後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

人生の目的が明確な人、迷っている人、目的など考えない人

2017年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
時代が変化すると社会風潮や人々の考えが非常に変わるものですね。
こで今日は人生の目的についてどのように時代とともに変わってきたかを一例として書いてみたいと思います。
戦前生まれ、戦後育ちの私はいろいろな時代を生きてきたので時代、時代によって考え方が変わりました。
まず戦後の復興期と経済の高度成長期の間を概観してみましょう。
この期間の特徴は日本には復興と経済成長という明確な国家目標が厳然とあったことです。
そして、この期間には東京オリンピックがあり大阪万博などがありました。そして日本の貿易も次第に増加し国際化が進みました。そのような社会がバブル経済の崩壊の起きた1990年頃まで続きました。
人々の人生観は工業技術の向上と経済の高度成長ということに大きく影響を受けていました。中央省庁の官僚達と政権与党の政治家達はこの国策に協力する人々こそ価値があると言わんばかりの風潮でした。
学校の教育でも人生の目的はそんな社会に貢献すべきだと何度も、何度も教えていました。
ですからその頃に育った日本人の人生の目的は明確でした。日本の復興と経済成長に貢献することでした。自分に合った種々の分野の職業について日本の復興と経済成長に努力することが人生の目的でした。
特に理工科を卒業した者は会社に入社すると技術者として新しい製品の開発と品質向上の為に努力し、それこそが明確な人生目的だったのです。
勿論、このような明快な人生目的は理工系の卒業生に限ったことではありません。経済学や経営学を専門にした卒業生は会社の利潤の増大と日本の経済成長に貢献したのです。
そして芸術家を志望した若者も日本の芸術のレベルが欧米に負けないようにと努力したのです。もちろん芸術には国境がありませんが、当時の日本人は欧米に敗戦したために常に欧米との競争意識があったのです。

その結果、日本のGDPも増大し、アメリカについで世界2位までになったのです。日本の芸術のレベルも上がりました。
その時、1990年前後でしたがバブル経済が崩壊したのです。そうして豊かになってしまった日本には明確な国家目標が無くなってしまったのです。明確な国家目標が無くなってしまったので、社会は混迷の底へと落ちて行ったのです。
それまで人生の目的は国家の成長目的によって明確に縛られていたのです。その縛りが急に解き放たれたのです。
それまで価値ある人生目標として信じていたことが急にぐらついたのです。人々は何を人生目標にして良いか迷い始めました。
その頃から、「自分探しの旅に出る」という言葉がよく流行り出しました。
1990年以前の多くの人々にとっては人生の目的は自明のことでどんな職種でも「努力」が大切にされたのです。
しかし1990年以後の日本人は人生の目的に迷っているのです。そうして人それぞれ違う人生の目的を持つようになります。
学校では人生の目的は日本経済の成長に貢献することだとは教えません。日本の芸術のレベルを欧米と同じになるように努力しなさいとは教えません。自分の才能と好みに合った自分らしい人生目的を自分で探して生きて行きなさいと教えます。
ですからこそ自分探しの旅が流行るのです。
戦後教育を受けた私にとって日本の成長に貢献しない人生の目的を持つことはいけないことだと思っていました、
しかし1990年以後、次第に私はその方が正常な人間らしい生き方ではないかと思うようになりました。その生き方こそ個性の尊重になるのではないかと考えるようになりました。
そしてさらに進んで、人生の目的など議論しても仕方のないことだという思いにもなります。それは幸福とは個人個人によってみな違うのと同じような問題だということに行き着きます。賢い人は人生の目的など議論しないのかも知れません。

それで思い出したことがあります。1990年頃、私はオハイオ州立大学で働いていました。週末は同僚の先生や学生とよくビールを飲みながら人生観を議論したのです。彼等ははっきりと人生は自分のものだからあくまでも自分の好きなように生きると言います。そして国家目標とは関係が無いと断言するのです。これがアメリカの個人主義なのです。

今日、強調したいことは、日本人の人生の目的も、社会風潮の変化とともに時代によって非常に大きく変化するということです。そして人生の目的は人それぞれで各人各様であるのが自然で良いということです。そんなことを考えながら今日も老境の日が暮れて行きます。

今日の挿絵は昨日、東京都薬草植物園で撮ってきた花々の写真です。。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













老境になると人間は驚異的に変わる

2017年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、今日のマスコミは民進党が小池さんの「希望の党」へ合流するというニュースで大騒ぎをしています。安倍政権が倒れるというのです。
しかし老人の私は一向に興奮しません。「それがどうしたの?」と誰かに静かに聞きたいくらいです。兎に角、歴史的に時間をおいて考える癖がついてしまっているのです。そうするとマスコミの大騒ぎも空虚に感じられるのです。
どうも老境になると人間の考えが驚くほど変わるようです。
そこで今日は老境になると人間の考えがどのように変わるのか簡略に書いてみようと思います。
簡略に説明するために次のような3つの例を挙げて説明したいと思います。
(1)原発反対も慰安婦騒ぎも遠い風景になる
(2)我が人生は邯鄲の夢と実感出来ようになる
(3)地方の歴史や文化に強烈な興味が湧いて来る

勿論、人はそれぞれですから、老境になっても若い頃と考え方が全然変わらない人もいます。ですから今日の主張は私自身の場合であって一般化するつもりは毛頭ありません。
さて上記の(1)、(2)、(3)について少し説明をしたいと思います。
(1)原発反対も慰安婦騒ぎも遠い風景になる
私は現役の間は原発賛成派でした。しかし老境になると、原子力発電の危険性をいろいろな視点から詳細に考え出しました。
その結果、日本のように狭い国では原発を止めて、火力発電、水力発電、風力発電、太陽光発電にすべきという考えに変わり、その主張をこの欄に何度も書いてきました。

そして慰安婦問題については、朝日新聞の誤報を厳しく糾弾しながらも、一方で日本が朝鮮を併合した負の遺産について、この欄に具体的な事実を書いてきました。現役で仕事をしていた時は忙しくてこのような問題に関心が無かったのです。
仕事を止めて時間が出来て深く考えるようになったのです。そして後期高齢者になる頃から、原発問題も慰安婦騒ぎも遠い風景を見ている感じになってきました。
どんな大問題も目くじら立てて議論したり嘆いたりしなくなったのです。
そうして、全ての問題は、現在の若い世代の賢さを信じ、彼等に任せるべきだと思うようになりました。

一方、人によっては死ぬ最後の日まで政治問題や社会問題を身近に感じ、喧々諤々の議論をしている人もいます。立派です。そういう方々は青春の心のまま死ぬのです。それも良いものですが、私はすっかり変わってしまいました。

(2)我が人生は邯鄲の夢と実感出来ようになる
若い頃からいろいろな本を読みました。そうしたら「老人になってみないと分からない」という表現があります。老人にならなければ絶対に理解出来ない感じ方や、ことわざや、思想があるというのです。
若い頃は、その言葉が出てくるたびに反発を感じ、しまいには不愉快になったものです。若い頃はこの世のことは全て理性で理解出来るはずだと信じていたのです。ですから「老人にならないと理解出来ない」と言われると自分が馬鹿だと言われたような気分になり、不愉快になるのです。 
しかし自分が後期高齢者から晩期高齢者にさしかかって来ると、成程、そうだ、そのとおりだと膝を叩いて理解出来ることがどんどん増えてきたのです。
その一つに、「人生は邯鄲の夢」という言葉があります。
唐時代の小説にある話です。出世を望んで旅をした若者が、邯鄲という国のある旅籠で粥が出来上がる間に居眠りをして、自分の一生の夢を見るのです。 しかしフト目覚めてみると、まだ粥が出来ていません。若者は人生とはそんな儚い夢なのだと悟って出世の欲を捨て郷里へ帰っていくというお話です。
 
老境にいたればこの人生観を深く理解出来ます。深く同感出来るのです。
若い時や現役の間は自分の人生は、努力によって立派な価値あるものに出来ると信じていました。そして一方では大きな失敗も何度か経験しました。成功して歓喜し、失敗して落胆していました。
 このように自分の人生に体をぶっつけて取り組んでいる間は、人生は一朝の夢だとは考えられないのです。
 しかし仕事も一切止めて、数年間、毎日、山川の景色を眺め、花々を愛して暮らしていると次第に、我が人生は邯鄲の夢だったと実感出来るようになるのです。 

(3)地方の歴史や文化に強烈な興味が湧いて来る
人間は仕事を止め、悠々の身になると、住んでいる土地の歴史や文化に強い興味を持つようになります。
明治維新以来の薩長土肥の政治家や軍人がどのように近代国家を作ってきたかという中央の権力の推移よりも、学校では教えない地方、地方の歴史が老境の好奇心を掻き立てるのです。
従って国内の観光旅行に行っても行く先々の地方の歴史を関連させて考えるようになります。
例えば北海道旅行では富良野や知床や、そして阿寒湖、屈斜路湖、などは雄大な美しい景観を見せてくれますが、あまり歴史的な魅力はありません。
その点、函館は江戸末期から開港され、ロシアやイギリスの領事館もあり古い教会もあります。
明治初年には新撰組と明治政府の最後の決戦もあり、土方歳三が壮烈な最後を遂げた町です。
したがって日本の近代化の過程で、北国にある函館がどのような歴史を歩んだか考えながら観光するのが面白いのです。
一般的に、地方の墓地の墓石を見ながら散策すると、その土地の歴史や当時の人々の感情がそこはかとなく分かってきます。
函館でも、ロシア人墓地とその隣にある函館ハリスト正教会墓地を見に行きました。
ロシア人墓地には1859年に作られたアスコリド号の航海士のお墓も含めて43人のロシア人が眠っています。墓碑はみな大海に向いています。
函館ハリスト正教会の日本人信者が供養を続けているのです。
函館は江戸末期から明治にかけてロシア文化の影響を深く受けた特別な地域だったのです。横濱や神戸よりもロシア文化の息づかいが強く感じられる土地です。

