後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「昭和時代の悲劇(6)全国200都市の大空襲と原爆投下」

2020年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次大戦の間のアメリカ空軍による日本本土の空襲による死者は、33万人で負傷者は43万人でした。アメリカ空軍のB29が束になった焼夷弾を空中で分散させ、日本の 200の都市を焼き尽くしたのです。沖縄へはアメリカ海兵隊が上陸し凄惨な地上戦後、厳しい占領をしたのです。
その後、広島と長崎に原子爆弾を落としてとどめを刺したのです。その結果1945年8月15日に終戦になりアメリカ軍が日本全土を占領したのです。
これは日本民族の歴史で初めて悲劇でした。 現在の若い方々のためにこの事実をご紹介いたします。
日本本土空襲は1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われました。攻撃は、B29に代表される長距離爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊の艦載機や近くの硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。
また太平洋沿岸部の都市では、釜石や室蘭や日立市のように艦砲射撃によっても攻撃されたところもあります。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国の内地だけで200以上の都市が被災し、被災人口は970万人に及んだのです。被災は内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災したのです。 (この数字の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。)
それではこの徹底的な空襲の様子を写真で示します。

1番目の写真はB29が束になった焼夷弾を投下している様子です。
周囲にゴミのように無数見えるのが100ポンド焼夷弾で。さらにこの中に子焼夷弾が3~4ダースが入っていて、火を噴いて落下するという仕掛けでした。写真の出典は、http://touyoko-ensen.com/mini‐info/cook/ht-txt/724kuusyuu-4.html です。

2番目の写真は東京大空襲で焦土と化した東京です。 本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもので、右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。(米軍撮影、出所:Wikipedia、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59594 )

3 番目の写真は空襲後の仙台です。仙台市は1945年7月10日に燃え尽きました。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/仙台空襲 です。小笠原のすぐ南の硫黄島から来襲したのです。

4番目の写真は焼夷弾空襲後の静岡市の写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/静岡大空襲 です。

さて 私の故郷の仙台市は7月10日に123機のB29が来襲して焼きつくしたのです。
9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。翌日は少年の単純な好奇心で鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。まだあちこちから煙が立ち昇り、焼け焦げた死体があちこちにありました。その悲惨な光景は今でも鮮明に思い出します。

そうして間もなく敗戦です。多数のアメリカ兵が仙台にもやって来ました。戦争中に第二師団があった川内の広大な敷地に白い宿舎や事務所を建てて占領したのです。
日本軍の使っていた松島飛行場や仙台霞の目飛行場は米軍基地になり、勝ち誇った米兵が市内を闊歩していました。
その上、市内の金持ちの住宅は接収され、アメリカ軍の上級将校の自宅になったのです。
仙台市の復興は遅々として進まず、砂埃りの大通りを米軍のジープが走り回っていたものです。

その上、広島と長崎への原爆投下はもっと悲惨な地獄絵図でした。焼き尽くすだけでなく放射能による被害が凄惨なのです。

5番目の写真は広島への原爆投下後の写真です。出典は、https://www.pinterest.de/pin/830773462481342811/ です。

6番目の写真は広島の河原町付近から東方向を撮影したものです。中央に縦断する道がのちの平和大通りで、その道の左が中島町、右が加古町です。左上のサインはアメリカ空軍将校のティベッツのものです。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/広島市への原子爆弾投下 です。

7番目の写真は長崎の原爆投下後の写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎市への原子爆弾投下 です。
さらに原爆投下後のモノクロ写真44枚は、この欄の2012年08月06日掲載記事の「広島、長崎への原爆投下直後のモノクロ写真」に出しましたのでご覧下さい。写真の出典は、http://www.inspiration-gallery.net/2011/04/18/hiroshima-nagasaki-44/  です。

1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾(ウラニウム爆弾・リトルボーイ)を投下し、続く8月9日に長崎へ2発目の原子爆弾(プルトニウム爆弾・ファットマン)を投下しました。広島では爆心地から半径500m以内で95%以上の人が即死。その後3ヶ月で14万人が死亡。さらに1950年までに原爆症も含めた死者は推定で24万7000人とされています。
長崎では市域の36%が破壊、死者は7万3884人、重軽傷者は7万4909人とされています。(https://matome.naver.jp/odai/2133804647858547801 )

以上の写真に示したような恐るべき焦土の荒野から復興を果たした日本の底力には驚かざるを得ません。
この大戦争は日本が真珠湾攻撃で先に手を出して始まったのです。それだけにアメリカ軍の攻撃は熾烈を極めました。
しかし勝利したアメリカの占領政策は意外に寛大でした。日本は再び立ち上がり復興したのです。
それにしても全国200都市の大空襲と原爆投下は日本民族が永遠に忘れてはいけない悲劇です。忘れないで永遠に戦争をしないことが重要なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料======================================-
アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧:
戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。
内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、

