甲州街道に沿った谷川を浅川の源流と定義したいのです。

今日撮って来た写真でご説明します。

一番上の写真は八王子市の西部にある多摩御陵への参道にある南浅川橋から上流方向を撮った写真です。奥の山が城山と小仏峠です。

二番目の写真は駒木野にある小仏関所跡付近の浅川の風景です。

裏高尾にある旧甲州街道の車が登れる所まで行くと広い駐車場があります。そこからいよいよ登山です。道に沿って心地良い水音をたてて清流が流れています。

三番目の写真が細くなった小さな滝の写真です。

やがて道は谷を離れて尾根への登り道になります。

四番目の写真がその尾根へと登る道です。ここまで登ると谷川の音も聞こえなくなりましたので帰ってきました。

歩きながら全国には同じような谷川があり、それぞれの一級河川の源流になっている様子を想像していました。

昔から川の流れを静かに見ていると悠然とした気分になったものです。そして何時かはその源を遡ってみたいと若い頃にいろいろ想像したものです。老境にいたって時間が出来たので若い頃のささやかな夢をかなえているのです。

つまらない話で失礼しました。恐縮しています。

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同窓会が嫌いな方々へ深い同情を感じます

2014年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

日本では同窓会というものがあり、いろいろな意味で人々を束縛し、その上卒業した学校の運動部への寄付を要求してきます。

毎年のように同窓会を開催している学校もあります。その会に出てみると卒業年次の違う見知らぬ人々が沢山いて話が合いません。面白く無い会合です。幹事だけが楽しそうにしています。

ですから同じクラスの人だけで開く同級会というものもあります。こちらは顔見知りの人だけなので和気あいあいとして楽しいのが普通です。

しかしこの同級会にも、そして同窓会にも卒業以来一度も出席しない人も少なからずいます。

出席しない理由は人それぞれ様々です。特に理由も無いが面倒くさいという人から、学校時代に嫌な思い出があるから出席しないという人までいろいろです。学校では嫌いな勉強を無理にさせます。怖い意地悪な先生もいます。いじめた同級生もいました。同窓会や同級会に出るとそんな諸々のことを思い出すのです。

そんなことを想像して同窓会や同級会を欠席している人へ限り無い同情を感じていました。その孤高の生き方へすがすがしささえ感じていたのです。

ところで、アメリカの学校には日本的な同窓会や同級会が無いのです。アメリカにはホーム・カムイング・デイという学校全体を同窓生に年に一回だけ開放する日があるのみです。

同窓会や同級会は何故か日本の後進性を示しているようで、若い頃は全面的に賛成していませんでした。

しかし老境になってみると同窓会も同級会も出たい人だけが任意で出れば良いという気楽な考えになったのです。

出てみると欠席している人々との楽しかった思い出がつぎつぎとよみがえります。いろいろな理由で欠席している人々も皆に大切に思われているのです。西洋の言葉で言えば皆に愛され、懐かしく想われているのです。

そして少年だったころや青年だった頃、家のことや近所の野山の風景が思い出されて楽しいのです。

今週の水曜日に大学時代の同級会が東京駅地下の黒塀横丁にあるエビス・ビールバーでありました。集まったのは同級生約30名のうち首都圏にいる8名でした。

万年幹事の郷農君、立石君、大村君、管野君、大友君、大宮司君、高橋君、そして小生の合計8人でした。たわいのない皆の話を聞きながら亡くなってしまった小山君や高津君や星野君のことを思い出していました。欠席した人々との楽しかった交友の場面を思い出していました。そうすると出席者は8名ですが大学時代の同級生30名の全員と会っているような気分になれるのです。

下にその写真をしめします。しかしお爺さんたちの飲み会の写真だけでは面白くも可笑しくもないので、少年の頃、仙台の自宅の庭にあった除虫菊と、その周辺の野山でよく見たアザミやスイカズラやヒメカズラの花の写真をお送りします。都立薬草植物園で一昨日撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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東京都立薬草植物園の花々

2014年05月30日 | 写真

薬草植物園なので普通の花屋さんでは売っていない花が咲いています。

その中から数種の薬用植物の花の写真をお送り致します。はじめはベニバナです。

昔から山形県の庄内地方で栽培され、最上川の舟運で、酒田港へ運ばれ、そこから北前船でさかんに京都や大阪に運ばれました。当時は口紅として、そして鮮やかな紅色の染料として用いられ高価な商品でした。花びらを潰してベニバナもちに丸めて、発酵させて染料に用いたそうです。口紅は二枚貝の内側に厚く塗って使いました。

