後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

美しい日本の教会の写真(3)五島列島の井持浦天主堂

2019年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていました。
五島列島への旅は2015年4月の中旬でした。
長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
さて、この五島列島はキリシタンだけの島ではありませんでした。
遣唐使以来、中国大陸への航海の最後の寄港地として弘法大師の空海や伝教大師の最澄が風待ちで長く逗留した場所でもあります。仏教も盛んな土地です。立派な神社もあります。
その上、山上憶良のこの地にまつわる歌もあるのです。従って五島列島は万葉集時代から文化交流の十字路として重要な島だったのです。キリシタン信仰はずっと後になって江戸時代から入ってきたのです。
今日は今回訪れた5つの教会の中から井持浦天主堂の写真をお送り致します。
自分が撮った写真に、http://www.city.goto.nagasaki.jp/sekaiisan/see/imochiura.php からお借りしたものも加えてお送りします。









井持浦は五島の他の地区と同じく江戸時代末期に大村藩から五島に移り住んだ潜伏キリシタンにより信仰の歴史が始まりました。
現在、井持浦教会の建っている玉之浦一帯は、五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、唯一迫害を逃れた地区です。
 明治30年(1897年)、全五島の宣教と司牧を委ねられたフランス人宣教師ペルー師の指導によりレンガ造りの立派な教会が建設されました。島内における木造からレンガ造りへの移行のはじめです。当時、日曜日のミサには井持浦の集落ばかりでなく浅切、黒小浦、蕨浦といった集落や、玉之浦湾に面した荒川、布浦、銭亀崎、山浦、一里鼻、笠神、赤崎といった小集落から魯舟を漕いで参加していました。遠い所は船で片道2時間あまりかかり、一日がかりのミサ参加でした。
参考資料に九州の古い美しい教会を沢山作った鉄川与助さんの孫娘のブログをご紹介してあります。
===参考資料=====================
「おじいちゃんの造った教会」、http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/ より。
鉄川与助は明治12年、1879に南松浦郡新魚目町丸尾(五島)で生まれました。亡くなったのは1976年でした。享年97歳でした。
祖父鉄川与助の造った天主堂は、50以上と言われていますが、まだ全部はわかりません。現在の状態をわかる範囲で調べてみました。                
下に、名前、献堂、場所、天主堂の説明、今の状態、を順々に書きます。  
曽根天主堂 明治32 南松浦郡新魚目町 ペール神父、野原棟梁のもとで、初めて教会建築に参加、西洋建築との出会い、 建て替えに参加しました。
鯛ノ浦天主堂 明治36年 南松浦郡有川町 木造で、野原棟粱施工、 建て替えにに参加しました。
・・・・明治39年 に鉄川組を編成・・・・  
桐の浦天主堂 明治39年 長崎県 木造で、1部煉瓦造り
冷水天主堂 明治40年 南松浦郡上五島町 素朴な木造で、初めて設計施工しました。リブ・ヴォールト天井です。  
堂崎天主堂 明治41年 福江市 赤煉瓦造りで、野原棟梁施工です。ゴシック様式で、どっしりした重厚な天主堂です。  
・・・・明治41年に日本建築学会会員になります。・・・・  
野首天主堂 明治41年 北松浦郡小値賀町 初めての煉瓦造りです。4つの窓があり、花模様のステンドグラスがとても綺麗です。昭和64年復元。『火宅の人』のロケ地です。  
佐賀公教会 明治44年 佐賀県 木造、平家建 戦災
青砂ケ浦天主堂 明治43年 南松浦郡上五島町 煉瓦造り、屋根が2層になって高く大きくなり、煉瓦と白い十字架の対比が綺麗です。内部の装飾も壮麗になります。
楠原天主堂 明治45年 南松浦郡岐宿町 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。どっしりした天主堂で、屋根に銀色の十字架が輝いています。増改築 
山田天主堂 大正元年 北松浦郡生月町 煉瓦造り  
今村天主堂 大正2年 福岡県三井郡太刀洗町、珍しい双塔の赤煉瓦造りの天主堂で、祖父の、1番美しい建築物とも言われています。他の教会は島などに多いですが、筑紫平野の真ん中にあります。  
大司教館 大正3年 長崎市 大浦天主堂の右側大きな煉瓦造りで、3階建てで日本瓦です。ド・ロ神父設計、与助施工です。  
宮崎天主堂 大正3年 宮崎県 木造、平家建 取り壊し
大曽天主堂 大正5年 南松浦郡上五島町 煉瓦造りで、バジリカ式会堂です。入り口正面に大きな塔屋を持つ、ロマネスク調で、円形アーチ窓の、桜の花型の色ガラスが綺麗です。  
大水天主堂 大正6年 長崎県 木造、平家建
堂崎天主堂 大正6年 福江市 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。
江上天主堂 大正7年 南松浦郡奈留町、小さい木造の天主堂で、窓ガラスの花柄模様は手書きです。  
南田平天主堂 大正7年 北松浦郡田平町 与助最後の煉瓦造りの天主堂で、三層です。平戸島の向かいの丘にあり、グリーンのドームを持ち、回りの景色によく映えています。
頭ケ島天主堂 大正8年 南松浦郡有川町、唯一の石造り(島で取れた石)で、ロマネスク様式です。小さい天主堂を広く見せる為初めての折上天井です。
祖父が晩年1番話していた天主堂で、それだけ苦労したようです。私が好きな天主堂の1つです。  
細石流天主堂 大正10年、福江市 ザザレと読みます。今は廃堂です。 崩壊
旧浦頭天主堂 大正10年、長崎県 木造、折上天井です。 取り壊し
人吉公教会 大正11年 熊本県 木造、平家建  
長崎神学校 大正12年 長崎県 教会ではありませんが、祖父の初めてのコンクリート造りです。三階建です。  
旧浦上天主堂 大正14年 長崎市 建設の時にも参加しましたが、双塔は、祖父が作りました。残念な事に、昭和20年の原爆でこわれました。今の浦上天主堂は、与助の長男与八郎の設計施工です。
手取天主堂、昭和3年 熊本市 最初のコンクリート造り、大正12年の関東大震災で煉瓦造りの脆さが実証されたからだと思われます。八角形のドームで小さい天主堂ですが、内部は広く高くて花柄をあしらった内部装飾が美しいです。  
大牟田公教会 昭和4年 福岡県 木造、平家建 戦災
呼子天主堂 昭和4年 佐賀県 木造、平家建  
紐差天主堂 昭和4年 平戸市 白いコンクリート造りの美しい外観と、ステンドグラスからもれる光の美しい内部を持つ、大規模な天主堂で、内部の柱の装飾が綺麗です。  
八幡天主堂 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
戸畑公教会 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
大江天主堂 昭和8年 熊本県天草、ロマネスク様式の白亜の天主堂で、コンクリート造りです。私の好きな天主堂の1つです。  
新田原天主堂 昭和8年 福岡県 木造、2階建 建て替え
水俣天主堂 昭和8年 熊本県 木造、平家建  
小倉天主堂、昭和10年、福岡県 木造、1部鉄骨、平家建、 取り壊し
崎津天主堂 昭和10年 熊本県天草 前半分はコンクリート造りで、後ろは木造のゴシック風です。鉛筆のようなとがった塔があり、外観が華やかで畳敷きです。海の側に建っています。  
水の浦天主堂 昭和13年、南松浦郡岐宿町 木造で、大規模な白亜の天主堂です。堂内の貝の聖水器が美しいです。  
鯛の浦天主堂 昭和21年 南松浦郡有川町 煉瓦造、平家建。玄関だけ煉瓦(昭和21年に 原爆で壊された、浦上天主堂の煉瓦で作りました。) 建て替え
愛野教会 昭和26年 南高来郡 木造、平家造り  
桐教会 昭和33年 南松浦郡    
浦上天主堂 昭和34年 長崎市 コンクリート造り  
諫早教会 昭和40年 諫早市 コンクリート造り  
船隠天主堂 昭和40年 南松浦郡 木造  
丸尾教会 昭和47年 南松浦郡 コンクリート造り  
  昭和51年、祖父、与助が亡くなりました。97歳でした。趣味も、建築といいきれるような一生でした。亡くなった日の朝も、故郷の五島や、教会の写真を見ていたそうです。   
追記:五島列島にある国指定重要文化財の教会や天主堂:
旧五輪教会堂(世界遺産候補)、江上天主堂(世界遺産候補)、頭ヶ島天主堂(世界遺産候補)、青砂ヶ浦天主堂

