阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

贅沢な夢を見た と 目が覚めた相方が言った。    茶話19

2024年02月13日 | エッセイ

明け方 贅沢な夢を見たと
相方が言いました。

どんな夢?と聞きました。

 立食パーテイでお皿に料理を取っていたら、
隣の男性が、私の皿に遠いプレートの料理を取って載せてくれた。

誰だろうと思って顔を見たら江口洋介だった。
お喋りしながら食べていたら、別の男性が
近寄ってきて新しいお皿に別の料理を取り分けてくれた。

この人は誰だろうと思ったら伊原剛志だった。
3人でいろんなお話をした。楽しかった。

 ほんとうに贅沢な夢を見てしまったわ。

   ああ、そうですか、良かったねと私は言いました。

                                             2009年10月 記

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

  宗次郎のオカリナ演奏会  大竹しのぶの「POP!一人舞台」を見た話  茶話 18

2024年02月04日 | エッセイ


宗次郎の「オカリナ演奏会」
 
コープこうべの優待チケットの抽選に当ったからと言われて、宗次郎の「オカリナ演奏会」に初めて行った。
優待チケットは正規料金より少し安く買えるので、行きたい催しがあると相方がコープこうべの抽選に申し込む。
 会場は大阪のNHKホールだった。NHK大阪放送局が新しく竣工していたが、まだ行ったことがなかった。

地下鉄谷町4丁目駅で降りて、地下道をかなり歩いて地上に出ると壮大な建物が現れる。
広島のNHKの放送局の建物も

名古屋のNHKの放送局ビルも
どちらも周囲を圧するような大規模の建築物だ。オイオイ大阪も一緒か、たかが容れ物に僕の受信料をこんなに使うなよなと思いながら入って行った。
 
政治家の放送族の利権がらみで、息がかかった設計事務所のデザインのままに歯止めがないまま、
豪壮な規模と豪華絢爛な仕様にふくれ上がり、放送局として機能的な構造かどうかは関係ないんだよなと
大阪放送局の建物を見ても思った。
 
NHKホールのロビーは自分達と同じようなシルバー夫婦が群れている。あとはご婦人の連れと
母親と娘というカップルが多い。バックに映像を流して演奏する「大黄河」や「コンドルは飛んでいく」も
あらためて新鮮だったが、「馬子唄」や「遥かなる尾瀬」は始めて聞いたが良かった。
 
オカリナ一本で(勿論伴奏はついているが)ほぼ2時間引っ張るのはちょっと大変とは思ったが、
もう30年近く演奏活動をしている強みで会場はリピーターが多いらしく、善男善女集団の観客は協力的な
拍手と笑みでおだやかに楽しんでいた。

 2004.01.22記

バラエテイー・パブのオカマショー
 
元の勤務先の同じ部門の東京のOB忘年会の2次会で、歌舞伎町のアルカザールというバラエテイー・パブに行った。

 幹事から事前にオカマのショーだとは聞いていたが、指定の席に座った15,6名の
初老の我がオジサン軍団は、司会の小太りの着物姿の司会者から、「アラマア、冥土
の土産にって、半分棺おけにアシ突っ込んだ白髪とハゲのジジイたちがニューハーフ
のお嬢を拝みに来たわよ」というセリフを浴びて、のっけから度肝を抜かれた。

ショーの間も罵詈雑言を投げられ続け、最初のペースのままに巻込まれて、いいように
おちょくられながらもオジサン連中はみんな大笑いで楽しんだ。
 後ろの席は「ハトバス」の(夜の東京観光コース?)の団体客とかで、司会者もそちら
にはあまりちょっかいをかけない。
 ショーそのものも抜群のShapeの美女?たちがソロ、群舞で踊りまくり、コントもおりまぜて、
いいテンポで流れていく。勿論規模や設備は全く違うが、もう25年も前にパリで見たムーランルージュや
ル・セクシーのショーと似ている。
 
どちらも客を徹底して楽しませるという点で、ショーに関わっている連中にプロの臭いがした。
”支払いした分ちゃーんと返してもろたか”という関西人の物差しで考えても満点だ。
関西人にとっては高いものは高いなりに、安いものも安いなりに中身が値段に見合っているかどうかが満足度の物差しだ。
 
終わって劇場を出るときもらったカードには「抱腹絶倒」「妖艶華麗」と売り文句が書いてあったが、
ホンマや、看板に偽りなしだったなと思った。座席数200とも書いてあったがそこまでは広い感じはなかったが。
 
  2004.01.22記

大竹しのぶの「POP!一人舞台」
 
大竹しのぶの「POP!一人舞台」というのが大阪にも来るよと相方から言われて、インターネットで探した。
すぐチケット会社のHPも見つかり、「POP」の情報画面も見つかった。チケットもネットで買えることが
わかったので、そのままネット会員になる手続きをした。
 
画面を見ていくと東京の7日間公演に引き続き、大阪は3日間公演になっており、
どうせなら全10日間公演の最終の「楽」の日が面白いかもと思って12月28日を申しこんだ。
幸いまだこの日に空席があり、インターネットバンキングを使いその場でチケット会社の
口座へ振込み手続きをした。
 