花の周りにトゲが多くて花を摘む時大変だったそうです。朝早く露の干ぬまに女性たちは摘まねばなりません。そんな歴史を考えながら写真を撮りました。

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二番目の写真は八重の十王の花です。八重は珍しいので撮りました。ドクダミと呼ぶには気の毒な位綺麗です。

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下の写真はマドンナリリーです。

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下の写真はシナガワハギです。

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下の写真はタンジンの花です。

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下の写真はカモミールです。ハーブティーなどにするカモミールです。

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川の源を考える(3)重要な航路としてのライン川とその源

2014年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

外国の川でなじみがあるのはライン河です。

もう昔のことですが、1969年から1970年にかけてライン川の支流のネッカー河沿いのシュツットガルトに住んでいました。週末にはライン河を渡るフェリーに車ごと乗ってフランスのストラスブルグへ遊びに行ったり、ライン河の源になっているボーデンゼーという湖でボートを漕いだり、泳いだりしに何度も行ったのです。

そこで今日はライン河について書いてみたいと思います。

少し大きな視野で考えると、ヨーロッパの大都市は大部分大きな河のほとりに発達しているようです、テムズ河のロンドン、セーヌ河のパリ、ドナウ河のウイーンなどと同じようにライン河沿いにはデュッセルドルフ、ケルン、ボン、フランクフルト(マインツ河との合流地)、マンハイム、カールスルーエ、コブレンツ、などなどのドイツ西部の大都市が連なっています。そしてその支流沿いにはマルクスの生まれたトリアーやベンツの本社があるシュツットガルトもあるのです。

ヨーロッパの河は昔から水量豊かで船の航路として重要だったので、その沿岸に都市が栄えたのでしょう。

現在でもライン河は物資輸送の大型貨物船の往復が盛んで、その合間を縫うようにして小型の客船が行き来しています。下の写真は多数の車を積載した大型輸送船の写真です。

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(写真の出典は、http://matome.naver.jp/odai/2126984196219918001/2126985446420986403 です。)

ライン河の輸送船は車に限らず燃料油、木材、機械部品、農産物などあらゆる物資を運んでいます。その様子を見ているとヨーロッパでは中世の運河がまだ生きていると不思議な感慨を覚え、感動します。

 さてこのライン河の特徴はその源がスイスに横たわっているボーデンゼーであると誰もが認めていることです。下にその風景写真を示します。

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(写真の出典は、http://www.letsswiss.com/archives/category/spot/hiking/page/2 です。)

このボーデンゼーは琵琶湖とほぼ同じ面積の広大な湖で、その水源は上の写真のようなスイスアルプスの雪解け水です。ですから何処が本当の水源なのか特定出来ないのです。

この広大なボーデンゼーの沿岸地帯にはチューリッヒやべグレンツという大都会があります。ですからライン河の大型輸送船がこの湖まで遡って来れればスイスも大工業国になったに相違ありません。

しかしボーデンゼーの出口のシャッハウゼンにはラインフォールという大瀑布があって船は遡れないのです。下にこの大瀑布の写真を示します。

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(写真の出典は、http://jp.bloguru.com/advroad2/query/?pg=38&category=1 です。)

このように書いてみるとヨーロッパの河と日本の川の大きな相違が明快に理解出来ます。日本の川はおもに水田や畑作の灌漑用の水として用いられ、かの地の河は物資や人の運送に利用されてきたのです。

それはさておき最後にライン河の水に手を漬けた思い出を書きます。それは1970年の6月のことでした。当時の西ドイツのハイネマン大統領が主催して、フンボルト留学生の歓迎会がライン河の岸辺の大統領邸でありましたした。

家内と子供2人の家族連れで出席しました。その折、邸宅の庭がライン河に面していて芝生の端を川波が洗っていたのです。雪解け水で増水していて芝生に植えた白樺林の中を川水が流れていたのです。歩み寄って、ああ、これがライン河の水だと手を漬けました。氷のように冷たい水でした。翌日は大きな観光船に招かれてライン下りをして、古城や関税所を見たのも良い思い出です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