嗚呼、何事も無くこうして老境の日々が流れゆく

2019年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日野市の黒川清流公園の上にある洒落たカフェに午後のコーヒーを飲みに行きました。
いろいろパンも買ったので家内も楽しそうでした。
こうして何事も無く老境の日々が流れゆくのです。静かな冬の日でした。
このカフェの写真5枚と黒川清流公園の写真2枚をお送りいたします。
黒川清流公園の写真は、
https://blog.goo.ne.jp/masamichishibuya/e/67c06b88a5a4ebd02bea9afa0ccd7a58 からお借りしました。













美しい日本の教会の写真(2)函館のカトリック元町教会

2019年01月29日 | 写真









私の個人的な好き嫌いをブログに書くことはいけないことかも知れません。
しかしいろいろな教会に行くとおのずから好きと感じる教会と、かならずしもそうでもない教会があります。絵画の好き嫌いと同じように気軽に書いてみようと思います。
私が好きな教会は、北ヨーロッパ風のゴチック建築で、内部が縦長で、祭壇にイエス様やマリア様が美しく飾ってある古臭い教会です。
1969年から70年にかけてドイツで通った教会がゴチック様式の造りでした。帰国して洗礼を受けたカトリック立川教会も木造ながらその古い構造でした。
洗礼を受けた前後に通った教会と同じような造りの教会が好きになってしまったのです。これは幼時体験のようなものでどうしようもないと思っています。
停年後は時間に余裕があるので家人とともに国内旅行をよくします。
旅先ではカトリック教会を訪問するようにしています。巡礼というほど堅苦しい気持ちでなく、観光のような気楽な気分で行きます。
カトリック教会では常に、正面の扉が開いていて誰でも歓迎しています。内部に静かに入り、しばしお祈りをします。そして教会の中をゆっくり見物して回るのです。
沢山のカトリック教会へ行きました。私が好きだと感じ、印象の深かった教会は次のようにいろいろあります。
長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、五島列島の古風な教会、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そし何回も訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。
函館には何度か行きましたがそのたびにこの教会を訪問しています。今日の写真はこの函館のカトリック元町教会です。
この教会は1959年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。
明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。
新しい明治政府によってもキリシタンが逮捕され、遠方に流され、多数の死亡者も出たのです。
特に九州の大浦では多数の隠れキリシタンが逮捕され本州の各地の僻地へ送る流罪になったのです。津和野のように、流された先の人々によって殺された例も多いのです。
明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンがそこを訪れることが出来ませんでした。
そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。フランス人神父によって。
このカトリック元町教会は、以後、3度の火事に遭います。
現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
函館観光に行ったら是非、このカトリック元町教会をご覧下さい。
今日の写真は2012年6月に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)

今日は踊り念仏の時宗の稱名寺の写真を撮って来ました

2019年01月28日 | 写真
「お寺の写真だけを撮っても面白くないわ」と家内が言います。そう言いながらも家内は北風が吹く寺の境内を走りまわり20枚くらい写真を撮って来ます。
観光客の来ない無名のお寺の写真を撮り、その歴史を調べると日本の宗教の実態が理解出来るのです。
私はカトリックの洗礼を受けてから50年近くなります。
その間、日本の宗教をいろいろ調べてきました。日本の宗教を理解すると、自ずとキリスト教の理解も深まるのです。
いずれ日本の宗教の実態をまとめてご報告しますが、今日は踊り念仏で有名な時宗の府中市の稱名寺の写真をお送りします。

1番目の写真は山門です。

2番目の写真は明治初年に建てられた本堂です。

3番目の写真は庫裏です。

4番目の写真は時宗の開祖の一遍上人です。

5番目の写真は地蔵堂です。地蔵堂は日限子育地蔵尊を祀り、近隣の信仰を集めています。
時宗寺院の称名寺の創建年代は不詳ながら、天慶3年(940年)に創建、清和源氏の六孫王源経基が平将門征伐した際に当地に寄宿したといいます。
道阿上人、一光大和尚が寛元3年(1245)に称名寺として開山、江戸時代には寺領13石8斗の御朱印状を拝領したといいます。
確かなことは寛元3(1245)年に一光大和尚が開山したということです。
さて一遍上人ですが、1239年生まれ、 1289年に亡くなりました。鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖です。
一遍は大衆を率いて遊行を続け、下人やも含む民衆を踊り念仏で極楽浄土へと導いたと言われています。
その教理は他力で、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時宗です。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と言ってます。
一遍の踊り念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近かったのです。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、尼僧が半分混じった男女の踊り手が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だったのです。その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けました。