広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)

「東京都の新型コロナ感染者ゼロの市町村」

2020年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、厚生労働省は全国の都道府県別新型コロナ現在感染者数を発表しています。昨日の発表の北海道、東北地方と関東の県および主な府県の感染者数を抜粋して示すと次のようになります。

国内の発生の状況、4月29日時点 厚生労働省発表;現在感染者数、11,567人

この内訳は次の通りです。
北海道、460 青森県、12 岩手県、0 宮城県、55、秋田県、9 山形県、28、福島県、51
東京都、3,995 神奈川県、796 埼玉県、771 千葉県、677 茨城県、125 栃木県、41 群馬県、120
山梨県、29、中略します。
愛知県、385
大阪府、1,245 兵庫県、539 京都府、165・・
島根県、21 鳥取県、2・・・
福岡県、433・・・沖縄県、113

この抜粋の仕方は次の私の明確な意図に従っていたしました。
(1)東北6県と島根県、鳥取県は感染者が非常に少ない。
   例えば岩手県は現在でも感染者数がゼロなのです。
(2)札幌、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡のような大都会のある都道府県の感染者数は群を抜いて多数です。
(3)沖縄県の113人は那覇市に集中し、石垣島や西表島などの離島はゼロと想像出来ます。
   この根拠は次の東京都の離島がゼロという事実です。

さてどんな地域に感染者数が多いか考えてみます。そのためには東京都の市町村別の感染者数が読売新聞の武蔵野版に毎日、出ているので非常に参考になります。
昨日の東京都の市町村別の感染者数がゼロの所は次のようになります。
日の出町、檜原村、奥多摩町、大島町、三宅村、八丈町、小笠原村などの離島。
そして更に感染者数が30名以下の所は次のようになります。
瑞穂町、あきる野市、羽村市、稲城市、多摩市、武蔵村山市、東久留米市、清瀬市、小金井市、小平市、日野市など合計約20の市町村があります。
以上結論を言えば全国一の感染者数の東京都でも西部の郊外の市町村と海上の離島は感染者数が少なく、かなり安全だと考えられます。

今日は東京都のコロナ感染者ゼロの市町村をご紹介しました。皆様のお住まいの所でもコロナ感染者ゼロの市町村が多数あると思います。注意深くコロナウイルスと付き合いばもう少しの辛抱で新型コロナ問題も終息すると信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は、相模湖とその奥の山々の緑滴る風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









「昭和時代の悲劇(5)特攻隊1万4千人の死は日本民族の悲しみ」

2020年04月28日 | 日記
第二次世界大戦中の日本軍の特別攻撃隊に関しては多くの本があり、ネット情報も数多くあります。
例えば、https://ja.wikipedia.org/wiki/特別攻撃隊 には実に詳細な資料が掲載されています。
そこで今日は分かり易く簡略に特攻隊として犠牲になった合計14,009名の説明を致します。

以下は2008年10月現在確認されている特攻隊員戦死者数です。
(1)海軍 、合計:4,156名
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名 合計
(2)陸軍 、合計:1,689名
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
(3)その他特攻隊員に含めるべき犠牲者、8,164名
第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者等の特攻作戦関連戦没者の内訳;
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺身隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他、終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等の34名 を含めると合計8,164名 になります。

以上(1)と(2)と(3)の総合計は14,009名になります。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)

1番目の写真は鳥濱トメと6人の特攻隊員です。鳥濱トメは知覧で特攻隊が行く食堂のおかみさんでした。終戦直後、トメは飛行場跡地に1本の棒くいを立てて「これがあの子たちのお墓だよ。」と、2人の娘たちにそう言うとそれから毎日欠かさず通い手を合わせ続けたのです。

2番目の写真は1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母バンカー・ヒルです。特攻単独では最多となるアメリカ側の戦死者402名、負傷者264名の甚大な損害を与えました。

さて私は2008年の10月に霞ヶ浦西岸の陸上自衛隊武器学校敷地内にある予科練特攻隊戦死者の写真や関係資料の展示館、「雄翔館」を訪れました。
雄翔館には特攻機とともに突っ込んで行った若者の写真と遺書が数多く展示してあります。皆の顔が悲しそうに見えます。悲壮な雰囲気です。当時72歳の筆者から見ると皆子供や孫のように見えます。こんな人々を死に追いやった日本民族の歴史を忘れないようにしたいと思いました。

