愛知県豊田市の矢作川を望む平戸橋にある 「 豊田市民芸の森 」。
ここは 、実業家で古陶磁研究家の本多静雄氏が住んでいた屋敷跡。
平成5年にこの地を豊田市に寄贈、平成28年から一般公開されています。
私も時々 、訪れていますが、クヌギ林の森に田舎家や茶室などが点在していて、
散策していると、小鳥のさえずりも聞こえる閑静なところです。
ここの事務所に本多静雄氏の著作集が置かれていて、貸し出しはされていない
ものの、手にとって読むことはできるため、100円コーヒーを頂きながら、ゆっくり
読書を楽しませてもらえます。
とても、全巻は無理ですが、本多静雄氏の自叙伝 「 青隹 ( せいすい ) 自伝 」 全3巻
とエッセイ集 「 民芸 彷徨 」を読んでいます。
これらの書物をもといに、その人物像、猿投窯との出会いをお伝えしたいと思います。
写真は「豊田市民芸の森 」に展示されている晩年の本多静雄氏と自筆の書
本多静雄氏は明治31年 ( 1898 )、愛知県西加茂郡上郷村花本 ( 豊田市花本町 ) の本多家
で松三郎の次男として生まれました。
「 兄はこの土地の人々からたくさんの投票を頂いた本多鋼治であり、弟は文芸評論家
という金にならない仕事を一生やっている本多秋五で、外に義雄と はな がいて、五人
兄弟であります。」( 「 民芸彷徨 」1990年 矢作新報社 」
長男の本多鋼治 ( 1893〜1964 ) は 愛知県会議員、衆議院議員を務めた。
次男の本多静雄は京都大学工学部電気工学科、弟の本多秋五 ( 1908〜2001 ) は
東京大学文学部にそれぞれ進学しています。
秋五は在学中、マルクス主義に近づきます。兄、静雄の自伝より
「 弟はプロレタリア科学同盟の運動に参加していたので、昭和8年に大塚警察署、後に
富坂警察署に留置されたが、監視付きで一応 釈放されたので花本へ帰った。その翌年
は、挙母( 豊田市街 )で かき氷屋をやり、土地の若い人々の人気を博した … 」
静雄は京大卒業後、当時の逓信省に入り、技師として出世の道を歩む。
兄がドイツ留学中、逓信省の知人らの斡旋で秋五は昭和11年、逓信省に就職する。
しかし、「 次第に戦争が苛烈になってくると、秋五は、自分の一生の仕事としていた
トルストイの " 戦争と平和 " の評論が未完成だったので、このままだと、いつ死ぬかも
知れぬが、それでは死んでも死にきれないと言い出して、周囲の人々の止めるのを振り
切って16年正月、逓信省を辞職してしまった。」
昭和20年、召集されるが、間もなく終戦。その後、本多秋五は仲間と日本の文学史に
残る同人雑誌 「 近代文学 」を立ち上げます。
私たちの世代なら、戦後の文芸批評をリードした雑誌「 近代文学 」の同人として本多
秋五や平野謙、荒正人らの名前くらいは知っている人は多いと思います。
本多静雄は自伝の最初の方で弟のことを「 金にもならない文芸評論家 」と言っていますが、
自伝をよく読んでみると、何くれとなく陰で援助していることがわかります。
静雄は早くから秋五らの文芸活動に共鳴し、資金集めに奔走。この運動のためなら、
平戸橋の新居を売り払ってでも後援する覚悟だとも書いています。
ついつい、本多兄弟の話になってしまいましたが、次回からは本多静雄と猿投窯について
お伝えします。
投稿が遅れました。
申し訳ありません。