時宗は鎌倉仏教で生まれた非常に変わった宗派だったのです。それにしても日本にもいろいろな宗教があるのですね。

日本人、韓国人ヘ送るパウロの愛の言葉、そして夫婦喧嘩など

2019年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の1910年(明治43年)の朝鮮併合は朝鮮にとって歴史的な悲劇です。その結果、現在でも日韓関係は不毛の感情問題が続いています。慰安婦問題、徴用工問題、そして最近の韓国海軍と航空自衛隊の嫌がらせ挑発行為など全ては朝鮮併合に端を発した感情的な対立です。
どちらが良くて、どちらが悪いという議論ほど無意味な議論はありません。
そんな無意味な議論だけを双方の政府が真剣にしているのです。困ったものです。
もっと建設的で格調の高い議論も出来ないものでしょうか?

そこで今日はパウロがギリシャのコリントという都市の信者へ送った手紙を考えてみましょう。
コリントは紀元前9世紀に建設され、商業都市として繁栄したギリシャの一つの都市国家でした。
新約聖書に出ている『コリント人への手紙』は有名で、キリスト教信者でなくてもよく知られている言葉です。

・・・愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(コリント人への手紙I 13:4〜8)・・・

日韓の間の感情問題にこの言葉を適用するのです。
日本人が礼儀に反することをせず、日本の利益を求めず、怒らず、韓国人のした悪を思わなければ全ての問題は氷解します。
このように書くと右翼的な日本人が反発します。私は一切反論をしません。しかし静かにパウロの言葉を繰り返し言います。
・・・愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。(コリント人への手紙I 13:4〜8)・・・

韓国海軍が新潟県に上陸しようとしているのでは無いのです。韓国人を信頼することが肝要なのです。
韓国人の50%はキリスト教の信者です。『コリント人への手紙』を知っているのです。

話はいきなり低俗な夫婦喧嘩の話になります。我が家でもよく起きます。90%は私が悪いのです。
パウロの言葉の冒頭は夫婦喧嘩のために書かれたと思いたくなります。冒頭は次の通りです。
・・・愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。・・・
自分がこれを実践すれば我が家の夫婦喧嘩はなくなります。
皆様は夫婦喧嘩をしますか?原因を言い合っては解決しません。パウロの言葉を思い出せば良いのです。それでも解決しないようでしたら離婚すべきです。

ついでに書けば、職場における人間関係の問題もパウロの次の言葉で解決します。
・・・愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、・・・
これで上司と部下の間の感情問題はなくなります。
このように書くと、それではゴーンさんのような上司はどうしますかという質問が出るでしょう。
それにもパウロは次のように教えています。
・・・愛は不正を喜ばずに真理を喜びます・・・
ゴーンさんの不正は日本の検察庁が静かに調べているのです。直接関係の無い日本人やフランス人が感情的な意見を言わない方が良いと思います。

上に書いたパウロの『コリント人への手紙』はトランプ大統領へも送りたいと思います。しかしこの記事が長くなり過ぎるのでここで終わりとします。

今日の挿し絵代わりの写は花屋さんの店先で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘









美しい日本の教会の写真(1)カトリック崎津教会

2019年01月27日 | 写真
最近この欄ではお寺の写真を数多く掲載して来ました。
そこで今度は「美しい日本の教会の写真」を連載でお送りしたいと思います。
第一回はカトリック崎津教会です。
写真と文章は、http://9tabi.net/kumamoto/kumamoto03/kumamoto310.html からお借りしました。著者の方へ尊敬の意を表します。









・・・崎津漁港に一際目立つ、尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式の教会です。・・・

・・・津崎教会は、長崎の建築家で、教会造りの父と呼ばれた鉄川与助によって設計されたゴシック様式の教会です。明治以来3回の建て直しが行われました。現在の教会は、昭和9年(1934年)にフランス人宣教師ハルブ神父の時代に再建されたものです。・・・

・・・崎津教会は、アルメイダ神父により1569年(永禄12年)2月23日に建てられ、ここを中心にして、キリスト教は天草に栄えたのでした。然しながら、1638年(寛永15年)の禁教令が天草で実施されてから崎津では特に激しい迫害の嵐が吹き荒れました。
公然と信仰を明らかにすることを禁じられたキリスト教徒は、隠れキリシタンになり、ひそかに真夜中に一緒に集まって神を礼拝し、お祈りを献げていました。隠れキリシタン達は、生命や財産の危険をもかえりみず信仰こそ何物にも勝る宝であり、幸福の源泉であると、確く信じていました。この宝を子孫に伝えるために、7人の村人を先生として選び、「水方(みずかた)」と名付けました。此の名は水方の仕事の一つである洗礼の儀式から取られたものです。即ち、洗礼の儀式では魂の浄めのシンボルとして、水を注ぐことが必要とされるからです。
キリスト教徒を狩り出すために、踏み絵が毎年行われました。

 明治5年(1872年)に切支丹禁制の高札が廃止されるや、神父は、240年ぶりに再び崎津に帰ってきて、隠れキリシタンから熱烈な歓迎をうけました。かくして二世紀半の間、文字通り隠れて守り抜いた先祖代々の信仰を公に行うことの出来る新しい時代が訪れたのです。
現在この教会は津崎の400名のキリシタン信者の祈りの家として、毎日使用されています。

世界に平和が訪れるよう 神に祈りましょう。
平和の願いをこめて神に祈る時、もはやあなた方は単なるキリシタンの夢の島への歴史の探究者ではありません。平和な世界の協力者、平和のための巡礼者となられるのです。
キリストは次のように約束なさいました。「平和のために働く人は幸いである 彼らは神の子らと呼ばれるのであろう。」・・・

