元日のブログでは、「去年今年」がテーマになっていました。
歳時記を開けば、新年の冒頭を占めています。この季語、有り体に言えば、行く年来る年、年の移り変わりの感慨をのべるものなのでしょう。
年が明ければ昨日は去年、今日は今年、この当たり前のことに、古今数多の句が作られており、秀句、句論様々なのには驚きです。
さて、改めて考えれば、考えるほど、またまた難問。意味は深いに違いないのに。元日になれば昨日は「初昔]なんだ、とも。
除夜の鐘54数えて去年今年、これが正確さ一番。川柳だね。
去年だの昔だのと、過ぎし日に拘るのは、歳を重ねた故でしょう。
ぐい飲みの貫入たどり去年今年
鳥野
歳時記を開けば、新年の冒頭を占めています。この季語、有り体に言えば、行く年来る年、年の移り変わりの感慨をのべるものなのでしょう。
年が明ければ昨日は去年、今日は今年、この当たり前のことに、古今数多の句が作られており、秀句、句論様々なのには驚きです。
さて、改めて考えれば、考えるほど、またまた難問。意味は深いに違いないのに。元日になれば昨日は「初昔]なんだ、とも。
除夜の鐘54数えて去年今年、これが正確さ一番。川柳だね。
去年だの昔だのと、過ぎし日に拘るのは、歳を重ねた故でしょう。
ぐい飲みの貫入たどり去年今年
鳥野
どこか信じられないというか、摩訶不思議なことに思われました。
でも、大人が改まって、挨拶しているのを見て、
なんとなく納得したものです。
儀式が生活のなかに生きていた。
神様がいたんですね。
今は、なんだかふわふわじた感じで、大晦日の紅白を見て眠る。
断絶があるようでないようで、変な感じです。
人間だけではケジメがつかない世の中なのかな?
糊代をつくって渡る去年今年
こんな気分です。
何をしたとも定かでなく日が過ぎる。
この分では、年末にはまた何とも定かでなく年が終わりそう。
日々のバタバタで砂時計も見えぬ。
砂時計見えぬ幸せ去年今年