3番目の写真は「雄翔館」の隣にある庭園の予科練生の像です。今朝供えたような生花がありました。

当時私は霞ヶ浦でヨットをしていました。霞ヶ浦へ行く折に、時々湖畔にある予科練の跡地の「雄翔館」を訪れました。
葉山マリーナで知り合ったヨットマンの田村さんが元予科練生だったのです。彼の話によると予科練の生存者がお金を集めて雄翔館を作ったそうです。
ところで「雄翔館」の展示の仕方に私は不満を感じます。上の引用資料のように特攻隊は、海軍の神風特攻隊だけではありません。それなのに「雄翔館」には海軍の特攻隊のことしか書いていません。陸軍特攻隊のことには一切説明が有りません。若い人々がここを訪れて特攻隊の戦死者は2531名だけと誤解する可能性が大きいと思います。このような展示館でも陸軍と海軍が対立しお互いに相手の特攻隊は無視しています。
九州の知覧にある特攻隊記念館も見ましたが、旧軍の特攻隊の全体像が簡単に理解できるような展示にはなっていません。
旧軍隊の陸軍と海軍がお互いに無視するという悪い伝統が現在の自衛隊へも墨守されているような気分になります。
それはそれとして雄翔館は入場無料で、武器学校の正門の衛兵の側に車を止めて、案内を乞うと構内の駐車場を親切に教えてくれます。雄翔館の館内は撮影禁止です。アクセスなどの詳細は「雄翔館」で検索して下さい。

戦争では人権が無視されます。個人の尊厳もありません。しかし特別攻撃隊はその最悪のものです。日本民族の悲しみです。
特別攻撃隊を生んだ文化は恥ずべき最悪の文化です。特別攻撃隊として犠牲になった人には罪がありません。日本民族全体の罪なのです。特攻隊を忘れずに考え続けることが重要と信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昭和時代の悲劇(4)食料補給無しでの戦線拡大の悲劇」

2020年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ネットの上で十年以上交流しているある女性の父は太平洋戦争で南の島で戦死しました。
今日は、この方と私のコメントの交換をご紹介したいと思います。

私は2016年12月29日に「嗚呼、これで太平洋戦争がやっと本当に終わった!」という記事を掲載致しました。
この記事の冒頭部分はこうでした。
「今年は8月に広島の原爆犠牲者の慰霊祭にオバマ大統領が来て花輪を捧げ慰霊の祈りを捧げました。
そして昨日は安倍総理大臣が真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊碑に花輪を捧げ祈りました。
このどちらの場合も安倍総理とオバマ大統領が一緒に祈ったのです。
・・・
私の心でも原爆投下は絶対に許せないと叫んでいました。私の心は宣戦布告無しの真珠湾攻撃の卑怯さに暗い気持ちになっていました。
しかし安倍総理とオバマ大統領が一緒に広島と真珠湾でそれぞれの犠牲者に慰霊の祈りを捧げたのです。
これで太平洋戦争の全ての悲劇が無になる訳ではありません。しかし少なくとも私の心の中の太平洋戦争が少し終わったという気持ちになれました。」・・・
この私の記事の続きは省略いたします。

上の記事に対してネットの上で交流していたある女性から次のようなコメントを頂いたのです。

====終結を迎えられない者も、2016-12-30 ====================
負け戦と分かりながら遠い南国の島へ送り込まれ、食料も与えられず犬死した数知れぬ兵士は未だ餓島に見捨てられたままです。戦争犠牲者の遺族に太平洋戦争の終結はありません。
安倍首相を始め稲田防衛相、そして太平洋戦争はこれで終わったと主張される方々は、戦争を知らない方や犠牲を受けておられない幸せな方々です。
私たち戦争犠牲者の遺族の立場や、今も尚、北朝鮮に身内を拉致されたままの家族の心情は、筆舌では尽くせないものでです。今も苦しんでいますが、国政では無視されていると思えてなりません。
考えようによっては軽薄なコメントですが、素通り出来ずコメントをお送りさせていただきます。お許しくださいませ。
============================================
このコメントを受けた私は彼女のブログへ悲しみを消すためにも気持ちの整理があっても良いのではないでしょうかという趣旨のコメントを投稿しました。