北極星を信仰するロマンチックな信仰と近所の妙見寺

2019年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関連したことを書きたいと思います。
今回は妙見信仰をご紹介したいと存じます。この信仰では、古代エジプト人が太陽神を崇めるように北極星を信仰する宗教なのです。
キリスト教の神が宇宙を支配するように北極星が全能の神のように森羅万象べてを司るのです。
これは中国の道教の中の一つの宗教で、妙見信仰として日本にも伝承されています。
近所の稲城市にこの妙見信仰の妙見寺があることを偶然知り、昨日さっそく写真を撮って来ました。この妙見寺のことは、http://www.myoukenji-i.com/ に出ています。
昨日、撮って来た写真を示します。

1番目の写真は北辰妙見尊を祀る神社の鳥居と北辰妙見寺の山門の写真です。北辰は北極星のことですから北辰妙見尊の意味は北極星妙見菩薩の意味になります。北辰妙見寺は天台宗のお寺になっています。
山上の奥の院は妙見宮と言い、本尊は北辰妙見尊です。寺の本尊は阿弥陀如来です。

2番目の写真は北辰妙見寺の山門前の石碑で天台宗、神王山、妙見寺と書いてあります。

3番目の写真は北辰妙見寺の本堂です

4番目の写真は北辰妙見寺の鐘楼です。

5番目の写真は長い階段を登った上にある山上の奥の院、妙見宮の前にある鳥居です。
足の悪い小生は登れないので家内が登って行って撮って来ました。

6番目の写真は稲城市百村の妙見尊で毎年8月7日に行われる伝統行事の蛇より祭の説明板です。
干した茅で約100メートル位の長さに拠り込んで蛇を作る祭りです。頭にあたる部分は別に編み、角をつけます。
茅を素材とした大蛇が作られ、神仏混淆の中で僧侶により儀式が行われる特色を持つ希少価値の珍しい行事として認められ、平成4年に東京都の無形民族文化財として指定されました。

さて日本にはキリスト教や仏教や神道や中国の道教などさまざまな宗教が混然一体となって存在しています。そしてそれらは時代の推移にともなって変化して行きます。
妙見信仰をはじめ、風水や陰陽道や庚申塔信仰は仏教とは異質の道教起源の信仰です。
妙見信仰についての明快な説明は、「戸原氏のホームページ」
( http://www.y-tohara.com/ )にあります。
それによると妙見信仰とは道教の北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰であり、日本では仏教と混淆し、北辰妙見菩薩に対する信仰に変化したのです。
一方、神道と混淆したのが「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)です。
この北極星信仰は、その動かない星が北の空にあって宇宙の全てを支配する最高神すなわち天帝として崇める宗教なのです。そして北斗七星は天帝の依頼を受けて人間の行状を監視し、その生死や禍福を支配しているのです。

この北極星と北斗七星の信仰は推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われています。
奈良の飛鳥にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入ってきた証拠と言われています。
正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代には北辰信仰が入っていたと考えられています。
この北辰信仰が時代とともに仏教と混淆して、妙見信仰へと変化していったのです。

私的なことで恐縮ですが、私の祖父が住職をしていた兵庫県の曹洞宗の正林寺に行くために何度も乗った能勢電鉄の終点が能勢妙見さんでした。本尊さんは北辰妙見菩薩なのです。
その関係で能勢の妙見さんのことは昔から知っていた懐かしい場所なのです。
この妙見信仰のお寺は能勢氏が1600年頃に建立したものです。そして能勢氏は日蓮宗の信者だったので法華経の守護神の北辰妙見菩薩をご本尊にしたのです。
この能勢の妙見さんは三大妙見の一つとして江戸時代中期頃から参拝者が増え、大いに賑わっていたのです。関西地方の名所の一つだったのです。
ですからこそ能勢電という鉄道も出来たのです。
能勢妙見の写真は、http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/nose-myouken.html に出ています。

このように日本の宗教的な風土では仏教も道教も神道も混淆して、日本独自の信仰対象にしてしまうのです。
ですからこそ日本の宗教は元来の教義や信仰の内容が時代とともに変化するのが特徴と言えると思います。もちろん宗教の変化はどこの国でも起きますが、日本の変化の様子は非常に独特なものと考えられます。


それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘


「森は海の恋人」美しい詩人の感性が海を蘇らせる

2019年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
美しい短歌をつくる人もいるものです。歌人の熊谷 龍子さんです。
彼女が出した歌集の題目だけ見ても、その詩の世界が楽しめます。
『花の北限』1974年
『地表水まで』雁書館 1983年
『森は海の恋人』北斗出版 1996年
『柞の森』ながらみ書房 2001年
『無冠の森』六花書林 2008年
『森の窓から』遊子堂 2014年

彼女の歌に次のようなものがあります。
「森は海を 海は森を 恋いながら 悠久よりの 愛紡ぎゆく」
歌人の感性が森と海とは切っても切れない絆があると言うのです。
この歌に強く共鳴したのがカキ養殖をしている畠山重篤さんです。
美味しい大粒のカキを育てるためには山に落葉広葉樹の森を作らねばいけないと信じ、それを水産学者の協力で実証したのです。
そして気仙沼湾の周囲の山に落葉広葉樹を根気よく植林し続けたのです。結果として美味しいカキが沢山取れるようになりました。
海の環境は森と関係しているという自然界の玄妙さを明快に示したのです。
これは海の環境保全の重要な教訓です。当然、学校の教科書に広く畠山重篤さんの植林事業が紹介してあります。
この関係を簡単に言えば落葉した葉が腐葉土になりフルボン酸を作ります。そのフルボン酸が土中の鉄分と化合して水に溶けるフルボン酸鉄になります。それが河川で海に流れ出し植物性プランクトンを大量に発生させます。カキやホタテはそれを餌にして大きく美味しくなるのです。それだけの因果関係です。

1番目の写真は畠山重篤さんの写真です。
出典は、http://gaiasymphony.com/no8/forest です。
畠山さんは日本の高度成長期に気仙沼の青い海が赤く濁り始めた時、その原因が海から20キロも離れた室根山の森の荒廃にあるといち早く気付き、平成元年に室根山の植林運動を始めた人です。

2番目の写真はカキ筏の広がる気仙沼湾の長い奥深い湾の風景です。
出典は、http://kesennuma-kanko.jp/winter_oyster/ です。
気仙湾内では流れ込む川の真水と海の水が混ざる汽水域が大きく、この汽水域には豊富な植物性プランクトンが沢山育ちます。プランクトンは川の流域にある落葉広葉樹が作るフルボン酸鉄が育てるのです。

