575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

瀧落ちて 群青世界 とどろけり <秋桜子>

2020年08月22日 | Weblog


水原秋桜子<みずはらしゅうおうし>。1892年、神
田の産科医院に生まれ、本名「水原豊」 東京帝国大
学医学部を卒業。その後、昭和大学の産婦人科の最
初の教授となり宮内省の医寮御用係も勤めています。
森鴎外、斎藤茂吉と並び、秋桜子は医師と文士、二
つの顔を持っています。

秋桜子と俳句との出会いは高浜虚子の俳句に興味を
持ち医学部の句会「木の芽会」に参加してからとい
われています。やがて、夏目漱石の弟子である松根
東洋城<まつねとうようじょう>が創刊した「渋柿」
に投句するようになり「ホトトギス」の句会に出席
したことから虚子の指導を受けることになります。

虚子の弟子となった秋桜子は、当時、停滞していた
東大の俳句会を富安風生<とみやすふうせい>山口青
邨<やまぐちせいそん>らと再興。さらに、「破魔弓」
<はまゆみ>を「馬酔木」<あせび>と改名し自らが
主宰者となります。ところで、秋桜子は万葉集の研
究で知られる国文学者、窪田空穂<くぼたうつぼ>か
ら古典文学を学んでいます。そのため、万葉の知識
を生かし、一般的でなかった鳥や草花など、新しい
題材で俳句を詠み「馬酔木」に発表していきます。

山口誓子<やまぐちせいし>高野素十<たかのすじゅ
う>阿波野青畝<あわのせいほ>そして秋桜子は「ホ
トトギスの四S」と呼ばれていました。しかし、あ
る時、虚子は、秋桜子と素十を比較。素十を高く評
価します。この対談記事が翌月の「ホトトギス」に
掲載され秋桜子と虚子は激しく対立します。

素十は秋桜子の医学部の後輩にあたり、秋桜子の勧
めで俳句を始めています。また野球チームの投手と
捕手という関係。親しい後輩と比較されたことは、
激情家の秋桜子にとって堪え難いことだったのかも
しれません。

「ホトトギス」とはこの一件以降、秋桜子は完全に
断絶しています。しかし、当時の「ホトトギス」は
俳壇の主役ともいえる存在。秋桜子のホトトギスか
らの離反は「新興俳句」という新しい流れが俳壇に
生まれる要因になった気がします。

余談ですが、東大の本郷キャンパスには、ドイツよ
り招聘されたベルツ博士への思いを綴った秋桜子の
句碑があります。ベルツ博士の妻「ハナ」は東三河
御油宿の生まれ。二川宿にある観音像へ登る鎖はハ
ナの寄進といわれています。

水原秋桜子。享年88歳。遺作となった句は「馬酔
木」の翌月号に掲載されました。

「紫陽花や 水辺の夕餉 早きかな」<秋桜子>

写真と文<殿>
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2 コメント

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Unknown (佐保子)
2020-08-22 10:27:23
朝日歌壇の選者の佐佐木幸綱は「1938年10月8日未明、東京神田松住町の病院にて俳人で産婦人科医であった水原秋桜子の手により、佐佐木治綱・由幾の長男として生まれる。」と幸綱略年譜に載っています。歌人の家の跡継ぎになったひとが、最初にあった人が俳人だったのですね。
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Unknown (殿)
2020-08-22 12:59:29
コメントありがとうございます。佐々木幸綱の
出産医は水原秋桜子です。佐々木幸綱の曽祖父、
祖父、両親、兄弟も歌人。河出書房で文芸の編
集長を務め、三島由紀夫とは公私ともに繋がり
がありました。そのため、豪胆で男性的な歌人
といった印象。なお、彼は当ブログでご紹介し
た古今伝授の里の名誉館長。ブログは下記。
https://blog.goo.ne.jp/yukitsuna
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