それに対して以下のようなご返事を頂きました。
===父が戦死したある女性の方からの返事======================
「戦死ではないのです!」
後藤和弘さま、
「カロリン諸島にて壮絶な戦死を遂げた」と国からの証が届き、母は戦死を信じて他界しました。しかし、戦後71年目にして国へ父の戦争履歴を請求したところ、戦死ではなく食料が与えられなくて、栄養失調で死んだことが分りました。明らかに餓死です。
このような戦争遺児が事実を知って国を許せますか。アメリカに殺されたのなら諦めますが、日本に殺されたのです。
母は父のいない家族を支えるために日雇い労働者を続けました。
そのような苦労を知らない政治家や賢い方々には解らない悲しみです!
======================================
戦後何十年経過しても、まだまだ前の戦争が心の中で終わっていない人々が沢山居るのです。
戦争の悲しみを忘れられない人々が沖縄にも居ます。いや日本中に居るのです。
そして外国に想いを馳せれば韓国や中国にも居ます。いや全世界に沢山居るのです。
2020年04月25日に掲載した「昭和時代の悲劇(3)第二次大戦で310万人の犠牲者を出した日本」 という記事では230万人の日本兵が戦死したと書きました。
このように兵員の死亡が多いのは補給も救助もない戦地に只々送り出した軍部の非情な方針が招いた悲劇です。
遺族の心の中では戦争の悲しみ永遠に消えないのです。これも昭和時代の悲劇なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、日野市の蚕糸の森公園で撮った新緑の平和な風景の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「コロナで主日のミサは、自宅で動画配信のミサに与かる」

2020年04月26日 | 日記
日本のカトリック教会はコロナ感染予防のために全てのミサを止めています。
しかしカトリック調布教会が、http://chofu-church.ciao.jp/category/mass/ で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅でこの動画配信のミサに与かります。
毎週行っていたカトリック小金井教会のミサを思い出しながら動画配信のミサでお祈りをします。
写真はカトリック小金井教会の2018年11月18日のミサの風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまです。今日の朗読は「マルコによる福音」の13章の24節から32節まででした。

2番目の写真は説教をしているイエズス会の竹内修一神父さまです。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。

3番目の写真は加藤 豊主任司祭さまが祈っている場面です。

4番目の写真は加藤 豊主任司祭さまがパンと葡萄酒はイエスの体と血に変化するように祈っている場面です。

5番目の写真はイエスの体に変化したパン片を信者へ配っている場面です。

2018年11月18日 の主日のミサは10時から11時までありました。
司式はイエズス会の竹内修一神父さまがなさり、福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまがながなさって下さいました。

今日も何故、私が カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真をご紹介するのかの理由を説明します。
理由は、ミサは信者だけの秘密の儀式ではなく、一般に広く公開された儀式だということを知って頂きたいためです。
宗教には秘密があってはいけないと思っています。

「小金井村の鎮守の森の新緑の輝き」

2020年04月25日 | 日記
私に住む所は昔、小金井村と言ってました。ここには江戸時代からの神社が3つあり鎮守の森が新緑に輝いています。
今日は3つの神社、稲穂神社、貫井弁天、小金井神社をめぐり美しい新緑の写真を撮って来ました。

1番目の写真は稲穂神社です。

2番目の写真は稲穂神社の鎮守の森です。

3番目の写真は貫井弁天です。

4番目の写真は貫井弁天の鎮守の森です。

5番目の写真は小金井神社です。
これら稲穂神社、貫井弁天、小金井神社は大きな森に囲まれています。江戸時代の森です。
鎮守の森とは村々の鎮守神が宿っている森のことです。神社の周囲にあって境内や神殿や参道を囲むように繁茂している森です。鎮守の杜とも言います。
鎮守神が宿っているので神聖な森です。写真を撮りながら何故か神々しい気分になりました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

「昭和時代の悲劇(3)第二次大戦で310万人の犠牲者を出した日本」

2020年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代の悲劇で最大のものは日本が310万人の戦争の犠牲者を出したことです。この第二次世界大戦の310万人の死者にはその数倍の家族がいたのいです。日本には悲しみの山並みがあったのです。海より深い悲しみが溢れていたのです。
そこで今日は以前紹介した船橋精一さんの「我が家のホームページ」から第二次世界大戦等の各国の戦争犠牲者数を転載致します。
この「我が家のホームページ」は以前は、http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM に存在していましたが現在は削除されています。しかし私もいろいろ調べてみましたが以下の数字はかなり正しいと確信しています。

「第二次世界大戦等の各国の戦争犠牲者数」

   国  名    兵員の死亡     一般市民の死亡    行方不明   (単位 人)
   日  本     約2,300,000       約800,000
   アメリカ     407,828        ―         ―
   イギリス     353,652        90,844       60,595
   フランス     166,195        174,620
   ド イ ツ      2,100,000      2,900,000        500,000
   イタリア       389,000      214,647        179,803
   ポーランド        6,000,000(兵員の死亡と一般市民の死亡の合計)     
   ソ  連        20,000,000(兵員の死亡と一般市民の死亡の合計)     
   中  国        10,000,000(兵員の死亡と一般市民の死亡の合計) 
  