3番目の写真は牡蠣の温湯処理と呼ばれる工程の写真です。
海の中で育っている牡蠣を持ち上げ、船に設置している70度のお湯のタンクに15~20秒ほど浸けます。
牡蠣の殻は厚いので、70度のお湯につけても身は大丈夫です。貝殻についた海藻を死滅させる目的です。これをすることで必要な栄養が牡蠣にたっぷり供給でき、身が厚くなるのです。

4番目の写真は気仙沼の中でも唐桑地区で生産されている「もまれ牡蠣」と呼ばれる牡蠣の筏の写真です。
成長にあわせ波が穏やかな湾内から、潮の流れの速い海(外海)へ養殖する場所を移動します。
内湾で栄養をたっぷり蓄え成長した牡蠣は潮にもまれることで身がしまり、うまみも凝縮します。

我々がスーパーで買うカキは養殖している人の工夫と努力の賜物なのです。そして落葉広葉樹林のお陰なのです。私の好きな広島、宮城のカキも緑豊かな森が深く関係しているのです。
そしてさらに北海道周辺の美味しい海産物は遥かなアムール川の水が育てた多量のプランクトンが育てているのです。
歌人の熊谷 龍子さんの短歌、「森は海を 海は森を 恋いながら 悠久よりの 愛紡ぎゆく」は地球上すべての海と森の恋歌なのです。

現在、読売新聞では「時代の証言」という連載で畠山重篤さんの感動的な活動を紹介しています。
ご存知の方も多いと思いますが、その植林活動に感銘を受けたのでここに改めて書きました。

それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘

今年も梅が咲き出したので梅の漢詩をお送りします

2019年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
2019年01月21日 掲載の「今年の早咲きの梅の花の写真です」で出した写真です。再度、掲載いたします。









さて梅の花は欧米では見た経験がありません。梅干しのある日本でしか見たことがありません。日本に縄文時代から梅は自生していたに違いないと思い込んでいました。ところがこの思い込みは大間違いでした。梅は弥生時代に稲作とともに中国からやって来た渡来植物だったのです。
弥生時代前期~古墳時代の遺跡から梅の遺物が出て来るのです。 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都などの弥生遺跡から梅の木の断片や梅の種が出て来るのです。
梅が中国大陸から渡来し、日本で普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられます。
原産地は中国長江流域と考えられています。
しかしそれ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないのです。 梅は、弥生時代に渡来したと断定して良いようです。

下って奈良時代になると花と言えばウメを指すことの多いようになります。
平安の貴族は初春に人知れず咲く梅の花に魅了されたようです。
万葉集で花の和歌の中で数が一番多いのは萩の花で、二番目は梅で119首もあります。当時は花の代表は春の梅と秋の萩だったのです。
ところが平安時代から花と言えば桜を指すようになりました。江戸以降は花見といえば桜となったのです。
日本人の好きな花は時代によって変遷して行くのですね。

梅の木が中国から渡来したとなれば杜甫や李白の漢詩に梅の花を主題にした漢詩がある筈です。
調べていくと唐の時代よりずっと後の元の時代の高 啓の漢詩が有名なようです。以下にご紹介いたします。

梅 花    <高 啓>
(出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B22_1.html です)

瓊姿只合に 瑤臺に在るべし
けいしただまさに ようだいにあるべし

誰か江南に向かって 處處に栽えたる
たれかこうなんにむかって しょしょにうえたる

雪滿ちて山中 高士臥し
ゆきみちてさんちゅう こうしふし

月明らかにして林下 美人來る
つきあきらかにしてりんか びじんきたる

寒は依る疎影 蕭蕭の竹
かんはよるそえい しょうしょうのたけ

春は掩う殘香 漠漠の苔
はるはおおうざんこう ばくばくのこけ


何郎去って自り 好詠無し
かろうさってより こうえいなし

東風愁寂 幾回か開く
とうふうしゅうせき いくかいかひらく


この漢詩の意味は次のようなものです。
玉のように美しい梅の姿は、仙人の住む高殿にあるのがふさわしいのに、誰が江南の処どころに植えたのであろう。
雪が満ちた山中に高潔な人格者が寝ているように、また月の明るい林下に美人が来たかと疑われる。
寒さの中、梅の疎(まば)らな影によりそうのはさやさやとそよぐ竹、春には梅の残り香がびっしりとしきつめられた 苔を掩いかくしている。
何遜が去ってしまってからは梅を詠じた良い詩はなく、春の風が吹くたびに、かなしくさびしく幾度咲いてきたことで あろう。

高 啓は杜甫や李白ほど有名ではありません。でもこの漢詩は春さきに真っ先に咲く梅の花の美しさや淋しさを美しく詠っています。

彼は1336年生まれ、1374年に38歳で処刑死しています。
名は啓、字は李迪(りてき)、江蘇省蘇州市の人で、元末期の惠宗至元2年 の生まれ。幼にして頴敏、文武に優れ、詩文に巧みで史学に深かった。呉淞の青丘に住み、 青丘子と号す。元朝に抵抗して蘇州に政権を樹立した張士誠の文学集団に出入した。官に就くも辞めて自活、のち罪に連座して処刑される。時に38歳、明初期 最大の詩人で呉中の四傑(楊基、張羽、徐賁)に数えられています。

薄命な詩人だったのですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

アメリカ社会を分断し荒野にするトランプ大統領

2019年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
マスコミはトランプ大統領を差別主義者でアメリカ社会を分断していると非難しています。
アメリカの自由と平等の理想主義を破壊し、アメリカ社会を不毛の荒野にしていると言うのです。

私はマスコミの非難がかなり正しいように思っています。
アメリカ社会はダイナミックに変化します。私は1962年にアメリカへ留学して以来、57年間にわたりアメリカ社会を注意深く観察して来ました。
1962年頃のアメリカはおおらかで自由と平等の国でした。アメリカの理想主義が国の隅々まで行き渡っていたのです。
その理想的な社会を破壊しているのが現在のトランプ大統領と彼の数多くの支持者たちなのです。

今日は1962年頃からのアメリカ社会の変化をかいつまんで振り返って見ようと思います。
その頃のアメリカはキング牧師の黒人の差別撤廃運動で大きく揺れ動いていました。