このような函館の歴史は学校では教えません。大学受験の試験問題にも出てきません。
そんな地方の歴史を自分なりに調べて昔の人々の感じ方や人生の過ごし方を想像するのが楽しいのです。そしてそんな昔の人々の人生も一朝の邯鄲の夢なのだと想うのです。

以上のように老境になると時間の余裕が出来いろいろと考えるようになります。自分の利害得失を離れ客観的に考えられるようになります。また狭いながらも自分の人生経験が人間というものの理解を深めます。その結果、私はいろいろと変わりました。
3つだけ具体的な例をあげれば次のようになるのです。
(1)原発反対も慰安婦騒ぎも遠い風景になる
(2)我が人生は邯鄲の夢と実感出来ようになる
(3)地方の歴史や文化に強烈な興味が湧いて来る

今日の挿し絵代わりの写真は老人を象徴しているようなススキの写真です。箱根の仙石原の風景です。写真は、http://jere.blog1.fc2.com/blog-entry-628.html からお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





日本の攻撃で沈んだ連合軍の60隻の潜水艦、嗚呼、戦争の悲劇!

2017年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領と北のロケットマンの子供の喧嘩のような応酬を見ていると戦争が迫って来ているような感じがします。
戦後72年、平和だった日本の人々は戦争の悲劇と惨状を忘れたのでしょうか?
アメリカの尻馬に乗るような安倍総理の発言に多くの人が拍手を送っています。
今ここでもう一度、日中戦争と太平洋戦争で起きた悲劇を思い出してみたいと存じます。
戦後教育を受けた日本人は日本軍の中国大陸における日本軍の悪辣非道な残虐行為をさんざん教わり本や新聞で読みました、
満州引揚とシベリア抑留の苦しみを読みました。
そして太平洋戦争では「バターン死の行軍」や「アメリカ兵の生体解剖」で日本軍の残虐さを知りました。
これらの教育や出版物の情報はすべてアメリカ占領軍が日本に再び軍国主義が復活しないように日本人を徹底的に教育しなおす目的で行われたためだったのです。
従って日本人が戦争の悲劇といえば自分達の親、兄弟、そして日本民族が経験した悲劇だけを思い出します。そしてNHKの常套文句だった『戦争は嫌ですね』という軽々しい言葉を思い出します。
しかし戦争の悲劇を体験したのは日本人と中国人だけではないのです。太平洋地域で約12万人のアメリカ側の兵士が戦死したのです。12万人の兵士とその家族のそれぞれの悲しみがあったのです。
今日はこの連合国側の被害を考えることにしました。
そこでまず、日本軍が沈めた連合国軍の艦船 の概略を示します。出典の、http://kokoteikoku.web.fc2.com/Zakki/Senka.html に感謝し、その前半をそのまま転載します。

・・・日本軍の総合戦果(艦船)の集計を出してみました。・・・
主に太平洋戦記2の史実解説を参考としました。
間違ってるところもあるかと思いますので、気が付いた時に修正していきます。

連合国軍喪失艦船(太平洋戦域)
太平洋戦域で沈んだ連合国軍の艦船です。
喪失したというだけで事故なども含みますのですべて日本軍が沈めたというわけではありませんが、
間接的には貢献しているので日本軍の戦果に含めてもいいかと思います。

戦艦4隻
空母4隻
軽空母2隻
護衛空母(軽装備の空母)5隻
重巡洋艦11隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦74隻
護衛駆逐艦(軽装備の駆逐艦)4隻
潜水艦60隻

日本の潜水艦が撃沈した連合国商船184隻(907000総トン)
爆撃や砲撃などで沈めたものは不明

(1)アメリカ軍
戦艦  2隻(判定  難しいところ。普通の海上なら5隻撃沈だが、港で浅くて3隻復活してるので2隻か)
        オクラホマ(41.12.8  真珠湾攻撃により沈没したが浮揚のまま放置)
        ネバダ(41.12.8  真珠湾攻撃により大破着底したが浮揚修理で復活)
        アリゾナ(41.12.8  真珠湾攻撃により沈没)
        カリフォルニア(41.12.8  真珠湾攻撃により沈没したが浮揚修理で復活)
        ウェストバージニア(41.12.8  真珠湾攻撃により沈没したが浮揚修理で復活)
空母  4隻
        レキシントン(42.5.8  珊瑚海海戦にて沈没)
        ヨークタウン(42.6.7  ミッドウエー海戦後潜水艦の雷撃にて沈没)
        ホーネット(42.10.26  南太平洋海戦にて沈没)
        ワスプ(42.9.15  潜水艦の雷撃にて沈没)
軽空母  1隻
        プリンストン(44.10.24  レイテ海戦にて空襲により沈没)
護衛空母(軽装備の空母)  5隻
        リスカムベイ(43.11.24  潜水艦の雷撃により沈没)
        セントロー(44.10.24  レイテ海戦にて特攻機により沈没)
        ガンビアベイ(44.10.24  レイテ海戦にて砲撃により沈没)
        オマニーベイ(45.1.4  特攻機により沈没)
        ビスマルクシー(45.2.21  硫黄島沖にて特攻機により沈没)
重巡洋艦  7隻
        ノーザンプトン(42.11.30  ルンガ沖夜戦にて沈没)
        シカゴ(43.1.30  レンネル沖海戦にて沈没)
        ヒューストン(42.3.1  バタビア沖海戦にて沈没)
        インディアナポリス(45.7.30  伊58の雷撃にて沈没)
        アストリア(42.8.9  第一次ソロモン海戦にて沈没)
        クインシー(42.8.9  第一次ソロモン海戦にて沈没)
        ビンセンス(42.8.9  第一次ソロモン海戦にて沈没)
軽巡洋艦  3隻
        ヘレナ(43.7.6  クラ湾夜戦にて沈没)
        アトランタ(42.11.13  第三次ソロモン海戦にて沈没)
        ジュノー(42.11.13  第三次ソロモン海戦にて沈没)
駆逐艦  60隻          
        平甲板型(第一次大戦時の旧式駆逐艦)  11隻 
        ファラガット型  3隻
        ポーター型  1隻
        マハン型  7隻
        クレイブン型  4隻
        シムス型  4隻
        リバモア型  8隻
        フレッチャー型  19隻
        A・M・サムナー  3隻
護衛駆逐艦(軽装備の駆逐艦)  4隻
潜水艦  46隻

(2)イギリス軍
戦艦  2隻
        プリンス・オブ・ウェールズ(41.12.10  マレー沖海戦にて沈没)
        レパルス(41.12.10  マレー沖海戦にて沈没)
軽空母  1隻
        ハーミス(42.4.29  セイロン島沖海戦にて沈没)
重巡洋艦  4隻
        コンウォール(42.4.5  セイロン島沖海戦にて沈没)
        ドーセッシャー(42.4.5  セイロン島沖海戦にて沈没)
        キャンベラ(42.8.9  第一次ソロモン海戦にて沈没)
        エクセター(42.3.1  蘭印にて砲雷撃により沈没)
軽巡洋艦  1隻
        パース(42.3.1  バタビア沖海戦にて沈没)
駆逐艦  8隻
潜水艦  4隻

(3)オランダ軍
軽巡洋艦  2隻
       ジャワ(42.2.27  スラバヤ沖海戦にて沈没)
       デ・ロイテル(42.2.28  スラバヤ沖海戦にて沈没)
駆逐艦  7隻
潜水艦  8隻

(4)ソ連軍
潜水艦  2隻

以上の表で注目すべきはイギリスの潜水艦4隻とオランダの潜水艦8隻が沈んでいることです。
多くの戦後教育を受けた日本人は太平洋地域で連合国側がイギリス、とオランダを含めて、れだけ数多くの悲劇が起きたことを知りません。

それでは上に示した表は正しいでしょうか?私は原資料のアメリカ海軍がネット上に発表している以下のような情報を確認しました。

(1)「第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E4%B8%AD%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%81%AE%E5%96%AA%E5%A4%B1%E8%89%A6%E4%B8%80%E8%A6%A7

(2)Tabular Summary of U.S. Submarine Losses During World War II
https://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/rep/WDR/WDR58/WDR58-II.html

原資料は沈没した場所の正確な経度と緯度と月日が示されています。
そして数を付き合わてみると上で示した数字には2,3隻の誤差があるようですが大体において正しいことを確認しました。

さて表題に「日本の攻撃で沈んだ連合軍の60隻の潜水艦・・・・」と示したのは多くの潜水艦は潜水中に爆雷(Depth Charge)によって操縦装置が破壊され浮上出来ずに将校も兵士も窒息死したのです。
戦死の悲劇の深さに上下の差は絶対にありません。しかし潜水艦に閉じ込められ死んでゆくのはやはり大きな苦しみに違いありません。
それを想像しただけで戦争のはかり知れない残酷性が再び認識せざるを得ません。
くどいようですが、戦死の悲劇の深さに上下の差は絶対になのです。補給が無くて南の島々で、そしてその他の戦線で餓死した日本兵と、それぞれの家族の悲しみを思うと戦争の悲劇の大きさと多様性に慄然とします。