東京都立薬用植物園に今日咲いていた少し珍しい花々の写真です

2014年05月29日 | 写真

先程、少し珍しい花の写真を撮ろうと思い、小平市にある東京都立薬用植物園に行ってきました。
確かに普通の花園にはあまり無い種類の花が咲いていました。
一番目の写真は珍しい青色のケシの花です。この薬草園だけで栽培していて、自慢の花です。
二番目の写真は薬草のジキタリスの花です。
三番目の写真は美しい色のペチュニアで珍しくはありませんが家内へ2鉢お土産に買ったのでその記録を残しておきます。1株100円でした。
四番目の写真はラベンダーです。珍しくはありませんが香が良かったのでつい撮りました。
5番目の写真はウスベニタチアオイです。色合いが柔らかく優しそうなたたずまいなので撮りました。
天気が悪く鮮明な写真ではありませんが、お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

場所は、http://www.tokyo-eiken.go.jp/koutsu/にあります。

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ブラジルでのサッカー世界大会は断固開催すべし!・・・その貧民街の人々のためにも

2014年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

南米を旅して心が痛み、暗い気持ちになるのは、都会の周囲の岡や山々にビッシリと続く貧民街の風景です。

そこでは昼間から強盗や傷害事件が起き、麻薬売買が行われているのです。観光客は絶対に行きません。

しかし私は南米のカラカスの貧民街へ、現地の友人と共に入ったことがあります。

そんな衝撃的な経験もあったので、大変心配しているニュースが最近、流れています。

ブラジル政府が貧しい地区の人々を強制的に追い出して、6月に開催されるサッカーのワールドカップ大会のために大きなサッカー場を作ったのです。

山の斜面へ追いやられた人々は大会へ反対して大規模なデモをしたのです。そのデモには先住民も加わっているというニュースです。

彼等の気持ちは痛いほど判りますが、私は断固開催すべしと思っていました。長期的に考えれば、南米のひどい貧富の差が少しずつ解消する切っ掛けになると思うからです。

なにかやりきれない思いで、関連のブログ記事を探していたら、NorioEfraim さんの感動的なブログを見つけましたので以下でご紹介いたします。

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http://www.sdgundamonline.jp/blog/72CB83753697400A8B869D733FFF644E/20130515_461490_10900995.aspx?weeeple=1

上に示した写真と下の文章の出典は上記のURLです。

NorioEfraim さんのブログから粛然とした気持ちで転載させて頂きました。NorioEfraim さんの人間愛と深い感情に心うたれています。

・・・・・・・前の部分省略しました・・・・・「FOOTBALL EX」という私の好きなサッカー情報番組があるのですが、この街出身の現在15歳以下のユースチームに所属する少年に、
「あなたにとってサッカーとはなんですか?」
と質問します。日本の少年なら「夢のため、将来代表に入って活躍したい」といった感じでしょうが、ブラジルの少年は質問を受けた途端、ボロボロと泣き出し言葉になりません・・・
悲しい顔でも無ければ、嬉しい顔でもなく、どちらかといえばやや無表情のまま、ただただ、涙だけが流れている、そんな感じでした。これは、自分の背負った人生を逆転出来る唯一のモノがサッカーであり、これこそ人生であり、これが無くなったら人生が無くなる・・・

貧困層出身のスポーツ選手の話をご存知の方なら、ご理解頂けると思えますが、なまなかな覚悟ではないわけで、まさに「ハングリースポーツ」ですがブラジルではサッカーの事を「ジョゴ=喜び」といいます・・・
喜びや悲しみ、人生の辛さ、嬉しさが渾然一体となったサンバのリズムに乗ったカーニバルに何処か通じる・・・
本来”祭り”とはそういったモノだと思えます。バス代がないため2時間も歩きクラブに行き、そこでのプレイはジョゴに溢れる、ブラジルサッカーの根底に流れるモノではないでしょうか?
・・・・・・攻略・・・・・・・・・・

リオのカーニバルの馬鹿騒ぎを苦々しく思っていた私の考えが変わりました。最後の文章・・・本来”祭り”とはそういったモノだと思えます。・・・・が深い暗示です。昔の日本の祭りもそうだったのですね。最近の日本の祭りにはその陰影がなくなりました。などと深く考えさせる文章なので、何度もゆっくりお読みください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 