**朝日新聞社前のフェステイバルホールのすぐ近くまで大阪駅から地下街だけを通って行ける。
会場のリサイタルホールはフェステイバルホールの地下のこじんまりした劇場だ。
 
ロビーに入ると客筋が一ケ月前のオカリナの演奏会の時と全く違う。圧倒的に女性が多い。
しかも仕事を持っていて、その職場なり店を仕切っているという感じの元気一杯の女性が殆どだ。
たまたま目の前で「アラツ、貴女たち新幹線で来たの?私たち、なんとかフライト取れて飛行機で来たの」と
5人組が話しているのが聞こえた。この5人はクロウト筋の若手のようだった。
 この日が千秋楽でもあるので、しのぶさんの「おっかけ」が東京からも来ているらしい。
夫婦モンはほんの少数で、いてもかなりの年配者ばかりだ。男はサラリーマン経験者と思える人は殆ど見えない。
演劇・舞台関係者というかBox office業界の人がかなり多いように思えた。
 
**(あの子かわいやカンカン娘)と♪いながら彼女が下手から出てきた。真っ黒なフレヤースカートに大きな紅いバラが
一輪だけ刺繍してある。前後に身体を揺らして歌いながら、視線は会場の全部をずーっとなめていく。
 始まったばかりで誰も手拍子を取らなかったが、無意識に音を出さずに手拍子を取ったらこちらに彼女の視線が
スッと来た(と勝手に思った)。そのうちに座った反対側の席から手拍子が出だして会場に広がった。
 
「一人舞台ってあるので大竹しのぶが一人で劇をすると思ってこられた人には申し訳ないけど、
今回は歌とおしゃべりなんです」、最初の歌が終わったあと、彼女が話し出した。
 
銀座カンカン娘、花、悪女、見上げてごらん夜の星を、などを次々歌い、あいまに
「今も杉本さんが時々遊びに来てくれて、今年もクリスマスには例の調子で盛り上げてくれました」などと喋る。
客は全員子供のイマルちゃんの父親が明石屋さんまということも知っているからすぐに彼女と一体感の中で笑ってしまう。
 舞台で鍛えられたのか、口先でない腹の底からの声は厚みがあり、透きとおって良く通る。
そして、彼女は自分でもとても歌が好きなんだろうと思える情感がこぼれる。
 「奇跡の人」に出演するための勉強で知った施設の人たちとの交流の話なども、静かにそして長く話した。
 
**最後に「明日があるさ」を歌いながら狭いといっても結構ある会場を、彼女は右から左、真ん中から上から下まで
歌いながら殆ど走った。千秋楽でもあるせいか彼女の瞳が少し潤んで見えた。
席は最左端から二つ目と三つ目だったが、そのお陰で最後に左の端っこを走り上がってきた彼女が、
順番に握手していく中で、精一杯伸ばした僕の左手の3本の指をギュッと握ってくれた。
 
「握手してくれた」と上ずった声で隣の相方に言ったら、
「良かったね、長年の願いがかなって」と即、返ってきた。
 
阪神梅田の駅カレー店でビーフカレーを食べて帰宅し、次女にもしのぶちゃんに握手してもらったと言ったら、
「良かったねお父さん、その手アシタも洗っちゃあ駄目だよ」と彼女が言った。
 
 こういう事があるからには、清水美砂さん岸本加代子さん秋吉久美子さんの
あと3人の好きな女優さんにもいつか握手をしてもらえる日があるかも知れない。                            
 
**一ヶ月の間に3つもの劇場に行ったのは、これまでで始めてだったが、その舞台に接している時間の間、
非日常の世界に入るのは、旅行と同じだ。ビョーキにかかってしまい、働いた金は日常の全てを節約して切符に
かける人があちこちに沢山いるのもわかるような気がした。

そして舞台の世界も三日やったら止められないというのも。

 2004.01.22 記
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生卵かけご飯は日本だけのもの    神戸のインド料理店「Gay Lord ゲイロード」   茶話 17       

2024年02月01日 | エッセイ


 