トランプ大統領と北のロケットマンの子供の喧嘩のような応酬に扇動されて戦争賛成の気持ちにならないようにすべき時ではないでしょうか。そして戦争の犠牲になった敵味方の全ての人々の冥福を祈ります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================





(1)「特攻隊による400隻艦船の損害に関する米海軍からの公開一覧表」
2017年09月22日 、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama に掲載。

(2)List of Allied vessels struck by Japanese aspecial Attack weapons.
(英語の一覧表は枠で区切ってあり、詳細で明快です!)https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Allied_vessels_struck_by_Japanese_special_attack_weapons
これはアメリカ海軍の公式記録で、以下の資料の原資料になっています。

(3)「特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧」
2017年8月14日掲載、後藤和弘のブログ記事
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20170814


(4)「何故多くの人は特攻は無駄だったと信じているのか?」
2017年9月12日掲載、後藤和弘のブログ記事
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20170912

(5)「特攻で損害を受けた艦船の一覧」(日本語の一覧表です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/特攻で損害を受けた艦船の一覧



孤独な老人の問題を考える

2017年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の日本では高齢化がどんどん進み独り暮らしの老人が次第に増えて来ました。
このような老人は一見孤独で淋しいように見えます。そして誰にも看取られずに死んでしまう孤独死も起きます。
今日は老人の孤独の問題を考えてみようと思います。単なる問題提起であり、正解ではありません。
まず一人暮らしだからといって不幸とは限りません。独り暮らしだからと言って孤独で悲しいとは限りません。
孤独な老人を助けようといろいろ干渉して嫌われることもあります。だからこの問題は簡単な問題ではありません。

そこで議論をなるべく客観的に進める為に一人暮らし老人のいろいろな状態を分類してみます。
(1)これといった原因も無いのに、生涯独身だったので、自然に一人暮らしの老人になっている状態の人々。
(2)長い間幸せな結婚生活をしていたが夫婦のどちらかが亡くなり、そして子供がいなかったので一人暮らしになった人々。
(3)別居している子供や孫もいるが、幸せだった夫婦の一方が亡くなってしまい一人暮らしになった状態の人々。
(4)何度か結婚と離婚をした経験があり、子供もいるが、終いには一人暮らしになってしまった人々。
(5)同性婚をしていて一方が亡くなって一人暮らしをしている人々。この場合は子供はいません。
(6)種々の障害が原因で結婚が出来なくて一人暮らしをしている人々。

上記のように一人暮らしの老人にはいろいろ違った事情があるのです。
ですから一人暮らしの老人を助けようと安易に近づくのは必ずしも良いとは限りません。
人によって孤独が好きで他人に干渉されることを嫌う人々もいます。
それでは一人暮らしで淋しく、不幸で、孤独に悩んでいる人々は上記のどれでしょうか?
(1)の人々は孤独に慣れていますから問題がありません。
(2)の人々は一番悲しい老境を送っているのではないでしょうか?
(3)の人々は子供や孫がいるので一人暮らしでも悲しくありません。何処かで子供や孫が元気に育っていると考えると孤独を感じないのではないでしょうか?
(4)の人々は何度か離婚の経験があるので人生の悲しみに対する耐性が出来ているので、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?
(5)の人々は悲しみに沈んでいると考えられます。
(6)の人々には深く同情せざるを得ません。

以上のように簡単に書くと、皆様は孤独感はそんな簡単に割り切れるものではないとおっしゃると思います。
大体において孤独で、不幸と思い込んでいる人々に対して、他人がその悩みを解消することなど簡単には出来ないのです。

しかし、そのような孤独な老人を助ける方法は一つあります。それは一人暮らしで困っていることを具体的に支援することです。
車の運転が出来ずに買い物や病院通いが出来ない一人暮らしの老人は車で送迎してあげることです。体が動かず、庭が雑草だらけになっていたら雑草刈りをしてあげるのです。一人暮らしの老人の生活を少しでも楽になるように助けるのが良いと思います。
しかしそれもうるさがられないようい控え目にするほうが良いようです。

一人暮らしをしている老人には全く社交性が無く、偏屈な人もいます。そのせいで一人暮らしの老人になっている人がいます。こういう場合は要注意です。どんなに善意で支援して上げても感情的に拒絶され挫折させられることがあります。私はそのような善意の人を知っています。心から尊敬しています。

人間は非常に複雑です。孤独を愛しながら、他人の支援や愛を期待するものなのです。
ですから孤独な老人を助けることは至難の技なのです。

これを書いてしまえば鼻白む方々も多いと思いますが、まあ書かせて下さい。
キリスト教では神様やイエス様が人を愛していますと教えています。
私も神様やイエス様を愛しています。ですから全く孤独になっても信仰の篤い人には孤独の悲しみが無い筈です。しかし人間は弱いものです。イエス様の愛に、四六時中確信が持てないのです。
今日の記事は家内が私より先に旅立ってしまった場合の心の準備として書いたのかも知れません。困ったものです。
さて皆様は孤独を感じ不幸を感じるときがあるでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は心が豊かになるような広い明るい風景写真です。9月15日に甲斐駒岳、八ヶ岳、白樺湖、車山、霧ヶ峰などで撮った風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









カトリック小金井教会の主任司祭だったヨゼフ・ムニ神父の墓参り

2017年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井教会の初代主任司祭として1975年から1988年まで務めてて下さったムニ神父様の墓参りに行きました。カトリック墓地の一つが府中市にあり。ムーニー神父様はそこに眠っているのです。
神父さまは情熱的に信者の面倒を見て下さいました。私共の家にも数回来て下さり、とても親しくお付き合いをして下さいました。
1988年に主任司祭のまま帰天されて、簡素ながら篤い心のこもったお葬式が小金井教会でありました。その場面を昨日のように思い出しながら府中のお墓に花を供え、天国での平安をお祈りしました。
多くの人々は一番強い絆は親子の縁であり、夫婦の絆も強いと思っています。しかしカトリックの神父は一生独身です。子供も孫もいません。でも墓前には花の絶えることが無いのです。神父と信者の絆は、不思議ですが非常に強いのです。

1番の写真の右の木の墓標がムニ神父のお墓です。神父様はアメリカのある修道会の神父だったので東京大司教区の神父様たちの共同のお墓とは離れた場所にお墓があります。

2番目の写真は東京大司教区の神父様たちの共同のお墓です。
私どもが1971年に洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭だった塚本金明神父様はこの共同の墓に眠っています。
とても印象深い神父様でした。その弟子のような山本量太郎さんがムニ神父が亡くなった後で小金井教会の主任司祭として10年間も務めて下さいました。山本量太郎神父は現在はカトリック成城教会の主任司祭です。そんなことを考えながら塚本金明神父様のご冥福をお祈りしてきました。

3番目の写真はこの府中市にあるカトリック墓地の一画にある小金井教会の信者のための共同の墓です。

4番目の写真はマリア様の像です。

5番目の写真はイエス様の像です。
カトリックの墓地のお墓詣りは日本の習慣に従ってお彼岸に行う人々が多く墓地には色とりどりの美しいお花が供えてありました。
久しぶりに塚本神父とムニ神父にお会い出来て幸せでした。いつものように家内はあちこち動いて写真を撮りました。
こうして秋の日も静かに暮れていきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

平成29年諏訪神社秋季例大祭(下仁田秋まつり)のご案内

2017年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
これは古い話です。茫々72年前、鎌倉の御成小学校に通っていた家内の一家が群馬県の奥の山里の下仁田町に疎開しました。
その時、下仁田小学校の同級生だった横山美知彦さんがこの欄に何度も山里の暮らしについて随筆を書いてくれました。
その横山さんから諏訪神社秋季例大祭へのご招待状を頂きました。
下仁田町では小学校の同級会が何度もあり家内と共に私も何度も訪ねた場所です。家内にとっては第二の故郷のような土地です。
そんなこともあるので諏訪神社秋季例大祭へ多くの方々が行くように念じつつご案内申し上げます。

平成29年諏訪神社秋季例大祭(下仁田秋まつり)は今年も年10月7日(土)と8日(日)の2日間開催されます。
7日(土)には山車巡行が14:00時から始まります。8日(日)には御輿渡御が午前 8:00から始まり、午後2時からは 山車巡行が始まります。 
このお祭りは天保年間(1830~1844)より続く歴史ある勇壮な祭りで、神輿渡御や七台の山車が繰り出し巡行します。山車のすれ違う際のお囃子の競り合いは近隣の祭りにはない迫力があり、一方の山車が待ち、もう一方が相手の山車寸前で止まる様子は、梶棒係の腕の見せ所となっています。
また、山車の上では女性の踊り子達が華麗に舞い、祭りに華を添えます。

下仁田秋祭り日程は次の通りです。
■期日
平成29年10月7日(土)・8日(日)
■時間
 7日(土)山車巡行 14:00~
 8日(日)御輿渡御  8:00~
       山車巡行 14:00~
■場所
下仁田町市街地
■アクセス
<電車でお越しの場合>
・JR高崎駅から上信電鉄により約60分、下仁田駅下車
<車でお越しの場合>
・上信越道下仁田ICから約10分
■問合せ先
下仁田町観光協会
TEL.0274-67-7500 FAX.0274-67-7501
写真は昨年の例大祭の様子です。





パリの芸術の香りのする山里の小さな美術館 清春白樺美術館

2017年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
それは本当に小さな美術館です。南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。
エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。そしてエッフェル塔の階段が庭に展示してあります。その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。
白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼が作りました。十字架像は17世紀のものをルオーが彩色しました。
敷地の奥にはパリでルノアールに師事していた梅原龍三郎のアトリエが移築され展示されています。