なおこの表の日本の兵員の中に朝鮮と台湾の兵員犠牲者、約5万人を含みます。(ワールドアルマナック等より)
犠牲者数の多いのは、ソ連の2000万人、中国の1000万人、ポーランドの600万人、ドイツの550万人、日本の310万人の順になっています。
更に「シベリア抑留とは」(PDF)を検索すると第二次世界大戦の国別の膨大な捕虜の数の統計があります。
そしてシベリア抑留でドイツ兵が55万人死んだと記録されています。日本がシベリア抑留で5万人死んだと言われていますから、その10倍です。この研究は東京大学の名誉教授の藤田 勇さんによる客観的な研究結果です。

そして戦争の悲劇は敗戦後における多数の自殺者も忘れてはなりません。
ポツダム会談で敗戦後のドイツの処理案が発表された直後の4日間だけの自殺者数です。ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。
日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他の軍人と言われていま。
戦争には敗戦後にも大きな悲劇が起きるのです。暗然とした気持ちになります。

20世紀の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。
昭和時代に日本は第二次世界大戦へ参戦し310万人もの戦没者を出したのです。これは日本民族の歴史において空前のことです。
こんな大きな悲劇はありませんでした。
もう一度書きますが、死んだ人には家族が居ます。犠牲者の数の数倍の人々が生涯忘れられない悲劇を背負ってしまったのです。
戦争は想像を絶する悲劇を生むのです。戦争を廃絶する祈りを続けることが重要です。その為には何度も、何度も今日示した戦争犠牲者数を見て考えてみましょう。皆様はいかがお考えでしょうか?

挿し絵代わりの写真は平和な小金井公園の風景の写真です。嗚呼、平和は有難いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「昭和時代の悲劇(2)満州にあった日本人学校の消滅の悲しみ」

2020年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、私が尊敬している友人の白崎 謙太郎 さんから次のようなメールを頂きました。「満州のことの文拝見しました。満州は日本の侵略・植民地化だったこともっと強調されるべきでした。・・・以下省略」
日本人が満州へ侵略し植民地化した事実を反省することは非常に重要なことです。立派なご意見です。
そしてその一方、満州で何があったか冷静に記録することもまた重要と思っています。
そんな訳で今日は「満州にあった日本人学校の消滅の悲しみ」をお送り致します。

竹内義信君は大学時代の旧友でした。5年ほど前に何度か会い、彼の通っていた遥かなる満州のハイラルにあった日本人学校の思い出話を聞きました。
その楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校を終えて仙台にある東北大学に進学して来たのです。
母校の小学校が消滅したことを酷く悲しんでいました。
しかし何度かお会いし、話を聞くとその後、その小学校を訪問し心が癒されたそうでず。
それは鄧小平の日中友好の時代の心温まる出来事でした。美しい日中友好のエピソードです。

1945年に日本が敗戦になるまで満州には数多くの日本の学校がありました。みんな東京にある文部省が管理し日本の教育をしていたのです。その全てが敗戦とともに、うたかたのように消えてしまったのです。母校喪失です。この悲しみの記憶を背負った日本人は戦後たくさん居たのです。
他国を武力で占領して日本人が住み、日本の学校を勝手に作った歴史がアジアのあちこちにあったのです。それは現在になってみると日本の負の遺産として残るのです。
旧友、竹内君から聞いた話を続けてご紹介します。
かつての満州にあったハイラル小学校の同窓会の会報復刻版、「草原明珠」についての話です。
この「草原明珠」という本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。

1番目の写真はこの「草原明珠」です。「草原明珠」とは草原のなかの美しい真珠のようなハイラルという意味です。

この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。

(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別すると誤解されがちなことです。
満州には旅順工業大学という学校があり教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は現地人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
詳しい話は省略しますが、海外にあった日本の学校が一瞬にして消えてしまった悲しい運命を調べ、その学校の運営の実情を調べることは重要なことだと思います。負の遺産を少しでも正の遺産へ変える知恵が生まれて来ると信じています。

(5) 学校の消滅と同窓生の悲しい運命、そして日中友好事業
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。この本は数百人の悲しい涙と感傷の缶詰なのです。
しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会は現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。

日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の以下の記事にあります。
「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。

上記のハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。
我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。

満州建国は永遠に日本の負の遺産として残りましたが幾つかの心温まるエピソードもあったのです。
今日はその一例をご紹介しました。

挿し絵代わりの写真は現在、中国の東北にあるフルンバイル平原の風景の2枚の写真です。すぐ西にはロシアの国境が近い所です。蒙古族の住んで居るので中国領の内蒙古自治区の一部になっています。(写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1016966-d1718080-Reviews-Hulunbuir_Old_Town-Hulunbuir_Inner_Mongolia.html です。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



