サイクリングコースの海岸に又老人達が帰ってきた。
暑い夏は夕方の海風を待って海岸へ涼みに来ていた。
秋になってからは時間帯には関係なく屯して雑談をしている。
ほとんどの顔が毎日同じだ。
私のことも同じように思われていることだろう。
それにしてもゴールが視界に入ってくると、その日の準備をしなければと思うけれど、何をすればいいのかわからない。
おそらく、死は気がつかないうちに後ろから突然現れて私を連れ去るのだろう。
その時の願いは、私を雲の上に連れて行って欲しい。
そこは私の神の国のように思える。
ファウストや神曲を読んでも、又方丈記や歎異抄を読んでも、池田晶子を読んでも実際には向こうのことはわからない。
宗教とは”そのわからないもの”の姿を、見えるような、そして見えないような、あるようで、ないような、ものに作り上げて、終わりの恐怖を喜びへ昇華させようとする。
時間よとまれと叫んでみても、時間の流れは留まらない。
お金も権力もそれを塞き止めれない。
私も毎日時間の列車に乗って終着駅へ向かっている。
暑い夏は夕方の海風を待って海岸へ涼みに来ていた。
秋になってからは時間帯には関係なく屯して雑談をしている。
ほとんどの顔が毎日同じだ。
私のことも同じように思われていることだろう。
それにしてもゴールが視界に入ってくると、その日の準備をしなければと思うけれど、何をすればいいのかわからない。
おそらく、死は気がつかないうちに後ろから突然現れて私を連れ去るのだろう。
その時の願いは、私を雲の上に連れて行って欲しい。
そこは私の神の国のように思える。
ファウストや神曲を読んでも、又方丈記や歎異抄を読んでも、池田晶子を読んでも実際には向こうのことはわからない。
宗教とは”そのわからないもの”の姿を、見えるような、そして見えないような、あるようで、ないような、ものに作り上げて、終わりの恐怖を喜びへ昇華させようとする。
時間よとまれと叫んでみても、時間の流れは留まらない。
お金も権力もそれを塞き止めれない。
私も毎日時間の列車に乗って終着駅へ向かっている。