この一画を清春白樺芸術村と言います。銀座の画廊の主の吉井長三が1983年に作りました。
ここは私の山小屋に近いので何十回も訪れた場所です。先週も行きましたので写真を示します。

1番目の写真は清春白樺美術館の門です。古めかしい鉄門がヨーロッパの雰囲気を出しています。この門を入ると集合アトリエのラ・ルーシュがあります。パリの雰囲気を感じます。

2番目の写真は敷地内にある白樺林の風景です。

3番目の写真は白樺林に隠れた静かな美術館です。ルオーの油彩画多数と、梅原龍三郎、岸田劉生、有島生馬、髙村光太郎、高村智恵子などの白樺派の作品が展示してあります。

4番目の写真は多数展示してあるルオーの作品の一例です。

5番目の写真は入り口にある案内板です。この美術展はよく企画展を開催しています。その予定表は美術館のホームページに出ています。

6番目の写真は清春芸術村にあるレストランです。ここでコーヒーをゆっくり楽しみました。後ろの丸い建物が集合アトリエのラ・ルーシュです。コーヒーを運んできた女性がヨーロッパの人でした。

7番目の写真は美術館の近所のトウキビ畑の風景です。近所は八ヶ岳高原へ続く高台になっていて畑や林の風景がヨーロッパに似ているのです。
そんな風景がお好きな方々へお薦めしたい場所です。
地図は、http://www.kiyoharu-art.com/ に出ていますので、秋の晴天の日に是非お出掛けになっては如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

特攻隊による400隻艦船の損害に関する米海軍からの公開一覧表

2017年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は第二次世界大戦中に陸軍中尉として戦闘機に搭乗していた田中和彦さん宅を訪問しました。そして以下のような資料を整理してそれぞれ10部をお届けしました。
(1)List of Allied vessels struck by Japanese aspecial Attack weapons.
(英語の一覧表は枠で区切ってあり、詳細で明快です!)https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Allied_vessels_struck_by_Japanese_special_attack_weapons
これはアメリカ海軍の公式記録で、以下の資料の原資料になっています。

(2)「特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧」
2017年8月14日掲載、後藤和弘のブログ記事
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20170814


(3)「何故多くの人は特攻は無駄だったと信じているのか?」
2017年9月12日掲載、後藤和弘のブログ記事
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20170912

(4)「特攻で損害を受けた艦船の一覧」(日本語の一覧表です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/特攻で損害を受けた艦船の一覧

その後で田中和彦様にいろいろお伺いしましたら、上記の資料を昔の特攻関係者や遺族に送ったり、知覧の特攻記念館へ送ってみようとおっしゃっていました。
特に遺族の方々は特攻で亡くなった夫や父がどのように状況で亡くなったか知りたいに違いないともおっしゃいます。

そこで今日はアメリカ海軍の公開資料を少し詳しくご紹介したいと思います。
その資料には、連合国側の艦艇の特攻攻撃を受けた月日と、場所の緯度と経度が明確に書いてありますので、日本側の出撃月日と攻撃の目的地が分かれば特攻の方々が、どのように状況で亡くなったかが判明する可能性があります。

そこで上記の資料で一番重要な(1)の題目と、冒頭部分と、膨大な一覧表の一部を示します。

題目は、『List of Allied vessels struck by Japanese special attack weapons』です。

冒頭に連合軍の400以上の艦船が終戦直前の12ケ月に特攻の攻撃を受け、損傷あるいは沈没してたと書いてあります。
神風の突入は一機だけでなく同じ艦船に最大6機も突入したとも書いてあります。
そして名前の「神風」は1274年と1281年のクビライ汗の元寇の時の台風を神風と呼んだことに由来しているとも書いてあります。

冒頭部分の英語は以下の通りです。
There were more than 400 Allied vessels struck by Japanese special attack weapons in the last twelve months of World War II, including some vessels that were struck as many as six times in one attack.[1] The one special weapon that is most often associated with World War II is the Japanese kamikaze aircraft. Kamikaze was used to describe the way the Japanese believed they would be victorious by destroying the Allied fleet by crashing aircraft into their ships. The word kamikaze originated as the name of major typhoons in 1274 and 1281, which dispersed Mongolian invasion fleets under Kublai Khan. ・・・以下省略します。

この報告書の始めの数ページに戦闘機の神風だけでなく以下のような全ての特攻兵器の解説が記載してあります。

Kamikaze aircraft;
Standard IJN and IJA aircraft
Ohka(桜花)
Tsurugi(剣)
Toka
Shusui
Hiryu To-Go
Shinryu(神龍)
Maru-Ten
Baika

Boats:
Shin'yō(震洋)
Maru-Ni(四式肉薄攻撃艇)

Midget submarines:
Ko-hyoteki
Kaiten(回天)
Kairyu(海龍)
Fukuryu(伏龍)

Land-based suicide weapons:
Nikaku
Giretsu Kūteitai

特攻兵器の解説のあとで損傷を受けたり、撃沈された艦船のリストが数十ページあるのです。
このリストで特にご注目して頂きたいのは攻撃を受けた月日と緯度、経度で示した精確な場所が明示してあることです。
このアメリカ側の資料には特攻攻撃を受けて黒煙を上げている艦艇の凄惨な写真も多数掲載されておりますが、、あまりにも衝撃的な写真なので、ここでは敢えて転載を差し控えます。
そのような衝撃的な数多くの写真を見ていると、特攻攻撃だけでなく戦争で亡くなられた全ての方々とその遺族の方々のことを想います。敵味方の区別なく戦争で悲劇にあった全ての方々を想います。戦争は本当に悲劇です。
そこで亡くなった全ての方々の冥福を祈りながら花々の写真をお供えいたします。9月14日に甲斐駒の麓の高原で撮った写真です。










さて本題に戻り、『損傷を受けたり、撃沈された艦船のリスト』の一覧表をご紹介いたします。

この一覧表の各欄には損害を受けた艦船目、型式、損傷か沈没か、正確な場所の緯度、経度、情報源などが順々に記載されています。
英語で記せば、Ship、 Type、Damaged or Sunk、 Date、 Location、 Sourceとなります。

見やすく枠で区切った一覧表は原文にありますので、以下のURLを是非クリックしてご覧下さい。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Allied_vessels_struck_by_Japanese_special_attack_weapons

以下の表にあるDestroyerは駆逐艦であり、cruiserは巡洋艦であり、Aircraft carrierは航空母艦です。そしてAttack cargo shipは武装輸送船であり、Fleet oilerは油送船であり、Battleshipは戦艦であり、Minesweeperは掃海艇です。他に、minelayerは機雷敷設艇であり、Personnel Transport Shipは兵員輸送艦であり、Attack personnel transport shipは武装兵員輸送艦です。Submarin(潜水艦)は含まれていません。
それからアメリカ海軍では、海軍保有の艦には艦名にプリフィクス・コード(接頭辞)としてUSS(United States Ship)を付け、米国海軍艦籍であることを示しています。 ちなみにイギリスでは "HMS" ですが、"HMS" が軍艦にしか付けられないのに対し、"USS" は船舶全てに付けています。HMASはオーストリア海軍のプリフィクス・コード(接頭辞)です。

それではオーストリア海軍の駆逐艦、重巡洋艦、虚空母艦から始めます。
HMAS Arunta
Destroyer Damaged 5 January 1945 14°00'N, 120°00'E Cressman, p 604
Sea Power Centre - Australia

HMAS Australia (D84)
Heavy cruiser Damaged 5 January 1945 14°00'N, 120°00'E Cressman, p 604
Sea Power Centre - Australia

HMAS Australia (D84)
Heavy cruiser Damaged 6 January 1945 16°20'N, 120°10'E Cressman, p 604
Sea Power Centre - Australia

HMAS Australia (D84)
Heavy cruiser Damaged 8 January 1945 16°22'N, 120°12'E Cressman, p 606
Sea Power Centre - Australia

HMAS Australia (D84)
Heavy cruiser Damaged 9 January 1945 16°22'N, 120°12'E Cressman, p 607
Sea Power Centre - Australia

HMS Formidable (R67)
Aircraft carrier Damaged 4 May 1945 26°01'N, 237°26'E' Cressman, p 673
naval-history.net

HMS Formidable (R67)
Aircraft carrier Damaged 9 May 1945 Off Okinawa Cressman, p 676
naval-history.net

HMS Indefatigable (R10)
Aircraft carrier Damaged 1 April 1945 Off Okinawa Cressman, p 653
[1]

HMS Indomitable (R92)
Aircraft carrier Hit[54]
4 May 1945 26°01'N, 237°26'E Cressman, p 673
[2]

ここで中間部分を省略してアメリカ海軍の艦船の損害の一覧へと進みます。

USS Stafford (DE-411)
Destroyer escort Damaged 5 January 1945 14°00'N, 120°00'E Cressman, p 604
DANFS

USS Stanly (DD-478)
Destroyer Damaged[43][90]
12 April 1945 27°12'N, 128°17'E Cressman, p 661
DANFS

USS Starr (AKA-67)
ex SS Star
Attack cargo ship (Built as a Type C2-S-AJ3 ship) Damaged[20][91]
9 April 1945 26°20'N, 127°44'E Cressman, p 659
DANFS

USS Sterett (DD-407)
Destroyer Damaged 9 April 1945 26°47'N, 128°42'E, picket station #4 off Okinawa Cressman, p 659
DANFS