 毎年、初詣のあとインド料理店に行くことにしているが、今年は出かけようと思った日が寒かったりして行っていなかった。

先日結構暖かい日があって、思い立って昼に「ゲイロード」に出かけた。

震災前に三宮の神戸市役所近くにあった「Gay lord(陽気な殿様)」は、当時ロンドンやパリにもチエーン店があって、

長身のインド人給仕頭が黒服に身を固め、広い店を笑顔で仕切っていた。ボーイも皆インド人で、店の雰囲気は高級レストラン風だった。

その店が震災後中山手通りに移転したのは知っていたが、移転先には行ったことがなかった。

   余談ながら 昭和55年ごろ、ボンベイ(ムンバイ)港湾局の施設部長を日本に呼んで四国の工場や神戸港に案内したことがある。

彼は、ベジタリアンの中でも厳密な方の菜食主義者で、東京のレストランで彼のために特注した焼き飯を、

「この焼き飯の前に肉を使った料理に使われたフライパンが、そのまま使われているようだ。米飯に肉の臭いがするから食べられない」と言ったりして、食事では大汗をかいた。

「ゲイロード」にはさすがにベジタリアンメニューが普通にあって、案内したこちらもも施設部長もホットした。

彼は驚くほど沢山食べた記憶がある。成田到着から何日も、腹を減らしていたのかと、少し気の毒だった。

 一緒に泊まった三宮のホテルの朝食で、私が和定食の白飯に生玉子をかけて食べだしたら目を丸くして驚いて見ていた。

聞くと生まれて始めてこういう食べ方を見たという。

後でなんかで読んだのだが、世界中でも、玉子をこうして食べるのは日本だけらしい。 
玉子の流通の全過程で衛生管理が出来ていないと生食は出来ないのだ。


それにしてもベジタリアンは海外に出るのは大変だなと思った。原理原則なき民である日本人の中でも、阿智胡地亭は、和洋中華印度朝鮮蒙古なんでも、

「うまければどこの料理でもいい」と思ってこれまで各国各地のものを例外なしで食べてきているのだが。



    新しい店は、神戸に多いインドレストランの中でも広い方だった。雰囲気は、前の店に比べると気安い感じの店になっていた。

入ってすぐのところのガラス越しに「タンドウール(タンドリ)」窯が置かれてインド人の料理人が二人いる。

接客は若手の男性1人とインドの民族衣装を着た女性が二人がしていたが、皆日本人だった。

ランチタイムメニューには定食が3種類あったけど、久しぶりのインド料理なので、定食ではなく、メニューからいくつか選ぶことにした。

こちらはまず、ボンベイ出張時に良く飲んだジントニック(インドではいいジンが出来る)を頼んで、料理のチョイスは相方に任せた。

奥の方に中年の男女10人くらいが、何かの集まりの昼食会をしているのと、若い二人連れと若い男一人客にサラリーマン風の男二人の客が居た。

オーダーしている間に隣の席に黒人とスーツをぴしっと決めた若い日本人が座った。

黒人は派手なウインドウブレーカーを着て、日本の食べ物では何が食べられるなどと話しだした。

オリックスの新しい外人選手と球団の通訳かも知れない。

オーダーはミックス・タンドリプレート(チキン、マトン、サカナ、エビ)、野菜のサモサ、チキンマサラカレーとドライカレーに決まり、それにプレーンナンを取ることにした。

食べ始めて暫らくすると、近くの窓側の席に大柄な老年のインド人が一人で来て座り、すぐ追いかけて別の同年輩の白髪の一人が来て握手をした後、向きあって座った。

long time no see・・・と話し出して、娘が18になり、ハイスクールを卒業・・と聞こえて来た。

久しぶりに友達どうしが、この店で落ち合い、一緒に食事をしてお互い近況を話しているのだろうと思った。

インドの言葉ではなく、英語で話をしているところからすると、同じインドでも言葉が違う別々の土地の出身者が、神戸に住み着いて知り合ったのだろう。

料理がおいしかったので、相方にブツブツ言われながら、ジントニックを追加でもう一杯頼んだ。

 どの皿もスパイシイーでおいしかったが、量がたっぷりあったのでドライカレーは少し残した。

一時間半ほどゆっくり居て、店を出た後どうだったと相方に聞きたら、前より料理が日本化していると言う。

どこが?と聞くとグリーンピースを使いすぎと言う。言われてみれば確かにそうだった。

何かの食材をグリーンピースに代用させているのかも知れないが、女の目は男と違う。

味は多少日本化しているかも知れないが、それなりにおいしく食べた。 前は法人客が多かったが、

今は主として日本人の個人客を主な顧客にしているようだから、多少日本化しないとやっていけないのだろう。

彼女は次回のインド料理は、北野町にある「ガンダーラ」の本店に行ってみようと言った。

いきつけだった阪急三宮駅前の「ガンダーラ」の支店は数年前に閉店してしまっていた。

  結局「ゲイロード」は新たなリピーターを作れなかったようだ。  

 2004.02.24記

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸御影で いかなごレシピの「蜂の子のつくだ煮」を買った。    茶話 16

2024年01月28日 | エッセイ

信州産ではなく、メイド・イン・コウベの「蜂の子のつくだ煮」を買いました。

     阪急電車の御影駅から阪神電鉄の御影駅へほぼ一直線に下りるバス道が、国道2号線と直交する角に東灘警察署がある。

歩くと家から30分かかる。入院前の33キロ速度違反による一ヵ月免停期間(*)が終了したので、免許証を受取りに警察署へ行った。

免許証を返して貰ってから、信号を渡って署の真向かいにある「ハチミツ屋」に入った。この「ハチミツ屋」は

阪神淡路大震災前にはあったような気がするが、中に入ったのは初めてだった。 (click → 入院)