「今日の花壇と躑躅と白と紫の藤の花の写真をお楽しみ下さい」

2020年04月23日 | 写真
小金井公園に電動車椅子で行って咲いていた花壇と躑躅と白い藤と紫の藤の花の写真を撮って来ました、
公園まで自宅から往復5Kmくらいあるので電動車椅子の電池が切れるかと心配しながら花々の写真を撮って来ました。
しかし帰宅してもまだまだ電池に余裕がありました。電動車椅子は信頼して使えることが分かりました。いずれ車の免許を返納しても電動車椅子であちこちへ外出する心算です。
それはそれとして今日の花壇と躑躅と白い藤と紫の藤の花の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









「緑豊かな多摩丘陵の都立桜が丘公園の今日の写真」

2020年04月22日 | 日記
東京都の多摩市連光寺の多摩丘陵には「都立桜が丘公園」があります。
丘陵と谷間からなる公園です。丘陵公園だけに、地形は高低差数十mと起伏に富んでいます。園内には雑木林を主体にした自然林があり散策に適しています。公園の中ほどには、明治天皇の旧多摩聖蹟記念館があります。
今日は午後から曇りましたが写真を撮りに行きました。健脚の家内が公園の丘陵を登り下りして新緑の風景写真を撮ってくれました。
都立桜が丘公園の詳しい情報は、https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html にあります。









「玉川上水の新緑の写真を撮りながら江戸幕府に感謝する」

2020年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
玉川上水は小金井市にある私の家の北方1Kmくらいの所を流れています。上水の両側の土手にはヤマザクラ、ケヤキ、クヌギの大木が亭々と茂り、羽村の堰から三鷹市までの約25Kmは延々と続く見事な緑地帯になっています。
昨日は私の家の近くの玉川上水の新緑の写真を一人で撮って来ました。写真を撮りながら玉川上水を作った江戸幕府に感謝しました。









この玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。
江戸幕府から委託され、工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。
現在も玉川上水はよく手入れされ、今日の写真が示すように大きな樹々が繁っています。江戸時代の自然がそのまま残っているような感じがします。そして玉川上水の両側には楽しい散歩道が三鷹市から羽村の堰まで続いているのです。

詳しく書くと玉川上水は玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟の努力と献身の結果出来上がった水路なのです。
羽村から江戸の四谷までの43Kmの高低差が100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めたのです。
当初は日野から取水しようとしましたが開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更し、はるか上流の羽村村から取水することになったのです。
こうした事情を受けて、総奉行の松平信綱は家臣の川越藩士の安松金右衛門を設計技師に起用します。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/玉川上水 からの抜粋です。
安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」と3案を考えました。
そして遂に第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村の堰と四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成させたのです。そして承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されたのです。
この困難な土木工事を実際に請け負ったのが玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟だったのです。
しかし工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたのです。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。
それにしても高低差がたった100メートルしか無いのに43000メートルも水を流す土木工事は現在でも容易なことではありません。
そして玉川上水は立川、小平、小金井、など各地で分水され江戸の西の農業用水として使われ武蔵野の農業を支えたのです。
その上、松平家の菩提寺、平林寺への野止め用水は現在もよく保全され美しい緑地帯になっております。
この様に江戸幕府の土木遺産が346年後の現在も人々に新緑の散歩道を与えているのです。感慨深いものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

「人々のいろいろな絆の不可思議さ」

2020年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。
今日はこれらの絆の5つの例を考えてみたいと思います。

(1)ド・ロさまそうめんと九州の人々との絆
九州には「ド・ロさまそうめん」というものがあります。このそうめんは明治時代にフランス人のド・ロ様という神父が作ったものです。
このド・ロさまそうめんを現在でも製造している会社があります。http://www.sunflead.co.jp/doro.html をご覧下さい。
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師(1840~1914)でした。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、私財を投じてパン、マカロニ、ソーメンづくりなどの技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。
ですから九州の人々は「ド・ロさまそうめん」を食べながら今でもド・ロさまを懐かしく思い出しているのです。
素麺のお陰で長く続く絆なのです。このような不思議な絆がこの世にあるのですね。

(2)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人との絆
ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。海では葉山や江の島でセイリングをしました。
約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。
ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深い印象があるのはHootaさんという方です。
彼はブログやメールを通してヨットの帆走技術や修理方法を私にいろいろ教えてくれていました。
その縁で、2009年の春に千葉県に係留したある彼の艇を訪問し、一晩ビールを一緒に飲んだのです。それから数週間して駿河湾で素晴らしい帆走に招待してくれた方です。
Hootaさんは、北欧風の長さ43フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走していました。千葉県の保田港を母港にしていました。Hootaさんとの絆は私の心の貴重な財産になりました。

