第二次大戦の間のアメリカ空軍による日本本土の空襲による死者は、33万人で負傷者は43万人でした。アメリカ空軍のB29が束になった焼夷弾を空中で分散させ、日本の 200の都市を焼き尽くしたのです。沖縄へはアメリカ海兵隊が上陸し凄惨な地上戦後、厳しい占領をしたのです。
その後、広島と長崎に原子爆弾を落としてとどめを刺したのです。その結果1945年8月15日に終戦になりアメリカ軍が日本全土を占領したのです。
これは日本民族の歴史で初めて悲劇でした。 現在の若い方々のためにこの事実をご紹介いたします。
日本本土空襲は1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われました。攻撃は、B29に代表される長距離爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊の艦載機や近くの硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。
また太平洋沿岸部の都市では、釜石や室蘭や日立市のように艦砲射撃によっても攻撃されたところもあります。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国の内地だけで200以上の都市が被災し、被災人口は970万人に及んだのです。被災は内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災したのです。 (この数字の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。)
それではこの徹底的な空襲の様子を写真で示します。
1番目の写真はB29が束になった焼夷弾を投下している様子です。
周囲にゴミのように無数見えるのが100ポンド焼夷弾で。さらにこの中に子焼夷弾が3~4ダースが入っていて、火を噴いて落下するという仕掛けでした。写真の出典は、http://touyoko-ensen.com/mini‐info/cook/ht-txt/724kuusyuu-4.html です。
2番目の写真は東京大空襲で焦土と化した東京です。 本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもので、右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。(米軍撮影、出所:Wikipedia、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59594 )
3 番目の写真は空襲後の仙台です。仙台市は1945年7月10日に燃え尽きました。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/仙台空襲 です。小笠原のすぐ南の硫黄島から来襲したのです。
4番目の写真は焼夷弾空襲後の静岡市の写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/静岡大空襲 です。
さて 私の故郷の仙台市は7月10日に123機のB29が来襲して焼きつくしたのです。
9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。翌日は少年の単純な好奇心で鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。まだあちこちから煙が立ち昇り、焼け焦げた死体があちこちにありました。その悲惨な光景は今でも鮮明に思い出します。
そうして間もなく敗戦です。多数のアメリカ兵が仙台にもやって来ました。戦争中に第二師団があった川内の広大な敷地に白い宿舎や事務所を建てて占領したのです。
日本軍の使っていた松島飛行場や仙台霞の目飛行場は米軍基地になり、勝ち誇った米兵が市内を闊歩していました。
その上、市内の金持ちの住宅は接収され、アメリカ軍の上級将校の自宅になったのです。
仙台市の復興は遅々として進まず、砂埃りの大通りを米軍のジープが走り回っていたものです。
その上、広島と長崎への原爆投下はもっと悲惨な地獄絵図でした。焼き尽くすだけでなく放射能による被害が凄惨なのです。
5番目の写真は広島への原爆投下後の写真です。出典は、https://www.pinterest.de/pin/830773462481342811/ です。
6番目の写真は広島の河原町付近から東方向を撮影したものです。中央に縦断する道がのちの平和大通りで、その道の左が中島町、右が加古町です。左上のサインはアメリカ空軍将校のティベッツのものです。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/広島市への原子爆弾投下 です。
7番目の写真は長崎の原爆投下後の写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎市への原子爆弾投下 です。
さらに原爆投下後のモノクロ写真44枚は、この欄の2012年08月06日掲載記事の「広島、長崎への原爆投下直後のモノクロ写真」に出しましたのでご覧下さい。写真の出典は、http://www.inspiration-gallery.net/2011/04/18/hiroshima-nagasaki-44/ です。
1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾(ウラニウム爆弾・リトルボーイ)を投下し、続く8月9日に長崎へ2発目の原子爆弾(プルトニウム爆弾・ファットマン)を投下しました。広島では爆心地から半径500m以内で95%以上の人が即死。その後3ヶ月で14万人が死亡。さらに1950年までに原爆症も含めた死者は推定で24万7000人とされています。
長崎では市域の36%が破壊、死者は7万3884人、重軽傷者は7万4909人とされています。(https://matome.naver.jp/odai/2133804647858547801 )
以上の写真に示したような恐るべき焦土の荒野から復興を果たした日本の底力には驚かざるを得ません。
この大戦争は日本が真珠湾攻撃で先に手を出して始まったのです。それだけにアメリカ軍の攻撃は熾烈を極めました。
しかし勝利したアメリカの占領政策は意外に寛大でした。日本は再び立ち上がり復興したのです。
それにしても全国200都市の大空襲と原爆投下は日本民族が永遠に忘れてはいけない悲劇です。忘れないで永遠に戦争をしないことが重要なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================================-
アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧:
戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。
内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂
根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。
名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、
