水原秋桜子<みずはらしゅうおうし>。1892年、神
田の産科医院に生まれ、本名「水原豊」 東京帝国大
学医学部を卒業。その後、昭和大学の産婦人科の最
初の教授となり宮内省の医寮御用係も勤めています。
森鴎外、斎藤茂吉と並び、秋桜子は医師と文士、二
つの顔を持っています。
秋桜子と俳句との出会いは高浜虚子の俳句に興味を
持ち医学部の句会「木の芽会」に参加してからとい
われています。やがて、夏目漱石の弟子である松根
東洋城<まつねとうようじょう>が創刊した「渋柿」
に投句するようになり「ホトトギス」の句会に出席
したことから虚子の指導を受けることになります。
虚子の弟子となった秋桜子は、当時、停滞していた
東大の俳句会を富安風生<とみやすふうせい>山口青
邨<やまぐちせいそん>らと再興。さらに、「破魔弓」
<はまゆみ>を「馬酔木」<あせび>と改名し自らが
主宰者となります。ところで、秋桜子は万葉集の研
究で知られる国文学者、窪田空穂<くぼたうつぼ>か
ら古典文学を学んでいます。そのため、万葉の知識
を生かし、一般的でなかった鳥や草花など、新しい
題材で俳句を詠み「馬酔木」に発表していきます。
山口誓子<やまぐちせいし>高野素十<たかのすじゅ
う>阿波野青畝<あわのせいほ>そして秋桜子は「ホ
トトギスの四S」と呼ばれていました。しかし、あ
る時、虚子は、秋桜子と素十を比較。素十を高く評
価します。この対談記事が翌月の「ホトトギス」に
掲載され秋桜子と虚子は激しく対立します。
素十は秋桜子の医学部の後輩にあたり、秋桜子の勧
めで俳句を始めています。また野球チームの投手と
捕手という関係。親しい後輩と比較されたことは、
激情家の秋桜子にとって堪え難いことだったのかも
しれません。
「ホトトギス」とはこの一件以降、秋桜子は完全に
断絶しています。しかし、当時の「ホトトギス」は
俳壇の主役ともいえる存在。秋桜子のホトトギスか
らの離反は「新興俳句」という新しい流れが俳壇に
生まれる要因になった気がします。
余談ですが、東大の本郷キャンパスには、ドイツよ
り招聘されたベルツ博士への思いを綴った秋桜子の
句碑があります。ベルツ博士の妻「ハナ」は東三河
御油宿の生まれ。二川宿にある観音像へ登る鎖はハ
ナの寄進といわれています。
水原秋桜子。享年88歳。遺作となった句は「馬酔
木」の翌月号に掲載されました。
「紫陽花や 水辺の夕餉 早きかな」<秋桜子>
写真と文<殿>
出産医は水原秋桜子です。佐々木幸綱の曽祖父、
祖父、両親、兄弟も歌人。河出書房で文芸の編
集長を務め、三島由紀夫とは公私ともに繋がり
がありました。そのため、豪胆で男性的な歌人
といった印象。なお、彼は当ブログでご紹介し
た古今伝授の里の名誉館長。ブログは下記。
https://blog.goo.ne.jp/yukitsuna