USS Stormes (DD-780)
Destroyer Damaged 25 May 1945 27°06'N, 127°38'E Cressman, p 683
DANFS

USS Suwannee (CVE-27)
Aircraft Carrier, escort Damaged 25 October 1944 09°45'N, 126°42'E Cressman, p 563
DANFS

USS Swallow (AM-65)
Minesweeper Sunk 22 April 1945 26°10'N, 127°12'E Cressman, p 664
DANFS

USS Taluga (AO-62)
Fleet oiler Damaged 16 April 1945 26°03'N, 127°26'E Cressman, p 664
DANFS

USS Tatum (APD-81)
ex DE-789
Troop transport (high speed) Damaged 29 May 1945 26°40'N, 127°50'E Cressman, p 686
DANFS

USS Telfair (APA-210)
Attack personnel transport ship Damaged[92]
2 April 1945 25°56'N, 127°17'E Cressman, p 653
DANFS

USS Tennessee (BB-43)
Battleship Damaged 12 April 1945 26°00'N, 128°00'E Cressman, p 661
DANFS

USS Terror (CM-5)
minelayer Damaged 01 May 1945 26°10'N, 127°18'E Cressman, p 671
DANFS
Rielley (2010), pp 252, 323
USS Thatcher (DD-514)
Destroyer Damaged 20 May 1945 26°33'N, 127°29'E, off Okinawa Cressman, p 681
DANFS

USS Thatcher (DD-514)
Destroyer Damaged 19 July 1945 26°15'N, 127°50'E Cressman, p 717
DANFS

USS Ticonderoga (CV-14)
Aircraft carrier Damaged[93]
21 January 1945 22°40'N, 122°57'E Cressman, p 613
DANFS

USS Twiggs (DD-591)
Destroyer Damaged 28 April 1945 27°12'N, 128°16'E Cressman, p 669
DANFS

USS Twiggs (DD-591)
Destroyer Sunk[94]
16 June 1945 off Senaga Shima Cressman, p 695
DANFS

USS Tyrrell (AKA-80)
ex SS Tyrrel
Attack cargo ship
Built as a type C2-S-AJ3 ship Damaged[95]
2 April 1945 26°21'N, 127°45'E Cressman, p 653
DANFS

USS Underhill (DE-682)
Destroyer escort Sunk[35][96]
24 July 1945 off Luzon, 19°20'N, 126°42'E Cressman, p 719
DANFS

USS Vammen (DE-644)
Destroyer escort Damaged[20][97]
1 April 1945 26°18'N, 127°29'E Cressman, p 652
DANFS

USS Wadsworth (DD-516)
Destroyer Damaged 22 April 1945 26°10'N, 126°24'E Cressman, p 664
DANFS

USS Wadsworth (DD-516)
Destroyer Damaged 28 April 1945 26°47'N, 126°38'E, off Okinawa Cressman, p 669
DANFS

USS Wake Island (CVE-65)
Aircraft carrier, escort Damaged 3 April 1945 26°05'N, 128°57'E, off Okinawa Cressman, p 654
DANFS

USS Walke (DD-723)
Destroyer Damaged[100]
6 January 1945 16°40'N, 120°10'E Cressman, p 605
DANFS

USS Walter C. Wann (DE-412)
Destroyer escort Damaged 12 April 1945 26°17'N, 127°20'E Cressman, p 661
DANFS

USS War Hawk (AP-168)
Personnel Transport Ship Damaged[20]
9 January 1945 16°20'N, 120°10'E Cressman, p 607
DANFS

USS War Hawk (AP-168)
Personnel Transport Ship Damaged[20]
10 January 1945 16°06'N, 120°14'E Cressman, p 607
DANFS

USS Ward (APD-16)
ex DD-139
Troop transport (high speed) Sunk[102][103]
7 December 1944 10°51'N, 124°33'E Cressman, p 589
DANFS

USS Wesson (DE-184)
Destroyer escort Damaged 7 April 1945 26°48'N, 127°55'E Cressman, p 658
DANFS

USS West Virginia (BB-48)
Battleship Damaged 1 April 1945 26°20'N, 127°40'E Cressman, p 652
DANFS

USS White Plains (CVE-66)
Aircraft carrier, escort Damaged 25 October 1944 off Samar DANFS
DANFS

USS Whitehurst (DE-634)
Destroyer escort Damaged 12 April 1945 26°04'N, 127°12'E Cressman, p 661
DANFS

USS William C. Cole (DE-641)
Destroyer escort Damaged 24 May 1945 26°45'N, 127°52'E Cressman, p 682-683
DANFS

USS William D. Porter (DD-579)
Destroyer Sunk 10 June 1945 27°06'N, 127°38'E Cressman, p 693
DANFS

USS Wilson (DD-408)
Destroyer Damaged 4 April 1945 Off southern end of Kerama Retto Cressman, p 655
DANFS

USS Wilson (DD-408)
Destroyer Damaged 15 April 1945 26°03'N, 127°20'E, off Okinawa Cressman, p 663
DANFS

USS Witter (DE-636)
Destroyer escort Damaged 6 April 1945 26°04'N, 127°52'E Cressman, p 655
DANFS

USS YDG-10
Degaussing vessel Damaged 27 May 1945 26°00'N, 128°00'E Cressman, p 684

USS YMS-311
Motor minesweeper Damaged 6 April 1945 26°38'N, 127°48'E Cressman, p 655

USS YMS-321
Motor minesweeper Damaged 6 April 1945 26°00'N, 128°00'E Cressman, p 655

USS YMS-327
Motor minesweeper Damaged[105]
4 May 1945 26°32'N, 126°58'E Cressman, p 673

USS YMS-331
Motor minesweeper Damaged[20]
15 April 1945 26°15'N, 127°36'E Cressman, p 663

USS YMS-81
Motor Minesweeper Damaged 7 April 1945 26°35'N, 127°53'E Cressman, p 658

USS Zeilin (APA-3)
Attack personnel transport ship Damaged[106]
12 January 1945 15°23'N, 119°25'E Cressman, p 609
DANFS

USS Zellars (DD-777)
Destroyer Damaged 12 April 1945 26°00'N, 128°00'E Cressman, p 661
DANFS
=========================================================
あまりにも長い一覧表なので随分と省略しました。

見やすく枠で区切った一覧表は原文にありますので、以下のURLを是非クリックしてご覧下さい。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Allied_vessels_struck_by_Japanese_special_attack_weapons

この公開資料の活用の仕方について皆様のご意見や、ご提案をお待ちしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==================
日本軍の特攻兵器一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E5%85%B5%E5%99%A8

専用兵器;

水中
回天(人間魚雷)
海龍(特殊潜航艇)
伏竜(人間機雷)
水上
震洋(爆装特攻艇)
マルレ(四式肉薄攻撃艇)

空中
桜花
梅花

神龍
桜弾(体当たり爆弾)
タ号

改修兵器
航空機
戦闘機

零式艦上戦闘機
一式戦「隼」
三式戦「飛燕」
四式戦「疾風」
二式複座戦闘機「屠龍」
九七式戦闘機
爆撃機・攻撃機
九九式双発軽爆撃機
九九式襲撃機
九九式艦上爆撃機
彗星
四式重爆撃機
銀河
艦上攻撃機「流星」
九七式艦上攻撃機
天山

練習機
九九式高等練習機
二式高等練習機
白菊
九三式中間練習機
その他
百式司令部偵察機
九八式直協機
零式水偵
零式水観
九四式水偵

「八ヶ岳高原の初秋の風景をお楽しみ下さい」

2017年09月21日 | 写真
今朝はミャンマーのロヒンギャ族の弾圧という暗い内容の記事を掲載しました。憂鬱な気分なので明るい八ヶ岳高原の初秋の風景写真をお送りいたします。先週の9月14日に撮りました。









マスコミが報道しないロヒンギャ族の虐殺とスー・チーさんの苦悩

2017年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
アジアでは、いろいろな歴史を背負った民族がお互いに戦争ををしたり領土を合併したりしてきました。その過去の歴史が負の遺産として現在も民族同士の対立と抗争に連綿とつながっているのです。
例えば日韓関係も日中関係も日本が歴史の負の遺産を背負っているので簡単には友好関係が築けません。
しかし広くアジアを見渡せば他にも沢山の民族間の争いが続いている例が沢山あります。
日本のマスコミにはほとんど報道されていなかったミャンマーでのロヒンギャ族の排斥と殺戮もその一つです。
今日はこのミャンマーで1982年から続いるロヒンギャ族の排斥と殺戮を取り上げてみたいと思います。
この惨劇は最近も起き、事実上の国家元首であるスーチーさんが殺戮を続行している軍部を止めることが出来ないのです。
欧米の自由と民主主義を旗印に軍事政権を倒した筈のスーチーさんが軍部の暴走を止められないのです。
この事態に欧米は敏感に反応して、欧米では盛んに報道されました。以下はアメリカのNews Week が今年の3月に報じたことです。

『祖国ミャンマーでやまない民族浄化、そこから逃れた異国でも続く「無国籍難民」の知られざる苦悩』
(News Week、日本語版、2017年3月28日号掲載の特集記事より転載、http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/09/21-10.php)
ホロコーストは言わずと知れた第二次大戦中のドイツ・ナチス政権による国家的・組織的なユダヤ民族の迫害と殺戮のことだ。だが、国家的・組織的な民族迫害は過去の歴史ではない。今もアジア、それも民主化したはずのミャンマー(ビルマ)で起きている。この国で続く悲劇は現代のホロコーストと言える。
その犠牲者はロヒンギャ。ミャンマー南西部のラカイン州を主な居住地とするイスラム系少数民族だ。国民の95%を仏教徒が占めるミャンマーにおいて宗教的少数派だが、古くからこの地に暮らす。にもかかわらず、軍事政権が「ミャンマー人」を定義した1982年の国籍法によって無国籍状態に置かれ続けている。
その結果、政府や軍による暴行や強奪、殺戮の対象となり、祖国を脱出する人々が後を絶たず、「世界で最も迫害されている人々」とも呼ばれる。

