教科書にも載ったことのある歌。
皇帝ペンギンは天皇を指し、飼育係は国民をさしている。
天皇も国民も日本を脱出したい、と思っている。暗喩の歌。
敗戦後の日本という文脈のなかで読まれてきました。
確かに私も解説を読んで、納得したように覚えています。
しかし永田和宏さんは「前衛短歌を振り返る」と題した講演のなかで
こうした意味偏重の読みにふれ、次のように話していました。
「意味が分かったら、その歌を理解したことになるのだろうか。
そういう意味中心の読み方は歌を痩せさせるのではないか。
分からなくても、歌をそのままに受けいれるという読み方。
これも大切ではないのか」
ほほえみに肖(に)てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台
同じ塚本邦雄の歌。永田さんは意味が分からなかったそうです。
私は今も意味はよく分かりません。分からないので忘れていました。
改めて読んでみると、歌の呼び起こす鮮明なイメージ・・・
繰返し口ずさむと、なんとなく良い気持ちになってきます。
この話を聞いて、俳句の夏井いつきさんの新聞の特集記事を思い出しました。
「・・・俳句は意味を伝えるものではありません。
作者が映像を言葉に変換した句を、読む人が自分の記憶に変換することで懐かしさを感じます。
他人の俳句を五感で読み、自分の体を喜ばせるという作用もあります。・・・」
短歌や俳句が伝えるもの、それはいったい何?どう読み取ったらいいのか?
歌謡曲を聞く時は、意味もさることながら、メロディーやリズムも含めてを楽しんでいますが・・・
帰りの新幹線。ぼんやり外と眺めながめて考えていたら、あっという間に名古屋駅でした。
(昨日、浜松で開かれた「塔」のシンポジュームへ行ってきました。遅足)
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし
日が照りながら雨のふる
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
窓に映った自分の顔を道づれにして
湖水をわたり 隧道(トンネル)をくぐり
珍しい顔の少女(おとめ)や牛の歩いてゐる
あいるらんどのやうな田舎へ行かう
この詩の作者「丸山薫」は愛知大学で教えていたことがあります。「なぜ、アイルランドに行きたかったのですか?」彼の講義を受講した知人に尋ねたことがあります。「彼が詩を発表したのは昭和初期。金融恐慌があり軍部の台頭も始まった時代。先生は日本を脱出したかったのかも…」
きっと、あいるらんどは彼の理想郷。
とまれ、故国から逃げ出す難民のニュース。世界はあまり変わっていない気がします。