575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「芭蕉の愛した尼僧」

2020年12月26日 | Weblog



河合智月<かわいちげつ>1633年 京都の生まれ。大津の
伝馬役と問屋を営む裕福な河合家に嫁ぎます。53歳の時
に夫が死去したのを機に俗世を捨て尼僧となります。

「雲の間の 星見てゐるよ ほととぎす」<智月>

尼となった智月は松尾芭蕉に心酔。松尾芭蕉に文を送り
親交を深めていきます。文献を調べていくと芭蕉は近江
に度々出掛けています。近江での芭蕉はいつも微笑をた
たえ門人と接していたといわれています。智月や近江芭
門の、暖かいもてなしが芭蕉には心地よかったのかもし
れません。

「やまつゝじ 海に見よとや 夕日影」<智月>

近江芭門のひとりであり、芭門十哲に数えられる森川許
六は智月の句を「五色の内、ただ一色を染め出だせり」
と深みの無さを指摘しています。しかし、許六は芭蕉の
愛した桜で芭蕉の木像を作り智月に贈っています。作句
に物足りなさを感じつつ、智月の人間性は芭蕉やその門
人たちに愛されていたようです。

「有ると無きと 二本さしけり けしの花」<智月>

1691年 智月は芭蕉に句を請います。芭蕉は自らの年齢
から考え形見の句になるとわかっていたのでしょう。苦
笑しながら芭蕉俳文の傑作といわれる「幻住庵記」を智
月に惜しげもなく与えます。ちなみに、幻住庵とは近江
で芭蕉が仮の宿とした庵。庵といっても雨が漏り板敷だ
けの侘び住まい。しかし「いずれかは 幻の栖<すみか>
ならずや おもひ捨ててふしぬ」と芭蕉はきっぱり詠んで
います。

「行く春を 近江の人と 惜しみける」<芭蕉>

その年の秋、芭蕉は急逝します。智月は芭蕉の浄着を縫
い死出の旅路を見送ったと伝えられています。それから
24年後の春、智月も鬼籍の人となります。

「わが年の よるともしらず 花さかり」<智月>

河合智月。享年85歳。芭蕉の愛した尼僧。別名 智月尼。


写真と文<殿>
コメント (2)
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