実際、迫害から逃れるため外国を目指すロヒンギャ難民は拡大の一途をたどる。しかし、ようやく故郷を逃げ出した彼らを待つのが密航業者の「奴隷船」と「難民収容所」だ。
2015年には、ロヒンギャ難民をすし詰めにした船が海上で密航業者に放置され、漂流する事件が発生した。多くの場合、ミャンマーから目的地のタイまで船旅で長時間かかる。その間、灼熱の太陽にさらされ、食事は少しの米だけ。水もわずかしか与えられず、餓死すれば海に捨てられる。
たどり着いたタイ国内の密林の収容所で、男性のロヒンギャ難民は暴行、女性はレイプされる運命が待っている。タイの漁船で奴隷労働を強要される実態も発覚した。
難民受け入れやイスラム差別、不法移民の国外追放......現在、世界で政治問題化しているあらゆる悲劇を抱え込んだような存在ゆえ、ロヒンギャは難民問題として報道される。だが、本当に深刻なのは、ミャンマー政府がロヒンギャを標的に進める民族浄化策だ。
新たに始まった残虐過ぎる民族浄化は次のとうりなのだ。
2015年の総選挙で、ノーベル平和賞受賞者でもある民主化運動リーダーのアウン・サン・スー・チーを事実上の元首とする新生ミャンマーが船出した。軍事独裁政権に別れを告げ、民主化したはずの新政府だが、スーチーと与党・国民民主連盟(NLD)はロヒンギャ迫害を止めようとせず、虐殺行為は今も続いている。
直近の悲劇は昨年の2016年10月に始まった。「ロヒンギャ武装集団による国境警官の殺害事件」を口実に、ミャンマー政府軍がラカイン州で攻撃を開始。ロヒンギャが住む3つの村で合計430の住居が軍隊によって破壊され、村全体が焼き打ちを受けた。衛星写真に映る襲撃後の村は住居が消え、更地のようになっている(3番目の写真)。
焼き打ちから逃れた村人が国連の調査団に語った当時の生々しい様子は、筆舌に尽くし難い。・・・以下省略います。

下の写真をご覧下さい。

1番目の写真は破壊されたロヒンギャの村を歩く少年です。Sof Zeya Tun-REUTERS

2番目の写真はロヒンギャが多数住むミャンマーのラカイン州と難民の集まるバングラデッシュの東部を示す地図です。

3番目の写真は軍に焼き打ちされる以前のロヒンギャ居住区(上)とその後の写真です。衛星写真に映る襲撃後の村は住居が消え、更地のようになっています。(c)HUMAN RITGHTS WATCH

アメリカのNews Weekは流石に質の高いニュース雑誌だけあって、ロヒンギャ族の排斥と殺戮を歴史的に考察しています。このような国際紛争の歴史的考察は日本のマスコミにあまり無いので以下にご紹介いたします。
・・・ロヒンギャに対する迫害と難民の歴史は、古くは18世紀にまでさかのぼる。
ロヒンギャの多くが住むミャンマーのラカイン州には、紀元前から続き15~18世紀に栄えたアラカン王国があった。ロヒンギャはその時代からこの地に暮らすイスラム教徒だ。
ロヒンギャの運命が大きく変わり始めたのは隣国ビルマのコンバウン王朝がアラカン王国を征服した1785年。迫害を逃れるため、多くのロヒンギャが現在のバングラデシュに逃げ込んだ。「難民」ロヒンギャの始まりだ。

ビルマのコンバウン王朝がイギリスとの戦いに敗れ、1826年にラカイン州が植民地になると、多数のロヒンギャがこの地に戻った。イギリスは1824年にビルマのコンバウン王朝に侵攻し、1886年、全土をイギリスの植民地にした。そして1948年にミャンマーがイギリスの植民地支配から独立した後、新たなロヒンギャへの迫害が始まった。
1962年にクーデターで権力を掌握したネウィン将軍は78年、南アジア系住民をミャンマーから追放する「オペレーション・ナガミン(竜王作戦)」を決行。排斥対象になったロヒンギャは殺戮や婦女暴行、宗教弾圧で最大の被害者になった。
約20万人のロヒンギャが現在のバングラデシュに逃げ込み、食料も安全も保障されない生活を送る羽目に陥った。国連による難民キャンプが設立されたのはこの頃だ。
ネウィン軍政はその後も手を緩めることなく、次は法的な手段でロヒンギャ排除を加速させた。
1982年に制定された「国籍法」はその最たるもので、現在のミャンマー政府に至るまでロヒンギャ弾圧を正当化させるよりどころになっている。ミャンマー国民を「イギリスがミャンマーに侵攻する前年の1823年以前から定住する民族」と法的に定義付けたことで、ロヒンギャは法的にも排斥の対象となった。
ロヒンギャの総数200万人とも300万人とも言われ、イギリスからの独立後、追放されたり虐殺から逃れるため国外へ脱出したロヒンギャは160万人ともみられている。そして今この瞬間も、祖国ミャンマーから逃げ出している。
======================================
このロヒンギャ難民へ助けるために日本政府は4億5000万円の緊急人道支援をすると発表しました。欧米が騒ぎ出した随分後になってからの発表だったことは残念です。

このミャンマーの惨劇がアジアにおける民族抗争の一例に過ぎません。西の中東ではベドウイン族が独立国家を作ろうとしています。そして中東の戦乱は絶えることなく続いています。
東の中国では共産党独裁政権がチベットを併呑しています。ウイグル族の土地も領土にしています。
日本には関係が無いからと無関心でいれば民族間の理不尽な戦争が絶えません。日本人は欧米のことだけでなくアジアの民族抗争にもっと関心を持つべきではないでしょうか。

最後に一言書かせて下さい。今回のロヒンギャ弾圧のTV番組で、仏教国、ミャンマーの黄色い袈裟を着た偉そうな僧侶がイスラム教徒のロヒンギャ族を殺すことに反対しないという趣旨の意見を言っていました。おやおや、お釈迦さまの教えは何処にいったのでしょう?
一神教は残酷で、仏教は平和的だと言う日本人は間違っているような光景でした。残念ですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今年、最初の黄葉の風景、白樺湖畔のアカシア」

2017年09月20日 | 写真
春にロマンチックな香りの良い白い花をたくさんく咲かせるアカシアの木です。先週、車山から霧ヶ峰に上がる途中の白樺湖の周囲に絢爛とした黄葉の風景を見ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









最近の日本人の真珠湾攻撃への考え方の大きな変化

2017年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
最近よく聞く意見です。真珠湾攻撃はアメリカの経済封鎖が原因になっている。日本は止むを得ず攻撃せざるを得なかった。だから悪いのはアメリカであり、日本は悪くない。太平洋戦争はアメリカが仕組んだ戦争だった。このような意見を何度も聞くようになりました。
戦前生まれ、戦後育ちの私は真珠湾攻撃は卑怯な騙し討ちで、日本が悪いという考え方をさんざん聞いて育ちました。何度も何度もそのような論説を新聞や雑誌で読み、ラジオから聞きました。日本が再び軍国主義にならないように占領軍が検閲を厳しくして、「真珠湾攻撃は卑怯な騙し討ちで、日本が悪い」という情報を流し続けたのです。
高齢な日本人は皆それを信じていました。
それなのに驚くべきことに、最近、真珠湾攻撃はアメリカの日本に対する経済封鎖が原因だから悪いのはアメリカだという意見をよく聞くようになりました。
流石に新聞には出ませんがインターネットの世界ではこのような意見が堂々と言われています。
私の今日の記事では日米のどちらが正しく、どちらが悪いかを論じません。
今日はこのような最近の日本人の真珠湾攻撃への考え方の大きな変化の原因の一つを指摘したいと思います。
その原因の一つはアメリカが日本の軍備強化を急に期待するようになったという情勢変化です。
北朝鮮が水爆弾頭の長距離ミサイルを太平洋へ発射しているのです。
中国もロシアもアメリカと軍事的に厳しく対立しています。
昨日の産経新聞電子版には次のような報道があります。
ロシアと中国の海軍は9月18日、極東ウラジオストクの軍港周辺で合同軍事演習を開始した。22~26日には日本海とオホーツク海の海上で演習を実施する。北朝鮮の核・ミサイル開発を受けて、米軍の最新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」の韓国配備や合同軍事演習など朝鮮半島周辺で軍事圧力を強める米韓や日本を牽制し、中露の緊密な連携を誇示する狙いがありそうだ。
 中国国営新華社通信などによると、中国はミサイル駆逐艦とフリゲート艦、補給艦、潜水艦救難艦の4隻と陸戦隊(海兵隊)を派遣。中露海軍から計13隻の艦艇や潜水艦が参加する。
 合同演習は2012年以降毎年実施されているが、オホーツク海では初めて。同海域は米本土を狙う戦略原潜が活動するロシアの要衝だ。中国の軍事専門家は18日付の環球時報で、北方領土に接する海域での合同演習を通じて「日米の北東アジアでの軍事プレゼンスに影響を与えることができる」と指摘。中国の北極海進出との関連も指摘した。