(3)結婚という不可思議な人間の絆
人間の絆は運命のようなものです。その絆で一番不可思議なものは結婚によって出来る男女の絆です。大した必然性も無く偶然会った男女が何故か愛し合うようになり結婚します。それには確固とした理由が無い場合もあります。そして子供も孫も出来ます。
人間の親子は人にもよりますが大体20年間くらいしか一緒に暮らしていません。それなのに夫婦は40年、50年それ以上一緒に暮らします。育ちも趣味もまったく違う夫と妻が何事も無いように一緒に暮らしているのです。結婚するまでは全く赤の他人だったのです。
ですから私は結婚ほど不可思議な人間の絆は無いと考えています。
結婚して一緒に暮らし始めてから好きになって愛し合う夫婦もいます。結婚が愛し合う原因になっているのです。このように書くと未婚の若者が、それは嘘だ、愛し合ったから結婚するのだと反対します。そのような理解があっても良いのです。しかし40年、50年と一緒に暮らしてみると結婚が愛し合う原因になっているように思えるのです。
子供や孫が出来るとそれがまた夫婦愛を一層強めてくれます。私も幸運にも良い伴侶を得て結婚という不可思議な人間の絆に毎日感謝しています。実に不思議な絆です。

(4)親子関係の絆の強さと不思議さ
親子関係ほど強い絆は無いと思います。
親子関係を父と息子の関係と母と息子の関係だけに限定して描くと明快に整理出来そうです。
一般に父と息子の関係は悪い場合があります。しかしその問題も孫が出来てから次第に解消してきます。
母と息子の関係を見ると始めから完璧に仲が良いのです。この世で母子の関係ほど強い絆は無いと思います。
外出すると幼児を連れた若い母親によく会います。幼児が可愛いので笑顔で見とれていると母親が挨拶をします。「どうです。素晴らしい子でしょう!」という自慢が笑顔に見え隠れします。女性にとって一番幸せな時期なのです。
親子関係の絆はこれで終わりにします。

(5)あるモンゴル人と日本人の絆
数年前に旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容は亡くなったあるモンゴル人と日本人の絆を書いたものです。
モンゴル人のソヨルジャブさんの追悼文をまとめて本にしたものです。日本人によって書かれた追悼文です。
この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。
ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。
その絆には国境も思想も宗教も一切介在しない純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。
当然日本人も彼を慕い愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。
ソヨルジャブさんは満州国の国立ハルピン学院を卒業し、満州国のモンゴル地区の官吏になりました。敗戦後は日本へ協力したとして収容所に入れられ34年間も過酷な運命に甘んじたのです。日本人と付き合ったために悲惨な収容所生活を送ったのです。
しかし彼の日本人へ対する信頼と尊敬は微動だにしなかったのです。
ソヨルジャブさんの一生は阿部重夫さんによっても書かれています。(http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html)

1976年に四人組が逮捕され文革が終わります。その結果、ソヨルジャブさんも名誉回復され、自由の身になったのです。
日本人とも自由に交流してよいことになったのです。
名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のちソ連圏から独立し民主化されたモンゴル国でも日本語学校(展望大学)を開校します。その後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょう。
国境も政治も宗教も介在しない絆です。純粋で一途な美しい絆です。

今日の挿絵の写真はソヨルジャブさんに敬意を表してモンゴルの風景写真です。「モンゴルの風景写真」を検索してネットからお借りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










「高尾山の自然林の新緑の写真を撮りに行く」

2020年04月20日 | 写真
東京都の西の郊外にある高尾山にはケーブルカーやハイキングコースがあり多くの人で賑わう行楽地です。
しかしハイキングコースの周囲の森林の大部分は人間の手が入っていない自然林なのです。この意外な事実は高尾山の歴史に由来するのです。
この山は元来は修験道の霊場であり真言宗の高尾山薬王院の寺域なので森林が自然のまま保護されて来たのです。
中世には、八王子城の北条氏康と氏照がこの山を保護し、氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に残されています。
江戸時代には幕府直轄領として八王子代官の大久保長安が山林保護政策をとり、その書状も薬王院に残されています。
明治維新の後も帝室御料林を経て国有林となり常に森林が自然林のまま保護されてきたのです。
高尾山は暖温帯系のカシなどの照葉樹と冷温帯系のブナ、ナラ、ホオノキなどが混じった森林で覆われています。
その上モミやツガなどの針葉樹林も混じっていて植生が豊かです。
私は昔から雑木林の風景が好きなのでよく武蔵野に散在する雑木林を見に行きました。しかし武蔵野の雑木林は農民が作った人工林なのです。
高尾山の自然林は珍しいのです。眺める度に嗚呼、自然林だと感動します。現在この山は明治の森高尾国定公園にも指定されキャンプやバーベキュー、植物の採取、鳥類の捕獲などが厳重に禁止されています。
昨日は快晴でしたので高尾山の自然林の新緑の写真を撮りに行きました。