広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)
その後、広島と長崎に原子爆弾を落としてとどめを刺したのです。その結果1945年8月15日に終戦になりアメリカ軍が日本全土を占領したのです。
これは日本民族の歴史で初めて悲劇でした。 現在の若い方々のためにこの事実をご紹介いたします。
日本本土空襲は1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われました。攻撃は、B29に代表される長距離爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊の艦載機や近くの硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。
また太平洋沿岸部の都市では、釜石や室蘭や日立市のように艦砲射撃によっても攻撃されたところもあります。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国の内地だけで200以上の都市が被災し、被災人口は970万人に及んだのです。被災は内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災したのです。 (この数字の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。)
それではこの徹底的な空襲の様子を写真で示します。
1番目の写真はB29が束になった焼夷弾を投下している様子です。
周囲にゴミのように無数見えるのが100ポンド焼夷弾で。さらにこの中に子焼夷弾が3~4ダースが入っていて、火を噴いて落下するという仕掛けでした。写真の出典は、http://touyoko-ensen.com/mini‐info/cook/ht-txt/724kuusyuu-4.html です。
2番目の写真は東京大空襲で焦土と化した東京です。 本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもので、右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。(米軍撮影、出所:Wikipedia、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59594 )
3 番目の写真は空襲後の仙台です。仙台市は1945年7月10日に燃え尽きました。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/仙台空襲 です。小笠原のすぐ南の硫黄島から来襲したのです。
4番目の写真は焼夷弾空襲後の静岡市の写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/静岡大空襲 です。
さて 私の故郷の仙台市は7月10日に123機のB29が来襲して焼きつくしたのです。
9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。翌日は少年の単純な好奇心で鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。まだあちこちから煙が立ち昇り、焼け焦げた死体があちこちにありました。その悲惨な光景は今でも鮮明に思い出します。
そうして間もなく敗戦です。多数のアメリカ兵が仙台にもやって来ました。戦争中に第二師団があった川内の広大な敷地に白い宿舎や事務所を建てて占領したのです。
日本軍の使っていた松島飛行場や仙台霞の目飛行場は米軍基地になり、勝ち誇った米兵が市内を闊歩していました。
その上、市内の金持ちの住宅は接収され、アメリカ軍の上級将校の自宅になったのです。
仙台市の復興は遅々として進まず、砂埃りの大通りを米軍のジープが走り回っていたものです。
その上、広島と長崎への原爆投下はもっと悲惨な地獄絵図でした。焼き尽くすだけでなく放射能による被害が凄惨なのです。
5番目の写真は広島への原爆投下後の写真です。出典は、https://www.pinterest.de/pin/830773462481342811/ です。
6番目の写真は広島の河原町付近から東方向を撮影したものです。中央に縦断する道がのちの平和大通りで、その道の左が中島町、右が加古町です。左上のサインはアメリカ空軍将校のティベッツのものです。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/広島市への原子爆弾投下 です。
7番目の写真は長崎の原爆投下後の写真です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎市への原子爆弾投下 です。
さらに原爆投下後のモノクロ写真44枚は、この欄の2012年08月06日掲載記事の「広島、長崎への原爆投下直後のモノクロ写真」に出しましたのでご覧下さい。写真の出典は、http://www.inspiration-gallery.net/2011/04/18/hiroshima-nagasaki-44/ です。
1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾(ウラニウム爆弾・リトルボーイ)を投下し、続く8月9日に長崎へ2発目の原子爆弾(プルトニウム爆弾・ファットマン)を投下しました。広島では爆心地から半径500m以内で95%以上の人が即死。その後3ヶ月で14万人が死亡。さらに1950年までに原爆症も含めた死者は推定で24万7000人とされています。
長崎では市域の36%が破壊、死者は7万3884人、重軽傷者は7万4909人とされています。(https://matome.naver.jp/odai/2133804647858547801 )
以上の写真に示したような恐るべき焦土の荒野から復興を果たした日本の底力には驚かざるを得ません。
この大戦争は日本が真珠湾攻撃で先に手を出して始まったのです。それだけにアメリカ軍の攻撃は熾烈を極めました。
しかし勝利したアメリカの占領政策は意外に寛大でした。日本は再び立ち上がり復興したのです。
それにしても全国200都市の大空襲と原爆投下は日本民族が永遠に忘れてはいけない悲劇です。忘れないで永遠に戦争をしないことが重要なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================================-
アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧:
戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。
内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂
根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。
名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、
広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)