ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

老人とピアノ

2012-10-22 09:19:07 | Weblog
<ピアノを習い始めた老人の話>
「あれっ、ドとレを又間違えた」何度頭で繰り返し反復してみても錆び付き始めた脳から指令がうまく指先まで伝わっていかない。どうしてもぎくしゃくして思うような音にならない。老眼鏡を掛け直して音符を確認し直して速度を緩めてひたすら鍵盤を追いかけていく。ピアノを弾く感覚よりも読めない点字の上をまさぐるような感触である。スピードを上げてメロディを奏でなければと思うと拍数が乱れ、テンポが狂ってポンコツ車がガタゴト道を走るような具合にゴトン、ガッタン、ゴトンとなって鍵盤の上で指が戸惑ってしまう。思い直して、ドレミファソラシドを両手で繰り返し、繰り返し弾いて指送りを滑らかにしようと試みながら幾度練習を重ねても思い通りの音は出ない。ピアノを習い始める前、音に関する言葉は「大きい、小さい、はやい、おそい」と言った大まかな表現で足りていた。八分音符や十六分音符などの微妙な音の違いに神経を煩わす事もなかった。古稀を過ぎて果たして頭や指が思うように動いてくれるだろうか。もう諦めた方が良いのかもしれない。しかしピアノの音色は聴くたびに心に響くものがあって諦めきれない。少年時代に同級生が弾いていたピアノの音が身体の奥のどこかに留まっているような気がする。戦後の食べ物の不自由な時代にピアノが弾けるなんて不思議でたまらなかった。古稀を迎えて少年時代の夢に挑戦を始めてみたけれど難しい。利き腕の右手の指は何とか言う事をきくけれど左手の指は全く思うように動いてくれなかった。リハビリのように少しずつ慣らしていっても、いざ両手の指を同時に使うと、関係のない足の指まで一緒に動いてしまって困った。原因は半ば錆びついた脳の運動中枢が混乱をきたして調整エラーを起こしていたのだろうが、無視して練習を続けているとそれでも徐々に両手で少しばかり弾けるようになっていった。
 ある日練習の後で縁側のガラス窓から差し込むお日さんの暖かさに包まれて、本を読むともなく寝転がっていると、ぼんやりとした風景の中に木々に囲まれた雑草の茂った窪地が広がっていて、大勢の子供達が整列して先生のタクトの振りに合わせ、大きく口を開けて合唱しているところに出くわした。どこか聞き覚えのあるメロディだがはっきりと思い出せない。それでも身体の奥で響き合っていた。思い出せないわだかまりを振り払うように木立を眺めると木々の間から音の妖精が次々に飛び出して枝から枝へ飛び跳ね、時には腰をおろし、おしゃべりし、また手をつないで駆け出し、スキップやダンスがひとしきり続いて姿が消えた。すると野原の真ん中に一台のピアノが現れた。近寄ると背を丸めた老人が座って、目の前に広げた「小さな木の実」の楽譜を見つめていた。両手を広げて鍵盤にタッチすると突然指が動き始めて音楽を奏で始めた。まるで自動演奏のピアノにスイッチを入れたように軽やかに音を響かせた。老人の斜め後ろから指の動きを見ながら楽譜を目で追ったが付いていけなかった。「自分にはとても弾けそうにない」とつぶやき、背を伸ばし、奏者を確かめるように覗き込むと、あろう事か自分がピアノを弾いていた。「これは一体全体どうしたことか、俺が演奏している」と合点のいかない気分を振り払うように頭を指で叩いて、はっきりしない目をこすった。「不思議だ、あれほど頑張っても上手く弾けなかったのに、これは間違いなく夢では・・」とぶつぶつ口こもった時「そこでうたた寝していると風邪を引きますよ」といつもの声が聞こえて目が覚めた。やはり夢だった。それにしても音程もメロディも確りとマスターできていた。今見たばかりの夢の演奏の感覚が消え去る前にピアノを弾けば指の記憶が蘇って同じような音楽が再現できる、と感じて、さっと起き上がろうとしたが無理だった。いつも通り両手で身体を支えながらじんわりと起き上がって、ピアノの前に座った。「小さな木の実」の楽譜を開き、両手で鍵盤にタッチしたけれど自動で演奏が始まる訳もなかった。一音ずつ楽譜を見ながら指を動かさないとピアノは響いてくれなかった。つまずきながらでこぼこ道をいく年老いた旅人の歩き方のようなぎこちない演奏は夢見る前と何も変わっていなかった。夢と目覚めの間には何も隔てるものはない。夢でピアノが弾けたなら目覚めていても弾けるはず。「そうだ、夢とは逆にピアノを弾きながら夢を見ればいい」と気付いて「夢、夢、夢、夢、夢」と呪文のように唱えながら指先でピアノをタッチすると夢で見たように手が軽く動いて今までにない演奏が始まった。弾き終えて手の甲をつねってみた。痛かった。夢を見ていたのではなかった。恐らくミューズ神が哀れを感じて音の妖精を遣わせたのかもしれないと思った。もう一度試しに弾くと案の定、元の木阿弥だった。  それでも楽しいピアノはやめられない。
ドリームズ カム ツルー!