1番目の写真はキング牧師です。1968年に39歳の時、暗殺されました。
キング牧師の提唱した運動は徹底した「非暴力主義」でした。インド独立のガンディーを尊敬し、ガンジーの非暴力主義を貫いたのです。
この頃のアメリカは各地の白人と黒人のデモで騒然としていました。暴力行為で犠牲になる白人も黒人も連日続きました。
そしてケネディ大統領はキング牧師達の差別撤廃運動に賛成し、「公民権法」の議会へ提案する決定をしたのです。怒った白人がケネディを暗殺したのです。

2番目の写真は1963年、46歳でパレードの車上で狙撃、暗殺される直前のケネディ大統領です。
ケネディ大統領は1961年に就任し、キューバでのソ連との戦争の危険を回避させた名大統領でした。彼の暗殺でアメリカ社会は打ち沈んだのです。
そしてその後、「公民権法」が議会に提案されます。

3番目の写真は1964年、ホワイトハウスで公民権法施行の文書に署名するジョンソン大統領です。後列中央に立ち会ったキング牧師も写っています。
公民権法は11条からなり、職場、公共施設、連邦から助成金を得る機関、選挙人登録における差別を禁じ、分離教育を禁じていたのです。
この差撤廃の頃、アメリカはベトナム戦争に大々的に参戦し4万人の戦死者を出します。
ジョンソン大統領はトンキン湾決議に基づき、1965年3月8日に海兵隊3,500人を南ベトナムのダナンに上陸させたのです。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設します。これがアメリカのベトナム戦争の本格的な始まりです。この戦争は、1973年のパリ和平協定で続きました。
アメリカ国内では反戦運動が熾烈になり社会が分断し荒れに荒れたのです。
しばらくして2001年にイスラム過激派のニューヨークやワシントンDCの同時多発テロ攻撃が起きアメリカ社会が騒然とします。それの報復としてイラク戦争が起きます。そしてイラクのフセイン大統領は逮捕、処刑されます。
その後の2009年から2015年までオバマ大統領が登場します。
オバマ大統領が登場した時、私の胸が熱くなりました。
キング牧師の公民権運動がやっと現実のものになったのです。感無量でした。
その上、オバマ大統領はアメリカの伝統の「自由と平等」の理想主義を復活させたのです。
そして2009年にはノーベル平和賞を受賞したのです。ノーベル委員会はオバマ大統領の「核なき世界」に向けた国際社会への働きかけを評価したのです。
ノーベル平和賞の賞金1000万クローナをオバマ大統領は全額を複数の慈善団体に寄付しました。
現職アメリカ合衆国大統領にノーベル平和賞が授けられるのは、1906年に第26代アメリカ合衆国大統領に在任したルーズベルト、1919年に第28代アメリカ合衆国大統領に就任していたウィルソンに続いて3人目です。
アメリカ合衆国大統領経験者の受賞は2002年のジミー・カーター以来です。

上記のようにアメリカの社会は大きく揺れ動いて来ました。
しかし今回のトランプ大統領によるアメリカ社会の分断は異質なものが含まれているようです。

5番目の写真は2016年から現在まで就任しているトランプ大統領の写真です。
従来のアメリカ社会の変化は歴史的な必然性があったのです。
しかしトランプ大統領による変化には勿論歴史的な必然性はありますが、それに加えて彼独特の狭量な個人的金銭欲が加わっているから混乱に拍車をかけているのです。
国際間の信義を無視してアメリカの金銭的損得を優先します。
メキシコとの国境に本気で壁を作り中南米の不幸な人々の流入を厳重に禁止しています。
そして軍備増強で軍需産業の振興をしています。
宇宙戦争のための軍隊を創設して非常に好戦的な政策を進めているのです。

トランプ大統領は歴代の大統領に比較すると個人的な狭量な欲望がより多く政策に反映しているのです。側近を娘や婿などで固め、他の側近は短期間で離れてしまうのです。
このような大統領は前代未聞です。当然アメリカ社会は分断し荒廃するのは仕方のい無いことです。
アメリカ社会の変化は日本へも影響します。
その日本の将来に関しては今後書いてみたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

心が豊かな最近の日本人、そして宗教のこと

2019年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前、戦後は勿論、経済の高度成長期の日本人は心が貧しかったと思います。
他人を、そして外国を競争相手と思い蹴落とすことを無意識に感じていたのです。
それが1990年前後のバブル経済の破綻以後、日本人の心が次第に豊かになって来ました。他人の苦しみや悲しみに心を寄せて優しく接するようになったのです。日本人が優しくなったのです。
そして多くの日本人がいろいろな外国に行って住むようになりました。
どこの国へ行っても、そこに住んでいる人と仲良くなり、楽しい人間関係を作っているのです。
外国で幸せに暮らすには、生まれつきの性格や外国語を知っていることも重要ですが、その国の歴史や文化を尊敬し、現地の人に教えてもらおうという態度が重要です。
私は「Face Book」の会員なので、外国で幸せそうに住んでいる日本人を沢山知っています。 
しかし日本と違って外国では宗教や信仰の問題が大切なのです。

そこで今日は外国の宗教事情を考えてみることにしました。
我々日本人には無宗教の人が多いのです。ですから外国に行っても、その国の宗教とか信仰というものを無視しがちです。
いくら英語やスペイン語やロシア語や中国語や韓国語が達者でもその国の宗教を理解し尊敬していなければ本当には親密になり難いのです。
ある統計によると宗教を信じない日本人が70%前後もいるのです。
このような国は世界中で日本だけの特異なことなのです。例えばアメリカ合衆国では80%前後の人が神の存在を信じています。
それでは世界中の人々はどうのような宗教を信じているのでしょうか?

1番目の写真は世界のいろいろな宗教の信者の分布を示しています。
出典は、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sanka/kyouiku/kaihatsu/chikyu/statistics/public_facilities/graph_01.html です。
この図を見るとキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教などが世界を覆っている様子が分かります。
それではこれらの宗教の信者の数はどうなっているでしょうか?