また同じ産経新聞電子版には次のような報道もあります。
韓国国防省によると、米空軍は9月18日、B1戦略爆撃機2機とF35最新鋭ステルス戦闘機4機を韓国に派遣し、韓国空軍のF15戦闘機と合同訓練を行った。
 国防省は、来月にかけ朝鮮半島周辺に米軍の戦略兵器を展開し、日本も加えた合同演習・訓練を行うことも明らかにした。日米韓による北朝鮮のミサイルを海上で探知・追跡する訓練が計画されているほか、米軍の原子力空母が参加しての合同演習も行う。

以上のように北朝鮮だけでなく、米国、韓国、中国、ロシアなどが日本海で大規模な軍事演習を実施しているのです。
日本を取り巻く国々が軍事的に緊張しているのです。この情勢を騒ぎ立てて、いたずらに煽り立てるべきではありません。
しかしこのような状況は必然的に日本人の考え方へ影響するのは自然なことではないでしょうか?
アメリカは真珠湾攻撃で日本への非難を継続するよりも、日本の自衛隊の大規模な合同演習への参加を促進したほうが良いのでしょう。

過去の太平洋戦争にこだわるよりも、北朝鮮やロシアや中国からのアメリカへの攻撃の阻止に自衛隊がもっと大規模に協力することが期待されているのです。
このような情勢変化の影響はいろいろあります。例えば、韓国の慰安婦問題も静かになりました。問題が解決したわけでは無いのです。
中国がロシアとの連携を深め、陰で北朝鮮を支援していても不思議ではありません。

日本の立場は本当に難しいことになっています。安倍総理の賢い外交戦略の成功を祈るだけです。

今日の挿し絵代わりの写真は神奈川県の丹沢山系の麓にある宮ケ瀬湖の風景写真です。昨日撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









「アスペルガー症候群に適切に対処したある方の賢い生涯」

2017年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
人間が生れる前、胎児の間に脳機能の発達が正常に進まず、学校や会社での集団生活が上手に出来ない障害が出ることがあります。いろいろな症例がありますがそれらを発達障害と言います。その主なものに20年前に広汎性発達障害とか、アスペルガー症候群と呼ばれていたものがあります。それを最近は自閉症スペクトラムと呼ぶようです。
正しい理解が無くて発達障害者が困った状況に置かれ不幸な人生を送ることが少なくありません。
そこでこの発達障害の正確な理解を普及するためにこの欄で以下のような啓蒙記事を掲載して来ました。
『やはり日本の学校教育には問題がある』2017年04月13日 掲載
『見えない障害のために転職を繰り返す人とその周りの方に贈る書』2017年05月09日 掲載
『発達障害は精神病でなく脳の機能障害、間違った対応が不幸を作る』2017年05月11日 掲載
『母親の子に対する圧倒的な愛の力』2017年05月28日 掲載

今回は「アスペルガー症候群に適切に対処したある方の賢い生涯」をご紹介したいと思います。
しかしその前に2017年05月28日 掲載の記事の抜粋をお送り致します。
===『Esu KeiさんとGotoとの対談:発達障害について』=========
Gotoテレビなどでも発達障害という言葉を時々聞きますね。どんな障害なのですか?いろいろな種類があるのですか?

Esu この障害は精神の障害と思われがちですが、実際には脳の機能障害だそうです。障害という言葉を使うことには迷いがありますが、持って生まれた特質や、傾向が社会の中で生きていくのに困難となる場合(社会参加ができない場合)、障害と呼ばれます。発達障害の種類については現在の分類は私にはよく分かりません。20年前に広汎性発達障害とか、アスペルガー症候群と呼ばれていたものを最近は自閉症スペクトラムと呼ぶようです。これらが自閉症の連続の中にあると分かってきたからでしょう。

Goto 息子さんの発達障害はなんという障害ですか?症状などは?プライバシーの問題がない範囲で聞かせてください。

Esu 息子もこのインタビューを承知していますし、自分のことを知ってもらうことに意味があると思っているようです。彼は中学入学前までは、主に外国で育っていましたが、10歳で日本人学校に移って以来、集団に全くなじめず、苛めやいろいろな問題が起きて、成人するまでにすっかり意欲を失っていました。長男がアスペルガー症候群と診断されたのは26~27歳くらいの時でした。その3年前くらいに、テレビのドキュメンタリー番組を見たのがきっかけで、アメリカから平易な文体で書かれた本を取り寄せたりして、私は自閉症を疑いました。ただ幼いころから言葉の発達が非常に早かったので、そういう例外的な自閉症もあるのかもしれないと思っていました。
症状ですが、集団になじめないことこそが端的にアスペルガー症候群の特徴のようでした。アスペルガー症候群または自閉症スペクトラムとひとくくりに言っても、ひとりひとりは実に様々な人間像を持っていて、共通項は何かというと、はっきりしているのは、人間関係の困難を抱えていること、こだわりが強い(こだわりの対象は個々違うのですが)ことの2つのような気がします。体力も、能力も、性格も様々で、その辺に共通項はないように思いますが、ただこだわりが強い分、神経質で、好みの許容範囲が狭い気がしますし、神経が耐えない場面では疲れやすく苛立ちやすいように見えます。2つの特徴以外にもこの障害の特徴とされることはいくつもありますが、現れ方に違いや差があって分かりづらいこともあるので専門家でない私が説明をすることはできません。

Goto 適切な診断医はどうしたらみつかるのでしょう。

Esu 今では発達障害の専門医も増えているし、専門外の医師でも少なくともこの障害を知らないということはありませんから、20年前に比べればずっと早く診断がつくようになっていると思います。最初は相談センターや互助組織などが窓口になってくれるのではないでしょうか。ただ、特に精神に関することですから、当人と相性のいい先生に出会えることが大事だと思います。早く障害が分かって、適切な対処ができることは、本人が無用に苦しまないためにも、将来の二次障害を防ぐためにも大変重要だと思います。息子の場合もそうでしたが、20年位前までは成人してから障害が分かる人が多かったのです。目に見えない障害で、知的障害もないと分かりにくく、今でも、成人してから障害が分かる場合もあります。以前は軽度発達障害などと呼ばれていましたが、本人の抱える困難は軽度どころではなく、積み重なった分だけ重い障害になることもあります。そういう人にも丁寧に対応できる医師やセラピストが増えることを切望します。

Goto 障害がわかったら家族は何ができるでしょうか?職場はどのように対処できるでしょうか?

Esu まず言いたいことは、障害という名前に驚いてはいけないということです。“良し悪しは抜きに、普通と違うところを持っている”と考えた方が良いと思います。実際、特別なセンスや才能を持っている人は多いものです。彼らのユニークなところが生かせるように応援するのが家族です。それはどんな障害でも同じです。息子に「この障害を持つ子供に対して親や家族は何ができるかしら」と聞いてみたことがあります。返ってきた言葉は「愛すること」でした。
===以下省略します==================================
以上を要約すると、
アスペルガー症候群の主な特徴は、次のような”3つ組みの障害”と言われる。
(1)社会的に適切に振る舞うことの難しさ、
他の人と一緒にいるときに、どのように振る舞うべきかの力です。いわゆる空気が読める力と考えてもよいでしょう。
(2) コミュニケーションを円滑にすることの難しさ、
相手が言っていることを正しく理解する受信の力と、自分の思っていることを相手に伝える発信の力についてです。
(3) こだわりが強く、柔軟に想像・思考することの難しさ、が特徴です。
 自分の安心できるルールや環境を強く求める状態です。生活や働く上で支障が出るほどこだわってしまう方が多くいます。想像力が弱い状態ともいえます。

それでは今回の記事の本題に入ります。
アスペルガー症候群であると自認しているワヤさんという方との対談形式で以下にお送り致します。
===ワヤさんと後藤の対話==================
後藤;「ワヤさん、お元気ですか? ご無沙汰しています。ところで私はアスペルガー症候群のことを調べています。
ワヤさんはご自分で、「・・・私はアスペルガー症候群orサヴァン症候群ですから、一般人のようにイラストを描がき、見栄えの良いホームページが作れません。・・・」とお書きになっていましたが、お差支えない範囲で症状をお知らせ下さいませんか?
学校生活は如何でしたか?協調性に問題はありませんでしたか?
会社勤めにはどんな問題もありませんでしたか?
結婚なさっていますか?
家族生活には問題はありませんでしたか?
ワヤさんは知的には抜群の才能をお持ちと信じていました。
突然、個人的な質問をする失礼の段は御許し下さい。
私はアスペルガー症候群の知識を普及し、差別のない日本にしたいとブログに何度も記事を書いています。
よろしくお願い申し上げます

ワヤさん;
アスペルガーとしての悩み:
アスペルガーは、拘わる関心ごとには特に集中して考察する性格ゆえに、曖昧さの中から解決方法を見通おす能力が優れています。が、一般の人と比べて何らかの性格欠陥を持つ人を指します。したがって、生きていくためには、他人から欠陥を補うだけの支援(energy)を頂けなければ、一般の人のような社会生活を継続できません。

発達障害というものは克服することはできません。人格がどんなに良くても発達障害を克服出来ないのです。他の人々からの支援で補わねばなりません。

私の場合は、マイナスの出来事には強く反応し臆病になります。僅かな失敗が有ると直ぐに手を引っ込めます。記憶力は人並み以上のものがありますが、誰にも読めない文章、与えられた書類が正確に作れない、服装に無頓着・・・などで、相手は現場で単純作業をする、軽薄な私という印象を持ち易いです。その割には気難しい・・・・。
長く付き合わないと私がアスペルガーだと気付く事はありません。

