一本の冬木がある。あるいは、心の中の木かも知れない。
万物の枯れた冬景色のなかの孤高な姿。
待たれているのは作者だろうか。
あるいは、作者が冬木となって、待っているのだろうか。
その人は来るのだろうか。
命令口調に切ない思いがこめられているようです。
俳人の高柳克弘さんは、この句を詩人の魂と読んでいます。
長谷川氏が、とある座談会で、飯田龍太氏に
「射程を長く取りなさい」という言葉をかけられ、
以後そのことが常に 胸中にある、ということを語っていた。
この言葉は、掲句とともに、私の心中にも深く刻まれることとなった。
はるか彼方に立つ「冬木」は、目指すべき詩境の隠喩として屹立している。
夏の緑の木は木陰を作り、いかにも人を待っているようであるが、
「冬木」は御世辞にもそのようには見えないはず。
それでも「待たれてゐると思へ」と自分に言い聞かせているところに、
詩人として生きていく孤独が凝縮されている。
さまざまな読解が出来ますね。
私は恋の句として読みたいと思います。 遅足
万物の枯れた冬景色のなかの孤高な姿。
待たれているのは作者だろうか。
あるいは、作者が冬木となって、待っているのだろうか。
その人は来るのだろうか。
命令口調に切ない思いがこめられているようです。
俳人の高柳克弘さんは、この句を詩人の魂と読んでいます。
長谷川氏が、とある座談会で、飯田龍太氏に
「射程を長く取りなさい」という言葉をかけられ、
以後そのことが常に 胸中にある、ということを語っていた。
この言葉は、掲句とともに、私の心中にも深く刻まれることとなった。
はるか彼方に立つ「冬木」は、目指すべき詩境の隠喩として屹立している。
夏の緑の木は木陰を作り、いかにも人を待っているようであるが、
「冬木」は御世辞にもそのようには見えないはず。
それでも「待たれてゐると思へ」と自分に言い聞かせているところに、
詩人として生きていく孤独が凝縮されている。
さまざまな読解が出来ますね。
私は恋の句として読みたいと思います。 遅足