575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

杉本美術館で思い出したこと ⑵ ー劉生と名古屋ー竹中敬一

2017年11月10日 | Weblog
岸田劉生に関しては、資料もあって、その足跡を辿れますが、杉本健吉に
ついては、杉本美術館発行のパンフレットに載っている画伯の略歴と展示品の
簡単な説明を見る位で、詳しい履歴は知りませんでした。
前回の原稿を書いた後、杉本美術館を訪れ、杉本健吉の評伝を買い求めました。
「生きることは描くことー杉本健吉評伝ー」(木本文平著 求龍堂 2010) です。
木本氏は以前、愛知県美術館の学芸員をしておられていた方で私もテレビの取材で
お世話になったことがあります。
木本氏は杉本画伯に直接、会って聞き出した話をもとに、中日新聞に連載していた
ものを、一冊の本にまとられました。

前回、岸田劉生一家が関東大震災で鵠沼の家が倒壊して、京都へ移り住む途中、
一時、名古屋に逗留していたことを伝えましたが、その詳細はわかりませんでした。
ところが、この評伝でわかったことが沢山ありました。

まず、関東大震災で被害を受けた岸田劉生一家を名古屋から、いち早く見舞いに
駆けつけた片野元彦氏のことですが、評伝によりますと、「片野は劉生の下で
洋画を学び、草土社が一般公募の展覧会に踏み切った時に入選を果たしており、
その後は国画会で染色家として名をなした人物」とあります。
草土社は劉生を中心に結成された美術団体です。
劉生一家の名古屋での滞在先となった南武平町の片野家は「亡父 和助が広小路本町
で東園堂という薬問屋を営み、また、劉生の父吟香も銀座の精綺水本舗として有名な
薬問屋であったことから、上京や来名の折にはお互いの家に宿泊するという間柄で
あった。」ということです。

「劉生絵日記」第8巻 大正12年 (1923) 9月18日、劉生一家が片野宅にやっと
落ち着いた夜、「鈴木鎌造君来訪」とあります。その翌日も鈴木氏は片野宅を
訪れています。
評伝によりますと、「名古屋でさまざまな商売を営んでいた鈴木氏は、愛読誌
「白樺」の広告で劉生の作品を頒布する劉生画会を知って入会。劉生の自画像
作品を入手して以来、熱烈な劉生ファンであった。」と出ています。

興味深いのは、「劉生絵日記」には、何の記述もありませんが、評伝によりますと、
9月18日の夜、 杉本健吉は鈴木鎌造に連れられて、片野の家まで出かけていること
です。評伝では、「劉生絵日記」に杉本の記述がないのは「杉本が無名の画家志望
の青年であったことを考えると、いたしかたないことであろう。」とする一方、
劉生と初めて会った17歳になる杉本は、「太陽を見るような感じがした。」と後に
語ったということです。

杉本画伯は昭和29年から平成14年まで「絵日記」をつけていましたが、故人の遺志
により死後十年間は公開しないということで、この絵日記が公開になれば評伝には
ないような事実も明らかになるかもしれません。

写真は「生きることは描くことー杉本健吉評伝ー」(木本文平 著 求龍堂)と
愛知県知多郡美浜町にある杉本美術館のパンフレット。


コメント
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