諸九尼<しょきゅうに> 1714年 九州久留米藩の庄屋の
五女として生まれ。幼名「なみ」26歳の時に俳諧師の
有井湖白<ありいこはく>と駆け落ちします。
「行く春や 海を見て居る 鴉の子」<諸九尼>
有井湖白は1702年 福岡藩士の生まれで文武両道に優れ、
松尾芭蕉の十哲のひとりとされた志太野坡<しだやば>
より15歳から俳句を学びます。福岡藩の逸材と期待され
た湖白でしたが結核により挫折。藩への出仕を諦め医家
となります。
「残り雪 草になる迄 見て立ぬ」<湖白>
湖白は結核により十年の療養生活を余儀なくされます。
療養の無聊を慰めるため俳句に熱中。久留米で開催さ
れた句会で庄屋の妻「なみ」と恋に落ちます。
「千畳に 一畳凉し 肱まくら」<諸九尼>
湖白は医業を捨て「なみ」と駆け落ちして一緒に暮ら
すことを決意。京都の湖白庵に居を構え俳諧師として
成功します。この時、妻となった「なみ」も俳句の研
鑽を重ねます。しかし、湖白が61歳で急逝。「なみ」
は湖白の百ケ日の忌に剃髪し、諸九尼と名を変え女宗
匠となります。
「目にも立つ 人目も忍ぶ 頭巾かな」<諸九尼>
1771年3月 尊敬する芭蕉の奥の細道を辿る旅に出かけ
ます。旅は諸九尼の老僕と法師の四人。全行程550里、
2,150kmを4ケ月で踏破しています。路銀に乏しく放
浪に近い壮絶な旅だったと思われます。
「今一里 ゆく気になりぬ きじの声」<諸九尼>
俳諧紀行「秋かぜの記」は諸九尼の代表作とされてい
ます。しかし、旅の厳しさにより諸九尼が体調を崩し
たこともあり仙台からの記述がほとんどありません。
そのため、1960年に編纂されるまで未完の紀行文と
されてきました。
「秋かぜの記」の冒頭を引用。「奥のほそ道といふ文
を、讀初しより、何とおもひわく心はなけれど、たゞ
その跡のなつかしくて年々の春ごとに、霞と共にとは
思へど、年老し尼の身なれば、遙なる道のほども覺束
なく….」
ところで、ラプソディーとは自由奔放な狂詩曲。駆け
落ちする諸九尼の生きざまといった感。ちなみに、晩
年は郷里の人たちとの交流を再開。穏やかな日々を過
ごしたようです。諸九尼。享年67歳。
「もとの身の もとの在所や 盆の月」<諸九尼>
写真と文<殿>