後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料==============

ブラジル首都でW杯開催反対デモ(NHKネット版)

ブラジル首都でW杯開催反対デモ   
サッカーのワールドカップ、ブラジル大会の開幕が来月12日に迫るなか、首都ブラジリアで大会の開催に反対するデモが行われ、警察が催涙弾を使うなど混乱が起き、予定されていた優勝トロフィーの展示会が中止される事態となりました。

ブラジルではワールドカップの開催を前に、巨額の費用がかかるとして開催に反対するデモが各地で相次いでいますが、27日、首都ブラジリアでもデモ行進が行われました。
デモには市民グループなどおよそ1000人が参加し、ワールドカップの開催に使う費用を福祉の充実などに充てるよう訴えました。
これに対し、警察が催涙弾などを使って鎮圧しようとしたため混乱が広がり、現地のメディアによりますと、デモ隊が放った矢が当たり警察官1人がけがをしたということです。
このデモの影響で現場近くのスタジアムで予定されていた優勝トロフィーの展示会が急きょ中止される事態となりました。
ブラジルでは各地でワールドカップの開催に反対するデモが相次いでいるほか、警察官のストライキも頻発していて治安への懸念が広がっています。


もう一度、ヒナゲシの花の写真をお楽しみ下さい

2014年05月28日 | 写真

今日は東京駅の地下のエビス・ビールバーで東北大学の同級生とのランチ会がありました。
車で三鷹市花と緑の広場の前を通ったら、まだヒナゲシが一面に咲いています。
先日も、あまりにも綺麗だったので、もう一度入って写真を撮りました。
働いている若者に皆が綺麗だと褒めていましたと報告しました。
すると、彼はニッコリ笑って、「どうせ数日中に刈り取るのだからお好きなだけ切り取ってお持ちなさい」と言います。
ご好意に感謝しつつヒナゲシとヤグルマソウの大きな花束を家内へのおみやげにしました。三枚の写真をお送りいたします。

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川の源を考える(2)数多くの美しい湧水がある野川の源流地域

2014年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

「野川」は国分寺崖線の下から湧き出る幾つもの泉の水を集め、小金井市の武蔵野公園と野川公園の中を流れくだり、調布市で多摩川に合流する小さな川です。

昔の話ですが、1963年に国分寺市の押切間という窪地にあるアパートに引っ越した時その窓の下に流れていました。

当時は下水施設も無いので生活排水が流れているドブ川でした。ボウフラが発生し夏には蚊が窓から無数に襲ってきたのです。初夏には無数のツバメが飛び交ってそれらを食べていました。

南こうせつの歌う「神田川」のように若かった我々は何も恐れるものが無く、蚊が発生するドブ川でもロマンチックな清流に見えたのですから不思議です。

その後、国分寺市の隣の小金井市に引越しましたが、その崖下に野川の下流が流れていました。

経済の高度成長に従って野川の浄化と遊歩道の完備が進められ、現在は、その野川が江戸時代の様子に還ったような美しい景観を示しています。

野川の源泉は国分寺崖線とそれに続く小金井崖線の根元から湧き出る数多くの泉の水なのです。

野川公園の中の湿生植物庭園の裏から多量の湧水が出ています。そして小金井市の滄浪泉園の池の端にも湧水が出ています。

少し上流に歩くと貫井弁天の神社の裏に湧水があり、大きな池になっています。

その上流の東京経済大学の中にある新次郎池も湧水が溜まった池です。そして国分寺駅の南にある殿ヶ谷戸公園内の池の端にも湧水があります。

野川はさらに西へ続き国分寺街道の下をくぐり、不動橋に達します。そこで2手に分かれ本流は北上し、押切間という窪地を通り、JR中央線の下をくぐり日立製作所中央研究所の庭にある大池へと繋がっています。

その大池は幾つかの湧水を集めた広い池で、そこから野川へ流れる水量が一番多いので「野川の源流」ということになっています。

一方、不動橋で分かれ西に向かった川筋は江戸時代の「お鷹の道」として散策路が出来ています。このお鷹の道に沿った地域には2つの大きな湧水があります。

一つは真姿池(ますがたのいけ)の横にある泉です。もう一つは現在の武蔵野国分寺の裏山から湧き出す泉です。湧き出す水の量は少ないのですが、ここが野川の一番西の地点です。ですから私はここの国分寺裏の泉が野川の本当の源泉と信じています。