日本の国土は森林に覆われています。その森林の53%は国有林です。
国有林は農林水産省の外局である林野庁が保護し各地方森林管理局によって管理されています。面積は2004年4月1日現在759万ヘクタールで日本の森林面積のおよそ3割を占め国立公園の約6割の面積です。国有林は山奥にありその多くは自然林です。ですから大都会に近接した高尾山の国有林の自然林は珍しいものです。
しかし注意深く観察すると自然林は意外に近い場所にもあります。
皆様の近所にも新緑が美しい自然林があると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日常生活でコロナウイルスに感染する危険な場面」

2020年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本のコロナ感染者数は4月に入ってから急激に増加し始めました。益々増加傾向が大きくなっているので一層感染予防に努力しなければなりません。以下は朝日新聞デジタルのニュースです。

「感染者数、1万人に迫る 東京は全国初の1日200人超」
2020年4月17日 、朝日新聞デジタル、https://www.asahi.com/articles/ASN4K7HQCN4KUTIL03N.html
新型コロナウイルスの感染者が、17日午後11時時点で新たに552人確認され、国内の感染者は9850人になった。東京都では201人の感染が判明。1日の感染者数が200人を超えるのは全都道府県で初めて。全国で新たに16人が死亡し、全国の死者は207人になった。
 東京都によると、新たに確認された人のうち、感染源がわからない人が67%を占めた。年代別では40代が36人と最も多かった。大阪府では新たに55人の感染を確認。府内で確認された感染者は計1075人になった。
 新たに35人が確認された千葉県では、集団感染が起こった松戸市の介護老人保健施設「あきやまの郷」で入所者や職員計10人の感染が確認され、この施設の感染者は計32人に。別の介護施設でも入所者2人の感染が確認された。北海道は33人で、1日当たりの感染確認数では最多となった。
 クルーズ船の乗客らを含めた感染者は1万569人になった。・・・以下省略。

今日は日常生活でコロナに感染する危険な場面を具体的に考えてみます。
危険な場面は地域によって異なりますが、以下は一例として東京都の場合です。ただし東京都といって伊豆七島、小笠原諸島、奥多摩地域は感染の危険度が小さいので除外します。
さてこの東京都でコロナに感染する危険な場面は次のよぅな場面ではにでしょうか。
1)中央縁、山手線、京浜東北線、総武線などの通勤電車の中の場面 バスでの場面
2)都心の混雑する交差点で多人数の人とすれ違う場面
3)客の多いデパートの食品売り場やスーパーで必要な食品を買う場面
4)会社でどうしても必要な会議で議論している場面
5)上司に居酒屋やバーに誘われて飲んでいる場面
6)営業活動としてどうしても数多くの顧客に会い宣伝や説明をしている場面

以上現在いろいろな職場で働いている人々にとっては感染する危険な場面があります。どうしても避けられない場面があります。
政府は自宅で仕事をしなさいと言いますが出掛けないと仕事にならない職業が多いのです。
それでは仕事を卒業した高齢者に危険な場面は無いのでしょうか?
それがあるのです。次の2つの場面です。
1)日常飲む薬を貰うために病院に行き、多くの人がいる待合室に長時間座っている場面
2)どうしても必要な食品をスーパーで選んで買う場面
高齢者の私は病院とスーパーが怖いのです。
この怖さをまぎらせる為に昨日はコロナウイルスのいない奥多摩にドライブに行きました。一昨日はコロナウイルスのいない公園に行き花々の写真撮って来ました。
何時も家内が車に同乗しています。その家内がコロナウイルスを持っていたら私も間違いなく感染します。車は密閉空間です。家内も私がコロナウイルスを持っているかも知れないので私が怖いに違いありません。この事は話し合ったことはありませんが考えてみると恐い話です。コロナ感染予防には益々細心の注意が必要です。
今日は日常生活でコロナに感染する危険な場面を具体的に列挙しました。このように具体的に考えることが感染予防の為に重要なことだと信じています。マスクと手洗いは必ずします。店の出入りでのアルコール消毒。

今日の挿し絵代わりの写真は一昨日、コロナ菌のいない公園で撮って来た花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「今日の日記、奥多摩に咲く花々の写真を撮りに行く」

2020年04月17日 | 写真
午後から奥多摩の山に咲く花々の写真を撮りに行きました。青梅から御岳駅そばの国際フィッシングセンターにかけて山沿いに車を入れて、新緑の山に咲く花々を探して写真を撮りました。曇天だったので鮮明な写真にはなりませんでしたが、お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。