免許証を提出する期限の日が退院してすぐだったので、私は歩くのがまだ覚束なく、本人の代わりに、買物ついでに、

相方と娘が行ってくれた。そのとき「蜂の子のつくだ煮あります」という大きな紙が、店のガラスに貼ってあるのを見つけたのだそうだ。

相方は蜂の子が私の大好物であることを知っているから、店に入りかけたが、

「歳を考えないでスピード出して捕まって、罰金払って家計に大損害かけた人に、買うことないよ。

甘い顔見せたら駄目だよ」と次女から言われて、その日は買えなかったとも相方から聞いていた。

店に入ると、菜の花、アカシア、レンゲ、みかん、クローバー、ソバ、トチ、オレンジ、ユーカリなどのレッテルが付けられた

大口瓶が並んでいる。ハチミツに、こんなに種類があるのかとびっくりした。値段も一瓶600円くらいから5000円くらいまでの幅があってこれまた驚いた。

店先に人は誰もいなく、奥に声を掛けると、中年の女性が出てきた。

「蜂の子のつくだ煮、どんなんか見せてください」と言うと店の端にあるガラスの冷凍ケースから、小さなガラス瓶を出してきた。

蜂の子はきれいな飴色に仕上がっていて、見ただけで、質が良くうまそうだと思ったので「それ貰います」と言った。

「えっ、試食しないでいいんですか」と言うので、「自分は信州に縁がある者なので、見たら分かりますから」と言うと、

女性の顔が急にほころんでニコッと笑い、「ああ、そうなんですか、実はこれ店におくとき、神戸で買うてくれはる人おるやろかて、

チョット心配やったんです」と言った。「それで売れてるんですか?」と聞くと、「お客さんみたいな年配の男の人が、時々入ってきて買うてくれはる。

そして少数やけど何回も買いにきてくれはる」と言う。

「作ってもろてるとこ、“イカノゴのクギ煮”とおんなじ作り方でやってもろてるんです。

仕上げにハチミツ使こてもらうとこだけは違うンやけど。もうちょっと、カズ売れたら値段も安うできるンやけど、

なんせ手間かかってるよって、すみませんネエ」と心底恐縮しながら言った。確かに50gで850円は高くて、

主婦の感覚では買えず、酒飲みがツマミ感覚で買っていくしか、まだ売れないだろうと思った。

それに元々神戸には、蜂の子を食べる人そのものが、殆どいない筈だしとも思った。

瓶を包んでもらうのを待つ間、店に何枚も掲示されている蜂蜜取りの写真を見るともなく見ていたら、

「父がもともと養蜂業者で、六甲山にミツバチ置いてやってたこともあるんです。95歳で今も、まだ元気ですワ。

連合いの一族も阿蘇の山麓で昔から今もずっと養蜂やってます。」と言う。今年の夏、岡山の三上君からテレビの宣伝で

有名になった通販のYD養蜂場が、中国から安い原料を輸入して、それを加工して大儲けしている。

250億の売り上げで50億の純益を出しているが、製品出荷量と本来の養蜂場の蜂蜜生産量が、どうみても見合っていないと聞いていた。

蜂蜜の品質も、素人にはわからないから、なんだか選ぶのは大変だなあと思っていたが、こうして聞くと、こういう家族経営でやっているところなら安心だろうと思えた。

帰って早速食べたつくだ煮はなんの添加物の味もしない、蜂の子そのものの旨味が出ていた。

まさか蜂の子を「イカナゴのクギ煮」の作り方でつくだ煮にしているとは、それがこんなにおいしいとは思わなかった。

信州と神戸のフュージョンの傑作だなと勝手に思いながら、冷蔵庫から少しづつ出して、酒のツマミに一人で楽しんでいる。

我が家の彼女達は「カタチを見たらとても食べられない」のだそうだ。
 
(*) 岡山県の奥津温泉近くの一般道路で、7月に33キロオーバーでネズミ捕りにやられた。昭和39年5月に免許を取ってから、

県外を走るときは、地元ナンバーの車の後を走ったり、危ないと思う場所は必ず減速したりして、

これまで41年間、近畿各地や四国、中国、信州・北海道を走ったが、一回も捕まったことはなかった。

自分は大丈夫と過信するようになったのか、そうは思いたくないが歳相応に、注意力が落ちてきたのか、

   今回は、見晴らしの良い田んぼのど真ん中に、一箇所、大きな自動販売機ステーションがあり、

その建屋の陰に彼らは巧妙に隠れていて、気づいた時は遅かった。警官から「神戸から、はるばるようきんさったのう。

お蔭でノルマがはかどるが」と言う感じで、丁重かつ慇懃無礼に扱ってもらった。

    いまさら、おえんが。

罰金6万円・免停一ヵ月。免停該当期間が退院後すぐの日程になったので、どうせ暫らく運転出来ないし、

講習に行っても、まだ1日通して座ることも出来ないから、そのまま免停を受けて免許書を預けていたのだった。

     阿智胡地亭便り#70 2004年10月19日記  当時友人知人にメールで送っていたシリーズから

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「賀茂泉」の奈良漬    茶話 15    

2024年01月27日 | エッセイ

広島の西条の酒 “賀茂泉”。「賀茂鶴」の方が名前が売れていて生産量は多いですが、広島には“賀茂泉”の熱いファンも沢山います。

広島に勤務しだした'97以来私も大好きになり、広島に来られる知人友人に勧めてきました。今も飲みに行った店の酒のリストに“賀茂泉”があれば、必ず頼みます。

娘たちが広島に遊びに来た時は、東広島市西条の本店の前で写真を撮ったりもしました。

 垂水の勝見さんから紹介された垂水・霞ヶ丘の寿司屋「伝八」にも酒のリストのトップに書いてあって毎回オーダーしました。

ご主人が亡くなり「伝八」が廃業したのは惜しいことでした。


  昨日、醸造元にご縁の方の来宅があり、賀茂泉ブランドの奈良漬を頂きました。最近、奈良漬を食べていないので楽しみです。(2009年9月記)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ある日の夕飯に日本酒の一合瓶が一本出てきた。ラベルを見ると「賀茂泉」とある。知らない銘柄だ。次女が大学に行きはじめて半年ほどたった頃だった。