2番目の写真は各宗教の信者数を示しています。出典は、http://www.hm.aitai.ne.jp/~genkou/isikimu/reikonn/syukyoujinkou.html です。
この表によるとキリスト教が22億5千万人、イスラム教が15億人、ヒンズー教が9億人、仏教が3億8千万人となっています。
そして中国の伝統的な宗教が3億9千万人となっています。中国の伝統的な宗教とは仏教と道教と原始的な北斗七星信仰(妙見信仰)などの混淆したものです。

3番目の写真は堂々たる台湾の道教寺院の写真です。道教の寺院と言っても仏教や原始宗教が混淆しているのが普通です。写真の出典は、http://m-mikio.world.coocan.jp/taiwanshuukyou.html です。
以上は世界の宗教に関する情報です。それを知ることは大変重要です。
しかし外国に行ったらそこの宗教行事に参加することも非常に大切です。
日本にいる外国人が良く神社の御神輿を担いでいる光景をテレビで見ます。親しみを感じます。
外国人は日本の宗教行事に参加すればより幸せになれるのです。
ですから外国に行ったらそこにある寺院や教会やモスクを訪問することです。異教徒でも入って良い場合は、中に入って信者の祈っている姿を尊敬しながら眺めます。
無宗教でも異教徒でも拝んでよい場合は現地の人々と一緒に祈ります。
例えば道教寺院では長くて太い線香を買って、周りの人々を真似して家内安全、無病息災を祈ります。そうすると道教寺院に来る人々の悩みや苦しみを共有しているような気分になります。
そしてカトリックの教会では常に扉が開いていて、誰でも出入り自由です。中に入って静かに座っていると信者が独りでお祈りに来ます。座ったり、膝まづいて祈っています。祈っている人の悩みや苦しみを共有しているような気分になります。
深い親近感が湧いてきます。尊敬の念も湧いてきます。

話は飛びますが、昔、南米のカラカスという大都会に行ったことがあります。日曜日にカトリックのミサに行きたくなりました。ホテルのカウンターで聞くと裏にある大闘牛場で日曜日の朝10時からあるから行きなさいと教えてくれます。
そのミサの光景は一生忘れられません。闘牛士と牛が死闘をしていた広場の中央に大きな赤い絨毯が敷いてあります。その上に数十人の神父さんたちが立っています。周りには折りたたに椅子に座った信者たちがビッシリといます。そして私が立っている高い観客席にも信者がいます。
後で聞いたことですが、その信者は皆、山の斜面にある貧民街の住人たちだったのです。原住民の血が混じった浅黒い人々です。
一緒に讃美歌を歌い、一緒に祈りました。それがキッカケで、後に山の斜面の村落に行ったのです。
この体験のおかげで人間の苦しみや悩みは貧富や国籍に関係なく、皆同じだという確信を持つようになりました。
そこで、その後、いろいろな外国へ行った時、その土地の寺院や教会を訪問するようになりました。一緒に祈りました。
その土地の人々と話をするとき、その国の信仰に感銘をうけたと少しだけ話をします。そうすると相手も親近感が湧くらしくていろいろな話をしてくれます。
私は知ることだけでなく、一緒に体験をすることが大切だと信じています。
悩みや苦しみを共有する努力が重要だと信じています。
すると「あらゆる民族の宗教には優劣が無い」ことが確信出来るのです。

現在、世界中の外国に住んでいる日本人はその国の宗教を尊敬していると思います。
その国の宗教行事に家族と共に参加していると思います。
そんな日本人は心豊かな日本人です。外国で周囲の人に愛されている日本人です。

最近の日本人は本当に心が豊かになったものです。戦前生まれの私は隔世の感に耐えません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本人の誇り(2)世界の各地に住み慕われる日本人

2019年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
「日本人の誇り(1)富士山と清貧の思想」という記事を2019年01月09日に掲載してから私は迷いに迷っていました。
私が日本人の誇りと思っていることが沢山あって選ぶのに思い悩んでいたのです。
この連載の2番目は無名でも外国人に慕われ、尊敬されている人を選ぼうと考えていたのです。
ところが昨夜のテレビ東京の『世界ナゼそこに?日本人 』で、インドで植林に生涯を捧げた杉山龍丸さんを紹介していたのです。
この杉山龍丸さんは日本では無名でした。
インドでの植林事業に日本政府や日本の企業の支援が無く、新聞にも取り上げられなかったのです。しかし感謝していたインド人から熱烈な支援を得て不毛のインドの大地を緑の樹木地帯に変えたのです。
杉山龍丸さんは1987年に亡くなりましたが、インドでは現在も飢饉の救世主「タツマル」として有名なのです。こういう日本人を私は日本人の誇りと思っています。
今日はこの杉山龍丸さんを改めてご紹介したいと思います。

さてテレビ東京の昨夜の番組では杉山龍丸さんを次のように紹介しています。
・・・55年前に大飢饉に見舞われたインドで全財産を投げ打って人々の命を救い、ガンジー以来の偉人と尊敬される”タツマル”こと杉山龍丸さんの歴史的偉業に迫ります。
イギリスから独立させたガンジーは「独立の父」と称えられている中でインドでガンジーと同じように慕われて”グリーンファーザー(緑の父)”と呼ばれ、私財を投げ打ってインドの緑化に人生をかけた”タツマル”こと杉山龍丸さんについて紹介してみたいと思います。・・・
ガンジーと同じように慕われているはいささか我田引水と思いますが感動的な内容でした。

杉山 龍丸さんのことを少し調べてみました。
彼は1919年(大正8年)生まれで 1987年(昭和62年)9月20日)に亡くなりました。享年68歳でした。
日本の陸軍士官学校を出て(53期)、ボルネオでは胸部貫通銃創の重傷を負いますが一命をとりとめました。そうして陸軍少佐に昇進して終戦を迎えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/杉山龍丸 によると、福岡県福岡市出身です。
祖父は政財界のフィクサーともいわれた杉山茂丸で、父は作家の文学者の夢野久作でした。
1937年(昭和12年)福岡中学校の卒業後、1940年(昭和15年)に士官学校を卒業します。
インドの政府や個人の協力を得て、インドの各地にあった砂漠地帯や土砂崩壊の地域を緑化する事業に25年間取り組みました。
しかし、日本の政府や企業などからは理解や協力が得られず、日本では新聞にも出なかったので全く無名の存在だったのです。