  ★会社での生活★
私は高校を卒業してトヨタ自動車の豊田中央研究所に入社し、希望して上垣外さんのエックス線研究室に入り、そこで上垣外理学博士から、物理の基本を学びました。
また、磯谷理学博士から世の中の成り立ちを学びました。彼から大学に行くべきだと勧められて、大学入学のための家庭教師もしていただきました。
おかげで、名古屋工業大学の夜学に一番で入学し、5年間通いました、その後、昼間の大学院も試験で受かったので、休職して、学校に通いました。
本当は、大学院を卒業後、会社を変われば良かったのですが、大学院から戻ったため、身分的な扱いが高校卒のままとなりました。
社会に通用しない文字しか書けない事や、見栄えの良いプレゼンテーション用のポスター作りも出来ません。幼い時から班長や級長などの指導的な役割のchanceもなかった故に、指導者にも向きません。

代表取締役までなった上垣外さんですから、その辺りの事を良く分かっていたでしょう。他所の会社からの誘いもありました。
しかし、我が会社の自由度は高く、頑張れば自分の研究もできるのです。
私は偶然にも、愛知製鋼から出る還元期スラグと石膏から、新しいセメントができる事を発見したので、愛知製鋼さんからの依頼で、関連会社のコンサルタントを含めて生涯飯を食わせて頂きました。 そこで東北大学出の大橋社長や笹本博彦部長には大変お世話になりました。 
また、前記したように大学院を出たのに高校での待遇です。技師として指示された仕事を、手順を追ってできないので、地位や身分で人を評価する人の中には蔑む人もいます。
逆に、仲間の中には不器用な性格を理解していていて、不器用でプレゼンテーション用のポスター作製時に困った時、協力的な人もいました。
他部署のメンバーおよび若手が、私の能力を買っているので、助けてくれました。勿論、彼らには知っている事はアドバイスを惜しまなかったです。
そのような事から、上記の仕事が自由度も高く、最も適した状態でした。
   ★結婚★
結婚に関しては私の欠点を補完できる人が必要です。公設の結婚相談所で捜した国民年金8万円の家内は、典型的なアスペルガーで全くの人嫌いです。幸い中央大学を卒業し、語彙の知識は辞書並みで、法律や経済にも関心が高く、私の欠点を補完してくれました。
ただ、ビラの作成など私のホームページへの協力はゼロ、ビラ配りも家宅侵入罪が適応される・・・でがっかりです。
で、子供がいないので介護型有料老人ホームに入所する必要があるが、死んで行く過程で必要なenergy(生活費)はどう稼いたか?
それは株式の運用で何とか調達しました。家内も私を真似て何とかしたはずです。 

ワヤさんのホームページ(生命系の進化論)、http://waya.la.coocan.jp/ もご覧ください。
===========================================
私はアスペルガー症候群を背負って生まれて来たワヤさんの生涯は比較的幸せだったと思います。
以上のワヤさんの答から以下のようなことが分かります。
アスペルガーの症例は人によってさまざまなことが分ります。
ワヤさんの場合は集団生活には困難があったようですが、自分を助け、支援してくれる上役の上垣外理学博士や磯谷理学博士や東北大学出の大橋社長や笹本博彦部長へ感謝する脳機能は正常に発達していたのです。
その上役へ対する感謝のおかげで彼の会社生活は退職まで勤めることが出来たのです。
ワヤさんの賢さは会社での職業の場面だけではありませんでした。結婚の相手選びにおいてもワヤさんの欠点を補完できる女性を選んだことにも見られます。その相手もアスペルガー症候群を背負って生まれて来た方だったのです。
もしワヤさんの一生が比較的に幸福だったとしたら、その原因はご自分の障害の内容を客観的に知っていたことでしょう。そして上役へ感謝する脳機能が正常だったことも幸運でした。
その上、就職した会社がトヨタという大企業であり、その技術研究所は非常にリベラルな文化を持っていたことです。ワヤさんの上役も同僚も寛大な気持ちでワヤさんへ接したのです。

結論です。アスペルガー症候群という発達障害は治療方法がありません。出来ることは本人と廻りの人々が適切な対処法を取ることです。適切な対処方法を取ればアスペルガー症候群が原因の「人生の困難を」小さくすることが可能なのです。ワヤさんの生涯はその良い実例なのです。

なおワヤさんは趣味人倶楽部というSNSの会員です。今回引用した文章はワヤさんのご承諾のうえに、ワヤさんの8月29日の日記(https://smcb.jp/diaries/7459666 )から引用しました。
今日の挿し絵代わりの写真は先週撮ってきた八ヶ岳高原に咲くコスモスの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









老境の品格と流れ行く幸せな日々

2017年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
老境という時期は心が平穏で透明になるような気分の日々が流行きます。碧い空に白い雲が流れるように時が流れて行くのです。
現役の間はいろいろな欲望に駆られて暗い気分で過ごしたこともあります。競争心や恐怖で心が乱れたこともありました。
しかし仕事を一切止めて老境になり、その時期がかなり過ぎると、そのような暗い気分から完全に解放され、明るく平穏な気分になります。
このようにして、多くの人々は老境の幸せを深く感じることになるのです。
人生でこんなに心に余裕のある時期はありません。平穏な時期です。
こんな状態になるとせめて毎日を品格のある態度で過ごしたくなります。せめて人生の最後だけでも格調の高い人生を送りたいと思います。そう思うのですけれどなかなか実行できませんが。

それでは格調の高い生き方とはどうすれば良いのででしょうか?
いろいろありますが、私は次のようなことを心がけています。
(1)他人の悪い面を忘れて自然の美しさだけに心を寄せます。
人間のどろどろした欲望や怨念を考えないようにします。それを書くことも一切やめます。そして自然の森の中を散歩したり、足もとの草花を眺めます。写真にも撮ります。
自然の風景が良い高原や湖へ旅をします。海の風景も良いものです。
(2)世界中の国々の人を平等に愛し隣国の人々を好きになる。
人間は皆んな同じように暖かい心を必ず少しは持っているものです。その人間の善意を信じ、外国の人々も分け隔てなく平等に愛します。
この愛のことを人類愛と言うのでしょうか。人間が普遍的に持っている良い面だけを考えるようにすると人類愛が湧き出てきます。
(3)全ての国々には歴史があります。そのいろいろな歴史を尊敬します。
日本の各地方の歴史を石器時代、縄文時代。奈良、平安、鎌倉時代・・・明治、昭和と全ての時代を通して考えるのです。そしてその地方の固有の歴史を尊重するのです。そうすると地方、地方に住んでいる人が皆貴重な存在のように見えます。これが人間尊重の基盤になるようです。

上に書いたようなことを考えながら毎日を暮らして行くと、何故か心豊かな生き方になるようです。

そこで今日は先日撮った草花の写真をお送りします。そして世界中の花々に詳しい「KITAHOのデジカメ散歩」というブログの著者の花々の説明文もご紹介します。このKITAHOさんも格調の高い老境を暮らしている方です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は霧ヶ峰で撮ったマツムシソウの花です。松虫草 の 学名は Scabiosa, Pincushion flower です。
このスカビオサの仲間は、 ヨーロッパを中心として西アジア、アフリカまで約80種類があるそうです。
日本のマツムシソウは八ヶ岳周辺には多く自生しています。特に、飯盛山では群落が簡単に見ることができます。

2番目の写真は白樺湖の湖畔に咲いていたノコンギクの花です。
画像ではノコンギクとヨメナのく別が付きません。参考に、http://net1010.net/2009/10/post_1762.php をご覧ください。

3番目の写真は白樺湖スキー場の入り口で撮ったサラシナショウマです。サラシナショウマはキンポウゲ科 サラシナショウマ属、 学名:Cimicifuga simplex です。これも八ヶ岳界隈ではいっぱい見ることができます。

4番目の写真はムラサキシキブの実です。通常はムラサキシキブと言われていますが、雑木林の中のムラサキシキブと区別して、これはコムラサキと呼ばれます。学名:Callicarpa dichotoma 、コシキブとも呼ばれます。シソ目クマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木です。
雑木林の中にあるムラサキシキブは実の付き方は、たくさん付きません。樹高も3mクラスになります。コムラサキはコンパクトですね。

5番目の写真は蓼科湖のほとりに植えてあったキクイモの花です。キクイモはキク科 ヒマワリ属で学名:Helianthus tuberosus 別名はアメリカイモ、ブタイモとも呼ばれています。北アメリカ原産 帰化植物です。

6番目の写真は清里の清泉寮の前の花の植え込です。

7番目の写真は八ヶ岳ロイヤルホテルの花々の植え込みです。ルドベキア・タカオ・・・・花心が黒く黄色の花です。・・・園芸種、学名:Rudbeckia triloba Takaoです。
ルドベキアは別名:松笠菊(まつかさぎく)と言います。学名:Rudbeckia, Coneflower
で、北アメリカ原産のキク科の植物ですね。花数が多く、最近特に育種が盛んな植物です。

日本の里の秋・・・黄色い稲田、ススキ、そしてコスモスの花

2017年09月15日 | 写真
日本人の心の中の秋の原風景を求めてあちこち行きます。
私の秋の原風景は黄色い稲田、ススキ、そしてコスモスの花です。
毎年、秋になると北杜市の甲斐駒山麓でそんな風景を写真に撮りに行きます。
皆様の秋の原風景はどのようなものでしょうか。
2015年の9月に撮った写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)