このお酒はどうしたの?と聞くと「ビジュアルデザイン学科の同じクラスの子から貰った」と言う。

そう言えば、その女友達はマンションに下宿をしていて、次女はそこに仲間と時々遊びに行くようになったと聞いていた。

そんなある日、母が持ってきたからと言って彼女が一本ずつ一合瓶を渡してくれたのだそうだ。

女の子のお母さんが娘の下宿に日本酒を持ってくるって面白いねと言うと、その子は広島の西条って言う所から来ていて、

実家がそのお酒を造っているって云ってたと言う。それはいい友達ができたね、これからもどんどん貰って来てよと軽口を叩きながら飲んだら、辛口でおいしかった。

  それから半年した頃、転勤辞令が出てボクは広島の中国支社勤務になった。

そして2ヶ月ほどたった頃大阪支社のある営業部から連絡があり、排水装置だったかのPRに、西条の賀茂泉酒造に行くので同行して欲しいと言ってきた。

「西条の賀茂泉」?なんか聞いたことがあるなと思った。夜、家に電話して確認したら「そう、お父さんが飲んだのは賀茂泉だよ」と次女が言った。

翌日、広島の夜の繁華街である「流川」の酒屋で聞くと、良く知られて有名なのは賀茂鶴ですが、知る人ぞ知るで、結構酒飲みや酒好きにフアンが多い広島の地酒ブランドですと言うことだった。

JRの西条駅で降りて10分も歩くと「賀茂泉」の工場につく。西条は灘、伏見と並ぶ日本三大銘醸地と言われているのははじめて知った。杜氏の増田さんと面談した。

肩書きは常務取締役だった。仕事の話が済んで雑談になったとき、信州上諏訪に宮坂醸造という会社があって「真澄」という酒を出しています。ご存知でしょうか?と聞いてみた。

「協会7号酵母」の蔵元でしょう、杜氏なら誰でも知っていますよと言われた。

この7号酵母は戦後まもなく宮坂醸造の酒蔵から発見され、非常に質がいいのでかなりの全国の造り酒屋に移植されているという話を教えてもらった。

その後、あつかましい話ではあったが思い切って、かくかくしかじかでこちらの経営者のお嬢さんと思われる方から頂いたお酒を、半年ほど前に家で飲ませてもらいました、

お礼を申し上げたいのでご紹介いただけませんかとお願いしてみた。増田常務はきさくに専務を呼んできてくれた。

専務に挨拶をしたが、突然わが子のことを持ち出されたゆえか、さすがにちょっと戸惑われていた。それでも帰り際に流川の夜のマップを持ってきて、

この印をつけた店ならいつでも「賀茂泉」を飲んでもらえますと教えてくれた。

  あまり関西ではみかけない「真澄」が、どういうワケか広島ではあちこちの店においてあるし、勿論「賀茂泉」はあるしで、広島で日本酒を飲む場合はこのどちらかを良く飲んだものだ。

また東京や大阪からの出張者に広島の地酒で何がおいしいと聞かれたら、娘さんのご縁もあって、躊躇なく皆さんに「賀茂泉」をすすめた。

もっとも時々、広島へ掃除に来る相方は、ほんの一口か二口しか飲めないのに、マンションの近くの酒屋で試飲した同じ西条の「白牡丹」がお気に入りで、

彼女が神戸に帰ったあとの冷蔵庫の甘い一合壜を片付けるのはボクの役目だった。       阿智胡地亭便り#36  2003.9.23記      当時友人知人にメールで送っていたシリーズから

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ごもっとも、ごもっとも」      茶話 その14 

2023年10月19日 | エッセイ

 今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、

大声で「鬼は外福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。

親の勤務地に付いてまわって転校した九州若松でも、尼崎の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。

酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶとそれに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で

囃やさないといけないのだが友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。

そんな時、父は後ろを振り向いて「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について

「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。

そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、

恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。

もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。


そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が

ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)

今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、

今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何いうてるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。

震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の

「ごもっとも」の発声回数が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。

亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、北小路地区では江戸時代以前の昔から、

こういう風に言っていたのではないかと思う。

先祖は諏訪氏が高島城を築城する時に、(諏訪湖の高島という島から)立ち退きを命じられ、近くに集団移転させられた島民の一族だと言っていたから、

もともと古くから住みついていた住民だと思う。

今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスではとっくに廃れた習慣が

アメリカで残っているのと同じように諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、

老年に差しかかってはいるが声は若い「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。

  (2002年に「小和田満」の筆名で投稿し、幸い入選して5月27日の「神戸新聞文芸欄」に掲載されたエッセイ。)