植林事業の資金に窮した杉山 龍丸さんは九州に持っていた3万坪の農地を売り、インドの緑化の費用にあてたのです。
この植林事業のキッカケは1955年(昭和30年)の戦友から、日本で農業を学んでいたインド人を紹介されたことでした。
初めてインドに行ったのは1962年(昭和37年)で、砂漠となったパンジャブ州を見て、国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深くパルプの原料となるユーカリを植林したのです。
そしてヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案して国道1号線沿いを470Kmにわたり見事な樹林帯にしてしまったのです。
その上、国際文化福祉協会を設立しインド救援の寄付金を募ったのです。
植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も事業中止に至ります。
しかし、杉山は九州にあった杉山農園の農地を売却して資金を調達し、家族を日本に残してインドに住んで植林事業を継続したのです。
植林事業のかたわら、祖父の茂丸が台湾で関与した蓬莱米をインドに移植することに成功したのです。
終始、日本政府からの援助は無く、学界からは黙殺され、国際文化福祉協会の財団法人認可申請もいまだ認められていないそうです。
インドでは、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であると有名だそうです。
1965年の「ベトナムに平和を!市民連合」結成の際には、玄洋社国際部長として呼びかけ人となっています。

最後に蛇足ながら私の感想です。
1)私は2人の陸軍🄱士官学校の卒業した方々と親しいのですが、2人とも実に礼儀正しく、その上不撓不屈の精神の持ち主です。杉山さんもそのような方だったに違いありません。

2)大東亜共栄圏を信じアジア諸国を蹂躙していった日本軍の高級将校として反省していたのかも分かりません。罪滅ぼしは日本の政府や企業の力を借りずに自分だけでしたかったのかも分かりません。

昨夜のテレビ東京の『世界ナゼそこに?日本人 』を見ながらいろいろ考えていました。

今日の挿し絵代わりの写真はインドの緑の多い地方の風景写真です。
出典は、http://herbtospice.com/geographical-herb/india/india-1 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘










今年の早咲きの梅の花の写真です

2019年01月21日 | 写真
近所のあちこちにある梅林の梅はまだ固い蕾です。
しかし小金井公園の梅林の中に1本の紅梅と白梅だけが早くも咲き出しています。
今日は青空なので先程その写真を撮って来ました。最後の5番目の写真は鉢植えの梅の花です。
まだ満開ではありませんが写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。










今日はロウバイの花の写真を撮りに行った

2019年01月20日 | 写真
隣町の府中市に広大なロウバイの花園と梅林があります。
府中市郷土の森博物館の庭が広くて梅林や里山があります。その中に明治時代の役場や郵便局や古い豪商の家などが移築され展示してあります。
梅林とロウバイの花園は小高い丘の上にあり登って行くのが大変です。
身軽な家内にロウバイの花の写真を撮って来て貰いました。
梅林はまだ全く咲いていなかったそうです。
今年の府中市郷土の森博物館の梅祭りは2月2日の土曜日から3月10日の日曜日まです。
今日のロウバイの花の写真をお送りいたします。









府中市郷土の森博物館の詳しい情報は、http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/ に出ています。野点や風雅な茶室で呈茶もあり、博物館も充実しているので行く価値があります。無料駐車も広いのです。

群馬県の保渡田の石造古墳群と近所の石の古墳

2019年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
学校の歴史教育では応神天皇や仁徳天皇の巨大な前方後円墳だけを強調して教えます。天皇制を賛美しようという偏った視点で古墳時代(AD300年からAD700年まで)を教えるので大和地方の古墳だけを丁寧に教えます。
その結果、多くの日本人は古墳は大和地方だけにあると誤解しています。実は私もそうでした。
しかしよく調べてみると古墳は北海道の江別古墳群から沖縄の古墳群を含めて全国に普及し、盛んに建造されていたのです。

全国の数百の古墳の一覧は、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の古墳一覧 にあります。
この中には珍しく石造の巨大な古墳もあります。
例えば群馬県の保渡田古墳群は石造の古墳群です。この古墳群は、榛名山の南麓の保渡田の地に分布しており、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っているのです。
古墳の表面を全て川石で覆っているのです。利根川の上流と支流が近くにあります。
保渡田古墳の 八幡塚古墳などの3枚の写真を示します。





これらの古墳の築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代にかけてであり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の順に造営されたと推定されています。
二子山古墳は墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートルです。
八幡塚古墳は墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートルです。
薬師塚古墳は墳丘部が西光寺の堂宇や墓地のため、南側から東側にかけてかなり削り取られています。墳丘長は100メートルを超え、二重に周壕を巡らしていたと推定されています。葺石が葺かれ、埴輪類が配置されていました。
このように古墳の表面を川原の石で覆った古墳は私の家の近くにも一つあるのです。早速、昨日の午後に写真を撮って来ました。この古墳は府中市の熊野神社古墳と言います。昨日撮って来た写真を2枚示します。



この古墳は三段築成の上円下方墳でです。一段目は一辺約32メートル、高さ約0.5メートル、二段目は一辺約23メートル、高さ約2.2メートルでそれぞれ方形をしており、三段目は直径約16メートル、高さ約2.1メートルで円形になっています。丸い石は近くを流れる多摩川の川原から運んで来たのです。

この石造りの古墳については驚くべき事実が3つあります。
(1)これがAD650年前後に作られた古墳であると学問的に発見されたのがごく最近の2004年であったのです。
(2)上が丸く、下が四角形は中国の思想を受けた構造であり、副葬品に中国の七曜文様が見つかっているのです。こんな時代に関東地方まで中国文化が浸透していたことに驚きます。もちろん直接では無く朝鮮の慶州の古墳文化が伝わったのでしょう。埋葬された有力者の名は不明ですが、あるいは朝鮮から渡来した傑出した武将だったのかも知れません。
(3)この古墳について珍しいことは、江戸時代にここに引っ越して来た熊野神社のご神体として利用されてきたのです。神仏混淆とは珍しくありませんが神と古墳が混淆しているのは驚きです。そして古墳の玄室が神社の奥の宮として利用されていた様子も伺えるのです。
熊野神社古墳造営当時の古墳近隣の情勢を考えると、650年頃に造営されたことが大きな意味を持っています。すなわち、古墳造営と前後して古墳東方約1キロメートルのところに東山道武蔵路が開かれたのです。
ですから7世紀末から8世紀初頭にかけて、現在の府中市中心部に武蔵国府が設置されたと推定出来ます。
そのため在地の有力者が被葬者で、武蔵国府が現府中市に設置されるにあたって重要な役割を果たしたと考えられます。

その辺の興味深い調査結果は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3 にあります。 
今日は珍しい石で作った近所の古墳と群馬県の古墳群をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