荻原先生が時々、こういう言い方をされます。
『俳句表現の方法のひとつとして、コトバをずらす』。
世の中、ものごとは無限。一方、コトバは有限。
新しい発見を、出来合いのコトバで、どう表現するのか?
新しい発見といっても、大きなものではなくても、
日常のなかでの小さな発見なら、いくつかは、ありそう。
そのあたりが俳句の狙い。
しかし、そのことが、なかなかコトバにならない。
なんとなくコトバにしても、どこか違う。
そこでコトバをやりくりする。
このコトバのやりくりのひとつが比喩。
コトバを、普通に使われている意味からすこしずらして使う。
トンボが街へ流れてくる
普通は、トンボが街へ飛んでくる、という。
しかし、流れてくる、というと、飛んでくるのではあるが、
目的地を持たない旅人のように、流れるように飛んでくる、
というニュアンスが生れる。
「コトバをずらす」とは、こういう意味ではないだろうか?
レトリック感覚(佐藤信夫・著)を読んで。
(写真は、霧が峰高原の花野です。)
『俳句表現の方法のひとつとして、コトバをずらす』。
世の中、ものごとは無限。一方、コトバは有限。
新しい発見を、出来合いのコトバで、どう表現するのか?
新しい発見といっても、大きなものではなくても、
日常のなかでの小さな発見なら、いくつかは、ありそう。
そのあたりが俳句の狙い。
しかし、そのことが、なかなかコトバにならない。
なんとなくコトバにしても、どこか違う。
そこでコトバをやりくりする。
このコトバのやりくりのひとつが比喩。
コトバを、普通に使われている意味からすこしずらして使う。
トンボが街へ流れてくる
普通は、トンボが街へ飛んでくる、という。
しかし、流れてくる、というと、飛んでくるのではあるが、
目的地を持たない旅人のように、流れるように飛んでくる、
というニュアンスが生れる。
「コトバをずらす」とは、こういう意味ではないだろうか?
レトリック感覚(佐藤信夫・著)を読んで。
(写真は、霧が峰高原の花野です。)
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