注:高島城の築城は秀吉の配下で当時諏訪を支配していた武将の日根野高𠮷が行ったと 後日従兄から教示を受けたが、

  上記文は掲載された原文のままとして訂正していない。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

  東京で一番古い居酒屋「神田 みますや」で会った横浜の人               茶話13

2023年10月04日 | エッセイ

 02/06/30記 


6月26日、新幹線で東京に行った。その夜はいつもの神田のホテルに泊まった。

東京出張のおりは夜は大抵どなたかに一杯お付き合い願っているのだが、明日は重要な会議の日なので、飲んでも早く切り上げようと思い、

どなたにも声をかけず一人で居酒屋の「みますや」に行った。

みますや」は一年半ぶりくらいだが店の中が何となく綺麗っぽくなっていた。

客は殆どが50歳代の勤め人が2、3人連れで、2人ずれの組でも女性は30代以上に見え、相変わらずチエーンの居酒屋とは客層がかなり違う。

入って左側の大きな板卓の3人ずれの客の横に案内された。目の前にはやはり一人客がいたが暫くして帰った。

生中を飲んでいると頼んでいたこの店の定番の牛の(にこみ)が来た。すぐ近くの神田美土代町に勤務していた昭和50年代の、

週に数回は来ていた頃は、確か一皿350円くらいだった、と思う。

相変わらず独特で、関東風の濃い味付けで旨さは変わっておらず、年数を考えると仕方がないと思いながらも、関西が長くなったせいか、

量もしっかりあるのについ(にこみ)が一皿600円かと思ってしまう。

定年前に見える横の3人ずれは近くの勤め人たちらしく誰か同僚の噂話に余念がない。関東弁も歯切れのいい江戸っ子弁だと耳に心地よく、

いまや東京でも希少価値の方言、江戸っ子弁だなと思いながらBGMとして何となく聞いていた。

壁には前にはなかった日本各地の銘酒のあれこれ、田酒、久保田などの名前が張り出され、日本酒だけのメニューが出来ていて驚いた。

しかも料理も、前と同じく壁にそれぞれ小さな板に書いて上げてあるが、メニューも板卓においてある。普通の熱燗一合と「きんぴら」を追加で頼み、

これで引き上げようと思っていたら一人客が目の前に案内されて座った。三十四、五のさっぱりした感じの男だった。

座ってから何となく嬉しそうに店の真っ黒な天井、柱や畳の上がりがまちなどを見廻した。無言でいるのも気詰まりなので、彼が生中を飲み干し「にこみ」を食べ、

またメニューを見て私と同じ熱燗、彼は2合だったがを頼んで暫くして、「この店は初めてですか」と声をかけてみた。

外で一人で飲む時、相手を見て目の前の人に声をかけるのだが、迷惑そうなら必ずその一言で止める。

自分も喋らないで飲みたい時もあるから。この日の彼は飲む人間に共通の雰囲気で「いや、今日が初めてなんですよ」と自然体で返してきた。

桂米丸の切符を知り合いからもらったので今日は公休で東京へ出てきてそれを聞き、

終ってから前から来てみたかった「みますや」にようやく来れたという横浜の人間だった。

この「みますや」が近頃の居酒屋ブームで雑誌やテレビに取り上げられていることを彼から初めて教えてもらった。

明治38年の開業で始めは近くの工事現場の土方相手の店だったことも彼は知っていた。

そうか、だから綺麗ぽっくなって前にはなかった新規の客相手のメニューが出来、とっくりがみますやの名前入りになって店員の数も増え、

次々年配の客が店の中を覗きながら入ってくるわけがわかったと疑問が晴れた。ただ店の雰囲気が前と変わらないのは有り難く、それも建物が戦前のそのままのせいもあるかも知れない。

しかし次の震災ではおそらく即ぺちゃんこではある古い木造の建物だ。

この横浜人は母親が京都、父親が栃木という組み合わせで、仕事で各地に行くと居酒屋を楽しむという仁であった。

会話は楽しく続き、銚子が沢山並んでしまい翌朝二日酔いで目が覚めた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10ヶ月児とのアイコンタクト        茶話12

2023年10月01日 | エッセイ

 電車の中に入っていくと2人席の一つが空いていたが、窓際の席には若いのが大きく足を広げていた。
もう少し先を見ると女性の横が空いていたのでそちらに座った。
座って気がつくと彼女は赤ちゃんを膝に乗せていた。足元には大きなカバンとリュックが置いてあり、
隣の席にはみ出さないようにつつましく縦に積んである。
彼女の足がようやく下におろせるくらいの大きな荷物だった。

そんな荷物なので孫を見せに実家に里帰りした帰りかなと思いながら、座っていると、
窓の外を見ながら子供に小声でひっきりなしに話し掛けている。「あっチョコレートの看板や、
お菓子の工場かなあ。反対側の電車が来たよ、あれに乗るとオジイチャンの家に帰るんやけどね」

赤ちゃんはおとなしく膝の上にだかれて立とうとしているがまだつっぱるだけで立つことは出来ない。

冷房は入っているが汗かきのボクには利きが悪いので、夏の必需品の扇子を
後ろのポケットから出して扇いだ。

しばらくすると「あれ扇子やよ。うちわと違う動きが面白いんかしら」という声が聞こえた。
横を見ると赤ちゃんがこちらに向き直って扇子の動きをじいっと見ている。

つい「パタパタ」「パタパタ」と言いいながら赤ちゃんの顔にも風が行くように扇いでみた。
真っ黒な前髪が風にあおられて少し動いた。そして赤ちゃんがニッコリ笑った。

「ごきげんさんやね。ぐっすり眠ったあとかな」とお母さんに言うとそうなんですと言った。

何ヶ月ですか、10ヶ月です。うちも娘が二人いて、こんな時もあったはずやけど、おおきなると
そんな時代があったこと忘れてしまって。そんなもんなんですか。

赤ちゃんは二人の話を静かに聞いている。何回もパタパタをしてあげるとその都度ボクの
目をじっと見上げてうれしそうに笑う。

黒い瞳の可愛い男の子だった。しばらくこの子と目を合わせた。彼はまったく視線を外さない。
気持ちよさそうに風を受けてボクをじっと見つめる。

生まれて10ヶ月の赤ちゃんと昨日東京で退職の行事をすませたばかりの61歳の男の二人が
お互いじっと目を合わせる。涼しい風って気持ちいいねえ。ほんとやねえ、おじさん、と
言っているように思えた。

乗った電車が芦屋に近づき、新快速は自分の下車駅の六甲道には停まらないので普通電車に
乗り換えようと準備を始めたら「おじさん降りられるみたいやねえ」と母親が子供に話し掛けた。

「丈夫な子ォに育ちや~」と言って席を立つと「ありがとうございます」と彼女が言った。

先に動き出した普通電車をすぐに新快速が追い越しかけたが、向こうの窓からこちらに気がついた
彼女が軽く会釈したのが見えてボクもあわてて頭を下げた。電車は速度を上げて通過していった。