このように野川の源流地域には数多くの湧水がありますので散策する人が絶えません。

西国分寺駅から古代の東山道武蔵野路を南下して、黒金公園の國分尼寺跡を見て、武蔵野線の下をくぐると国分寺跡の広場に出ます。その北に現在の国分寺があり、そこから「お鷹の道」がはじまって東の方向に延びています。国分寺資料展示館を見て、真姿池と泉を見ます。そこに取れたての農産物を売っている農家があるので何か季節の野菜を買います。

そして国分寺駅に出て、殿ヶ谷戸公園を散策します。健脚な方は東京経済大学の新次郎池に出て、そこから野川の両側にある遊歩道を根気よく歩きます。すると貫井弁天の下を通り、武蔵野公園に出ます。

大岡昇平の「武蔵野夫人」に描かれたハケノミチにも湧水があります。「中村研一美術館」の前にも澄んだ水が流れています。さらに東の野川公園を散策して是政線で武蔵境駅に出てJR中央線で帰ります。

「野川公園」から下の下流にも遊歩道がついています。深大寺まで歩いたこともありましたが最近はそこまでは足が伸びません。

数多くの美しい湧水がある野川の源流地域は天気さえ良ければ素晴らしいハイキングが楽しめます。是非一度お出かけなさって下さい。

下の一番目の写真は小金井市内を流れる野川です、手前が下流でその先に武蔵野公園と野川公園が連なっています。

二番目の写真は湧水をたたえている貫井弁天の池です。池から小さな滝を経て野川へ水がながれています。

三番目の写真は国分寺の近所にある真姿の池とそのわきの泉から流れている水路です。

四番目の写真は現在の武蔵国分寺と水源の裏山の写真です。

五番目の写真は日立製作所の中央研究所の中にある崖下の広い湧水池で大池と言う名前がついています。

関係者以外立ち入り禁止ですが春と秋に一日ずつ一般公開がされています。毎年、中央研究所のHPに公開日がは発表されます。

六番目の写真は現在の武蔵野国分寺前に出ている散策路の案内図です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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不破 祐先生を偲ぶ会、日本の工学教育、そして技術者の世界

2014年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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東北大学工学部金属工学科の鉄冶金学講座の教授だった「不破 祐先生を偲ぶ会」が5月25日に神田学士会館でありました。参集者はこの鉄冶金学講座の卒業生、研究者、そして不破先生が顧問をしていた新日鉄の技術者たちの総数81名でした。私はこの講座の前の教授の的場幸雄先生の頃の卒業生でしたが不破先生にも大変お世話になったので出席しました。

上の写真はこの会の主催者であり、不破先生の後に教授に就任した井口泰孝先生(右)と日野 光兀先生(左)が司会進行をしている様子です。

二番目の写真は開会前から、会場の隣の応接間を埋め尽くした参加者の様子です。

不破先生や井口先生や日野先生は教育者、鉄冶金研究者として立派な業績をあげた方々です。その一端は不破先生の略歴として、参考資料の方にご紹介してあります。

この記事ではもう少し広い視野から日本の工学教育の素晴らしさや技術者の世界の温かい人間的な絆について書いて見たいと思います。

さて日本の工学教育の特徴とその素晴らしさです。

その教育方法は戦前の旧帝国大学の時代に確立された専門別の研究室(それを講座と言います)が全責任をもって完全な専門技術者の養成をする方法なのです。すなわち工学教育の仕上げと技術者の送り出しは専門別の講座の教授の責任で実行されてきたのです。

例えば全国の鉄鋼製錬会社の大部分の技術者は7つの旧帝国大学と東京工業大学の中に設置された鉄冶金学講座の卒業生なのです。

現在はこの古い講座制による工学の専門教育は少し開放的になりましたが高度な専門教育の良い伝統は脈々と流れているのです。

工学の専門教育は鉄冶金に限りません。例えば光通信工業分野の技術者は伝統的な大学に設置された電子工学科の光通信学講座の卒業生なのです。同じように日本の原子力発電分野の技術者の大部分は大きな大学の原子力工学科の卒業生なのです。

