575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

杉本美術館で思い出したこと ⑴ ー岸田劉生ー 竹中敬一

2017年11月03日 | Weblog
私は時々、愛知県の知多半島にある杉本美術館を訪れています。
緑に囲まれた閑静なところにあり、展示品を見て廻るには、手頃な広さで、
のんびりと過ごせます。
ここで、いつも感じるのは、杉本健吉という画家には生涯、絵が好きで、
好きで描いていないといられない天性のものが備わっていたと、いうことです。

杉本健吉 (1905〜2004)の年譜によると、名古屋市生まれ、愛知県立工業学校
図案科を卒業後、大正14年(1925)、「岸田劉生の門下生となる」とあります。
19歳の時です。この件について、晩年の杉本画伯にお会いした時、お聞きして
おけばよかったのですが、聞き漏らしてしまいました。

岸田劉生(1892〜1929) は、「麗子像」などで知られ、今も根強い人気が
あります。
杉本健吉さんが岸田劉生に会った二年前、関東大震災で劉生一家は神奈川県の
鵠沼から京都に移り住んでいます。
劉生は39歳という若さで亡くなった夭折の画家ですが、生涯の中で約7年間の
鵠沼時代が一番、充実していた時期で、多くの著作も世に出しています。

次々に話題作や独自の画論を発表し、それに感銘を受けた若き日の杉本健吉
さんは、劉生が京都に移り住んだと聞いて、弟子入りしたのでしよう。
劉生はこの時、35歳でした。

私は「岸田劉生全集」(岩波書店 1979〜1980年刊 全10巻)を持っていますが、
第5巻、大正9年(1920)から30歳になったのを期に、劉生は鵠沼日記と題して
絵日記を書き始めます。
ところが、最後の10巻目、大正14年のところを見てみると、これまで一日も
欠かさず、つけていた日記が突如、7月9日以降はつけておらず、その後も昭和
3年まで途切れ途切れにしか書き記していません。
私が見た限りでは、大正14年、杉本健吉さんとの出会いについて触れた日記は
見当たりませんでした。

話はちょつとそれますが、「劉生絵日記」をもとに、岸田劉生と名古屋との関係
について、調べてみました。
関東大震災のあった大正12年(1923)9月1日、鵠沼の家が被害を受け、劉生一家
(妻 蓁、妹 照子、娘 麗子) は、京都へ移ることになりました。
日記には、9月13日、名古屋から片野元彦という人が訪ねてきてくれて、
とりあえず、劉生一家は名古屋に落ちつくことになった、とあります。
日記から片野元彦は名古屋市の南武平町に住んでいる人である、というところ
までで、それ以外は何もわかりません。
多分、劉生のフアンで以前から交流があったのでしょう。劉生一家は9月17日、
横須賀から軍艦で静岡県の清水港へ。翌18日、列車で名古屋に着き、やっと、
片野宅に落ち着きます。

「御母さんは片野君の無事に涙を流して喜び、余等を喜び迎えてくれた。
これでやうやく、地震からまぬかれた。深く深く感謝する。」
この日から、劉生一家4人は約半月、片野宅で過ごし、妻の蓁(しげる)と娘の麗子
は大須で支那の奇術を見て楽しんだりしています。
また、劉生は片野宅に滞在中、度々、画会を開き、 片野氏ら名古屋の劉生フアンに
よって、劉生の絵の売買が行われていました。

「名古屋の町の大きい事又相当にいい町である事、どこか東京に似てゐてなつかしい
事などを知ったり感じたりした。」
東京銀座のど真ん中で生まれた劉生にとって、都会が恋しかったせいか、名古屋の
印象はよかったようです。               
                              (続く)

写真は「岸田劉生 全集」(岩波書店 1979~1980刊 全10巻」です。


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