生まれて10ヶ月目の赤ちゃんと、楽しい出合いがあって、何となく明日からの毎日が
楽しくなりそうで、少し弾んだ気持ちで六甲道駅の改札を出た。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


('04.2.11の神戸新聞[文芸欄]エッセ-・ノンフィクション部門に「小和田 満」の筆名で入選・掲載されたエッセイです。
男の子に出会ったのは'03.7月の第一週でした。あの男らしくゆったりした子は、
どんな14歳の子になっているのか一度会って見たい気がします。2017年記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 床屋のドイさんにサヨナラを・・・             茶話 11

2023年09月27日 | エッセイ

 
2003年の4月も終りのある日 昼休みが終って事務所に戻って席についたらすぐ、Mさん床屋さんからお電話ですと言われた。
床屋から電話をもらうとは誰からで、何だろうと首をひねりながら受話器を取った。

「ビルの床屋のドイです。えらい急な話やけどワタシ4月一杯でココ止めますねん。
今日来はった樋口さんからMさんの会社の電話番号教えてもらえたんで今電話させて
もろとるんですわ。長い事お世話になったお客さんも仰山いてはるから、

黙って止めるんもなんやし、社長に言うて5月21日まで勤めさせてもらうことにはしたんです。
そやからそれまでに来られるんやったら前日に電話して、時間を言うてください。」
と言って電話は切れた。

いつもは当日電話で予約して行くのだが、今回は連休前に電話を入れておいた。
堺筋本町から淀屋橋までは、20分ほどで歩くのにちょうどいい距離だ。



ドイさん担当の椅子に座ると「来てもろて有難うございます。電話で言いましたけど、急やけど
やめる事になったんですわ」と言った。「始めあれば終りあり、ですか」と返すと「そうなんですわ」
と言って、こうなった経緯や今後の事を、しかし散髪の手は休めず話し出した。

ドイさんにはもう16年の間、髪を切ってもらっている。何も言わずに椅子に座れば、
後は寝込んでもちゃんとやってくれる。夏季、汗かきの私が入室するとさりげなく
クーラーの温度も操作してくれ、濡れタオルを出してくれる。整髪料は私が家で使っている
のと同じものをキープしてくれている。広島時代も月に一回の大阪での会議の日にやって
もらって結局ほとんど16年間毎月続けてやってもらった事になる。

この理髪店は先代が店の社長の時にこのビルに入り込んで、昭和43年に私が新居浜から
転勤で来た頃は広い面積をとって営業していた。今回ドイさんに聞いたら当時は理髪椅子が
12台あり理容師が15人居たという。それでも一日中フル回転だったそうだ。ドイさんは昭和
44年に入店したとのことで、それから34年ビルの地下の職場で働いた事になりますと言った。



昭和62年に転勤で東京から大阪に戻り、再度、ビルの理髪店に行き出した頃は理容師は
5、6人になっていたが、行き出してすぐドイさんを指名するようになった。理由ははっきりは
覚えてないがこちらの状態を見て、床屋政談をしたり、眠りたい時はずっと眠らせてくれたり
と色々あったが、やはりウデが良かったのだ。口八丁手八丁で客あしらいもうまかったけど。

 本人の自慢は「カットした後の最初の一週間は、職人の誰がやってもおんなじやけど、
それからが違いまんねん。そっからのモチ(持ち)が違うんですわ。ワタシは一人一人の頭の恰好を
見て全部カット変えてますから」という事で、私はそれはその通りだと実感していた。

退職するにいたった大きな理由は「この仕事はやっぱり刃物を使いまっしゃろ、まだまだ自信は
ありまっけど、もしこっちが手えでも滑って怪我でもさしてから止めるのはいややし。」
 という事だったが、それは自分が納得するため自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

ドイさんの話しから推測すると、理髪室はここのところ3人の理容師でやってきたが、ビルの就業
人口の減少から、来店客数が減り続け、いまや理容師は二人で充分という事になり、店の社長から
ドイさんに退職勧奨があったようだった。 ドイさんの話しに、何で私がやめないかんねん
という思いが時々覗いているような気がした。彼は負けん気の強い、ずうっと自分の仕事に誇りを
持っていた男だった。

頭を黒く染めているのは知っていたが、肌の色はピンク色で艶々しており、顔にはしわ一つ無い。
自分よりちょっとくらいは年上かと想像しながら散髪が終って椅子をたつ直前に、
「若こうに見えるドイさん、時においくつになったん?」と聞いたら、67歳ですわとの答えだった。
とてもその年には見えない。頭のサエもなんら変わらず、腕もまだまだやれると思った。
 
後は家ででも床屋やるんと聞くと、ハサミはもう握らないと言った。

昭和44年頃(*)は名前は知らなかったが、なんとなくその頃から彼に見覚えがあり、
昭和62年からは毎月一回はバカ話や床屋政談や居眠りをさせてもらった。また彼は
元の勤務先のOBや知人の動向の情報センターでもあった。  
 にしても長い付き合いになっていたものだ。
 
(*この頃はビルの理髪店の利用は就業時間中は管理職はよいが組合員は使えないという
不文律があった?ような記憶がある。もしかしたら私が所属した部門だけかも知れないが。
そうなるとユーテリテイコストをテナント各社が補助をしているので
街なかの床屋の7割に近い理髪料金を活用出来るのが、自分より給料の高い方々だけとなる。
営業時間も18時までだったから結局組合員は行けないということになる。これは納得出来なかった。
身嗜みを常に整えてお客さんに不愉快な思いをさせてはならないのは、営業の部課長も担当者も
おんなじはず、と自ら勝手な判断をし、それでもさすがに部課長が外出の時を見はからって
この店に散髪に行っていたものだ。)

