「十三夜」という言葉を初めて知ったのは、案外遅くて、井上陽水の「神無月にかこまれて」という歌からだった。
「十五夜」は、月見の夜で、お供えをするなど日本古来の大事な行事だと思って育った。
だが、「十三夜」は、知らずに育っていたのだった。
だから、「神無月にかこまれて」を聴いた当初の頃は、
● なんで十五夜じゃなく、十三夜なの?
● 神無月は、月のことではなく十月という時期の呼び名だから、囲まれることはないだろう。
などという疑問を思っていた。
今日が、その歌にも歌われていた十三夜に当たるのだそうだ。
十五夜は、もともと中国で行われていた行事が日本に伝来したものなのだが、十三夜は、日本で古来から美しい月であるとして重んじてきたらしい。
十五夜は「芋名月」と呼ばれているが、十三夜は「栗名月」とか「豆名月」と呼ばれているという。
これは、十五夜ではサトイモなどを供えることが多いためであり、十三夜には栗や豆を、神棚などに供えるからだとか。
十五夜は、あまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜は晴れることが多く、「十三夜に曇り無し」という言葉もあるのだそうだ。
これらのことは、「十三夜」という言葉に興味を持つまで、まったく知らないことであった。
井上陽水の「神無月にかこまれて」は、「陽水Ⅱ センチメンタル」のアルバムのB面の1曲目にあった。
イントロが独創的だった。
歌詞の持つ雰囲気とは違って、アップテンポで畳みかけるように歌が始まる。
歌い出しが「人恋しと泣けば 十三夜」。
「十三夜」という表現はすぐに出てくる。
人恋しと泣けば 十三夜
月はおぼろ 淡い色具合
雲は月を隠さぬ様に やさしく流れ
丸い月には 流れる雲が
ちぎれた雲が よくにあう
こんなふうに歌われているが、今夜当地では、十三夜の月は雲に隠れることが多かった。
曲の2番では、風と渡り鳥が出てきて、次の季節である冬の直前の季節であることを思わせる。
風がさわぐ 今や冬隣り
逃げる様に 渡り鳥がゆく
列についてゆけないものに
また来る春があるかどうかは
誰も知らない
ただひたすらの風まかせ
そして、3番では「神無月に 僕はかこまれて」と歌う。
神無月に 僕はかこまれて
口笛吹く それはこだまする
青い夜の空気の中に 生きてるものは
涙も見せず 笑いも忘れ
息をひそめて 冬を待つ
月、十三夜、風、渡り鳥など、秋の深まりを感じさせるものに囲まれるのが、10月つまり神無月だというわけだ。
だから、「神無月にかこまれて」なのだろう…と思う。
「生きてるものは 涙も見せず 笑いも忘れ 息をひそめて 冬を待つ」
なんとも無表情で、ひたすら冬の近づきを待つ季節の神無月。
見るものからだけでなく、心の中も寒さが増してくる。
「神無月にかこまれて」は、そんなことを感じさせる歌でもあった。