このような責任体制が明瞭な日本の工学教育の質の高さと日本の技術者の優秀さが戦後の経済の高度成長の原動力になった事実は否定しようがありません。

余談ながら私が東北大学の鉄冶金講座の大学院で修士教育を受けた直後に、オハイオ州立大学の金属工学科はその博士課程へ無試験で受け入れてくれたのです。

アメリカの講義のレベルは確かに高いものでしたが、日本の高度な専門教育を受けて行くと、悠悠とついて行けるレベルだという経験をいたしました。

今回の「不破先生を偲ぶ会」で感動したもう一つのことは日本の鉄鋼製錬技術者たちの非常に温かい人間的な絆です。不破先生は定年後10年以上の長きにわたって新日本製鐵の顧問として後進の育成に心血を注いだのです。その関係で出身大学に限らず新日鉄の製錬技術者が多数参集してくれたのです。

私自身も新日鉄へ招んでくれたり、共同研究をしてくれたりと文字通り親身の世話になった鉄鋼製錬の技術者の方々と20年ぶりのお会いすることが出来たのです。自分自身の忘備録としてその数人の名前をここに列記することをお許し下さい。

特に思い出の深いのは平岡照祥さん、梶岡博幸さん、大橋徹郎さん、溝口庄三さんです。

その上、1962年から1966年まで東京大学の鉄冶金学講座で一緒だった東京大学名誉教授の佐野信雄さんとは本当に久しぶりにお会い出来たことは感激でした。

日本の技術者は専門別の学会に所属していて一生お互いに温かい人間的な絆を持っているのです。鉄鋼製錬技術者は日本鉄鋼協会の春秋の研究発表大会で会い、一緒に懇親会で親しくなるのです。

このような人間的な絆は日本文化の特徴です。聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言われて以来連綿と続く日本の美しい伝統文化なのです。

そんなことを考えさせる「不破先生を偲ぶ会」でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料:不破 祐先生の略歴=============

不破先生は1915年に熊本に生まれ2013年に逝去されました。享年98歳でした。熊本の五高を経て、1941年の東北大学金属工学科を卒業されました。1946年には助教授になられ1954年から1957年までアメリカのMITに留学されました。

1962年に鉄冶金学講座の教授に就任され1979年に定年退職されました。

その後、1994年までの15年間を新日本製鐵株式会社の参与と顧問を歴任され、鉄鋼製錬現場の技術者の育成に盡したのです。

この間、日本学術振興会、日本鉄鋼協会、日本金属学会などの要職を務められました。

MIT 時代の恩師 J.Chipman先生、友人をはじめ世界中に非常に多くの親友を持たれ,堪能な語学力を駆使して鉄鋼製錬学の分野における日本の地位を高めることに大きく貢献したのです。また数多くの技術者の海外留学の行き先きを探し、推薦状を書き、親身の面倒をみたのです。

この国際的な貢献にたいして海外から数々の名誉称号が贈られました。一つだけ書きますとアメリカのNational Academy of Engineeringでは、日本人ではじめての会員として推挙されたのです。

このような学問的な活躍だけでなく不破先生はスポーツがお好きで、東北大学の陸上部の部長をされたり、ご自分ではマラソンがお好きで青梅マラソンにはよく参加せれていました。このような情熱的だった不破先生のご冥福心からをお祈りしてこの稿の終わりと致します。


川の源を考える(1)地味すぎる黒目川の源を踏破する

2014年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

ナイル河の源流を求めて19世紀に多数のイギリス人がアフリカの奥地を探検しました。

その中でも有名なのは行方不明になったリヴィングストンと、彼を発見し救助したスタンレーの物語です。昔は広く読まれていたのですが最近はどうでしょうか。

ナイルの源には謎が多く、完全に解明されるまでには多くの探検家が犠牲になったのです多くの犠牲者が出ても何故か人々は川の源流を求めて苦しい探索を続けるのです。

ナイルだけでなく世界中の川の源流を明らかにする探検が行われてきました。

外国の川に限らず日本の川の源流も神秘的です。不思議なロマンがあります。

少年の頃、「リビングストンとスタンレー物語」を読んで以来、時々、川の源を考える癖が出来てしまいました。

「川の源流」とは定義にもよりますが、明快な場合と複雑すぎて何処が源なのか判然としない場合があるのです。

明快な場合の例は天竜川の源は諏訪湖だと定義した場合です。そのような定義に従うと、淀川の源は琵琶湖です。山梨県の桂川(その下流は相模川)の源は山中湖です。明快です、

しかしこの定義には疑問が残ります。諏訪湖にも琵琶湖にも多数の川が流れ込んでいます。諏訪湖や琵琶湖より高いところにある川のどれを本当の源流として選ぶのでしょうか?

山中湖では流入する川はほとんど無く富士山の伏流水が湖底から湧き出しています。ですから源流は山中湖より上へはさかのぼれません。明快です。

その一方、湖への年間流入量の最大の川を天竜川や淀川の本当の源流と定義出来ます。しかし年間の河川の流水量は測定が困難なことが普通です。

従って諏訪湖や琵琶湖をもって源と称してそれ以上の論争を止めるのが賢明です。

その一方上流に湖が無くて、川筋も水源地まで一本だけの川もあります。そのような川は非常に珍しいと思います。

最近、近所でその様な珍しい川を見つけました。そして水源地まで一本だけの川筋をさかのぼって来ました。その川は黒目川と言います。

東久留米市の「さいかち窪」が水源になっていて、そこから一筋の小川が柳窪という昔風の農村地を流れ下り、埼玉県に入って新河岸川に流入し、やがて荒川に合流し、東京湾へ注いでいるのです。東京都区内に流れ込んでいないので都民の知らないごく地味な川です。

水源地がたった一つしかない珍しい黒目川の様子を下の写真でご説明いたします。

一番目の写真は小平墓地の中にある鬱蒼とした森林の中にある「さいかち窪」の一番低いところにある黒目川の源です。梅雨時や大雨の時以外は写真のように枯れあがっています。

二番目の写真は私の車と水源地の写真です。この地面の下に水源になる水槽が埋まっていて、そこからコンクリート製の太い管が新青梅街道の下を横切って道路の向う側で年中絶えることなく湧水を放水しています。

三番目の写真は新青梅街道の下から湧水を放水している場所付近の黒目川の様子です。

2人の少年がドジョウを捕まえようとしていました。友人がここでウナギのように大きなドジョウを数日前に捕まえたと言いながら興奮していました。

四番目の写真は新青梅街道の下の湧水を放水している場所から100m程下流にある標識です。この地点から黒目川は昔のままの森に覆われた柳窪という里の中を流れ下ります。

五番目の写真は、あちこちで湧水を少しづつ集めてかなり大きな川へと成長した黒目川の様子を示しています。川の岸には遊歩道があり、昔の柳窪の里を散歩している気分になれます。

このように川の源まで支流が無く、川筋が一本だけと珍しい実例なのでご紹介いたしました。

さて皆様の住んでいらっしゃる地域には源流地が明快に一か所だけと判っている川があるでしょうか?

源が多数あるのが普通なので次回はそのような実例をご紹介したいと存知ます。

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内戦の続く国々の不幸、そして平和な日本に住む幸せ

2014年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

毎日、毎日、何となく日々を送っている小生です。しかし何時も平和な国、日本に住んでいる幸せに感謝しています。その幸運に感謝しています。

毎朝、新聞の国際ニュースのページを丁寧に見ていると世界には内戦の絶えない国々が多いことに吃驚します。

例えば中国のウイグル族やチベット族の住んでいる地域では爆発事件が続きます。タイでは武力を使ったクーデターが起きました。

中近東のシリアでは激しい内戦が続行していて、隣国へ着の身着のままで逃れた難民は200万人以上います。

そして、その南のイスラエルではパレスチナ自治政府とイスラエル政府が終わりの無いゲリラ戦を続けているのです。昨日、フランシスコ法王が両国を訪れ、和平のためにアッパス議長とイスラエルのペレス大統領をバチカンへ招待して和平への話し合いをするように薦めています。

そして今日の新聞にはウクライナのドネツク州とルガンクス州で昨日の大統領選挙が武装集団によって妨害され投票が出来なかったと報じられています。

その同じ紙面には昨日大統領選挙の行われた南米のコロンビアでは、政府軍と左翼ゲリラの間で50年以上にわたって戦闘が繰り返されているのと報じられています。この内戦により発生した難民は570万人で、民間人の犠牲者は20万人以上と言われているのです。

昨日の新聞にはアメリカのカルフォルニア州での銃撃事件が報じられていました。日本ではあまり報じられていませんが、アメリカ各地では毎日コンビニ強盗事件が起きているのです。ピストルやショットガンを用いた犯罪が日常的に起きているのです。

このような外国の日常的な内戦や凶悪な犯罪を考えると、日本の平和がしみじみと有難く思えます。平穏な毎日を過ごせる幸運に心から感謝します。

何故日本が平和なのでしょう?

人々が「和をもって尊しとなす」という心を持っているからです。国土が海によって囲まれていて異民族が侵入しないからです。時々非難されますが日本政府が外国人の移民を制限しているからです。厳しい銃規制があります。

毎日、平和な日本に暮らす幸せにしみじみと感謝しています。そして世界の各地で発生した難民を助けている日本人のボランティアの人々を誇りに思っています。

今日の挿絵は先日京王フローラル・ガーデンで撮って来た薔薇の花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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ヒナゲシの花の写真をお楽しみ下さい

2014年05月25日 | 写真

今日は神田の学士会館で東北大学の金属工学科の鉄冶金研究室の関連の会合がありました。

帰りに東八道路の入り口にある三鷹市の「花と緑の広場」にヒナゲシの花が一面に咲いているのを見つけました。車を入れて写真を撮って来ました。

写真を撮っていたら家族連れがヒナゲシの花を摘んでいます。聞くと管理事務所に申し込むとハサミを貸してくれて無料でいくらでも摘んでよいと言います。

ハサミを借りて大きなヒナゲシの花束を作り久しぶりに家内へ贈呈しました。

そんな日曜日の午後でした。心豊かな日曜日でした。

ヒナゲシの花の下の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

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亀井節夫氏の死去とナウマン象、そして日本の地質学

2014年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、私は大変大きな間違いをしていまた。私の歴史観が間違っていたのです。

日本に文字が普及した後の歴史だけを歴史と信じ、それ以前の日本人の生活の歴史を完全に無視していたのです。考古学という分野と思っていたのでした。記録されている事がらだけを人間の歴史と考えていたのです。

ところが、文字が有ろうと無かろうと人間は生活の苦しさも乗り越えて生きて来たのです。

そのように考えると日本人には約10万年以上の長い、長い歴史があるのです。それを連続的に考えるのが正しい歴史観と信じるようになったのです。老人になってからそのような歴史観に到達したのです。

このような歴史観を教えてくれたのが野尻湖で長年、ナウマン象の発掘を指導した亀井節夫氏でした。

その亀井節夫氏が逝去されました。享年88歳でした。心からご冥福をお祈り申し上げます。

亀井氏の指導による発掘で我々の先祖はつい2万年前まで象を殺して食べていたことが明確に判ったのです。私はそこで数年前に野尻湖の博物館を訪問する一泊の旅をしました。

野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。この毎年の発掘を指導したのが亀井氏だったのです。

発掘は専門家に依ってもなされましたが、1962年から一般参加者も交えて18回も発掘作業を行ってきました。

発掘の成果は、「野尻湖ナウマンゾウ博物館」に分かり易く展示してあります。展示が良く出来ていています。「野尻湖ナウマンゾウ博物館」で検索するとこの博物館の詳細が出ています。

今から4万年頃前から2万年前までの2万年もの長い間旧石器時代の日本人は、国中に棲息していたナウマンゾウを集団で襲って、殺して、食べていたのです。

その事実はナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。 

旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるこの博物館は貴重な存在です。訪問して見て、その問題の提起の重要性に感動しました。

下にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

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上の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるものです。

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ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。

しかし二万年前に絶滅しました。

この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。

こんな初歩的な知識を得て、俄然、「地質学」という学問に興味が出てきました。

日本に地質学を教えたのは明治8年に、お雇外国人として来日したハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士です。

Naumann17j12 彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナやナウマンゾウ化石などを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。

左の彼の写真はWikipedeaから転載させて頂きました。

先年、見学してきたつくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所のその後の博物館なのです。

日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように動いてきたか?

そして雨風に流されてどのように変化して来たか?

このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化しやすい土壌に埋まれば化石になります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

025_3 左の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この展示物に感動してしまったのです。

良くご覧下さい。黒っぽいん岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。

長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。

岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が役に立つのです。学問研究の醍醐味ですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)