「そんなことでMさん 長いことお世話になりました」。


  「いや、こちらこそお世話になりました。私もちょうどこの6月で会社終りです。」

「そうでっか、このビルに来たんはお宅が一年違いの先輩で、

退くのんは一緒の年やなんてまあご互いご縁があったちゅうことですわな。」

  「そういうことや。ドイさんほなお元気で。」

「お元気で。ご縁があったらまたどっかで会えまっしゃろ」。


こんな会話を交わしたあと、用意していった気持ちだけの餞別を渡して店の外に出た。

   2003.5.08記

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2003年7月「北朝鮮の工作船」の残骸をお台場の「船の科学館」で見た。             茶話 10

2023年09月25日 | エッセイ

   2003年の7月はじめのある日お台場の「船の科学館」へ行った。

そして海中から引き上げられ、調査が完了した後はここで展示されている北朝鮮の工作船の残骸を見てきた。


  この日は新橋のユリカモメの駅で学生時代、弓道部で一年先輩だった五十棲さんと待ち合わせた。

五十棲さんからは少し前に、学校の同窓会誌に掲載された「私の阪神淡路大震災体験記clickを読みました」と同窓会編集部気付でお手紙を頂き、そこから交信が復活した。

この日私が神戸から上京した機会に、卒業以来38年ぶりにお会いすることになった。

まことに「知己あり、遠方より便りあり」は生きている間に体験する哀歓苦楽の中の歓という大きな一つだ。

この日の小旅行は、五十棲さんが事前に男二人のデートコースを練りに練って下さり、

外からは何度も見ているが、内部は初めてのフジテレビ見学も、これもまた面白かった。

1)工作船は、添付の写真にあるように錆びた鉄のドンガラだった。上陸用の小型高速艇をも積み込んだスペースから見ると、

生活区域はどこなんだというくらい小さな船だが、スクリューだけは4本も並列に並んでおり、船体の大きさに不釣り合いな推進力があったことがわかる。

巡視船からの銃弾で何ヶ所も沢山の貫通孔も見えた。また最後は自爆したらしいが、自爆用の装置も積んでいた訳で、
真っ黒に焼けた広い個所があった。本体と合わせて引き上げられた銃火器や生活品、衣服などは第2会場に陳列されていた。

ハングルも当然あったが日本のメーカーの製品も多かった。中国政府の横やり(北朝鮮からの依頼もあってのことかもしれない)で、
引揚までに時間が長くかかり、海中に長期間漬っていたとは思えない保存状態だった。

保安庁の船が追跡を始めた時から工作船が自爆して沈没するまで、記録班?がビデオ撮影しており、
それを公開用に編集したビデオも連続放映されている。

これを見ると、砲撃開始までには停戦命令を日本語、英語、中国語、韓国・朝鮮語と4つの言語でくり返し繰り返し行い、
砲撃開始も「停戦命令に従わなければ国際法に則り砲撃する」と大音声のスピーカーで何度も警告している。

先方からの反撃の砲撃は当然ながら突然であり、ビデオの担当官も驚いている様子がカメラの揺れでわかる。
船の実物とビデオを見ると、
これに乗っていた連中は明らかに戦闘を常に予測している兵士だ。本国からの自爆指示か責任者が叩き込まれている
マニュアルによる自爆かはわからないが(また、自爆かどうかも本当のところはわからないが)、少なくとも十数名の
20代、30代の人間が死ぬ時に将軍様マンセーと言ったか、オモニー(お母さん)と言ったかは知らないが、停船せず、
また逮捕されることなく死んだ。

2)これらを見ていると、かの国は昭和20年から58年間、今も戦時体制にある国なんだと実感する。
見た船体も装備品もよくここまで使っているなあという古い品物が多かった。

この間、戦費や宮廷費用を調達するために、これらの船で大麻から麻薬からなんでも金になるものを日本に持ち込んだり、
潜入者の教育係のため、色々な階層の日本人を拉致してきた。

ある一族とその取り巻きの安寧と永遠の持続のためにだけ、その国の大多数の人間は存在するというのは歴史上どこにもあることだ。

(つい140年ほど前まで日本も、徳川さまご一家ご一統の安泰のため情報封鎖の鎖国をした。
そして厳しい禁令を沢山つくり、他国世間様とのお付き合いをさせないように取り締まった。

この間、向こうの島国人のイギリスがアメリカ、カナダ、豪州など好き放題に切り取り強盗をやる間、
本来彼ら以上にパワー溢れるこちらの島国人は300年間、大きな外航船は作れないし、
お家取り潰しにあわぬようなどお上の顔色を見てビクビク過すしかなかった。なんともったいない300年。

あのころお上が手をださない読み書きソロバンなど普通日本人が寺小屋などで受けた教育は、当時の世界レベルで質量共に
他国を圧していたことを思うと、お上が手を出したら碌な事にはならない例の一つだ)

にしても、北朝鮮にとって気の毒なのは、地球上の時代がこの50年で、もう偉大なる将軍様でも統領様でもないように、
不十分ながらも封建主義から民主主義にシステムが変わってしまったことだ。中国も、ロシア(ソ連)も
北朝鮮を緩衝材に使うだけ使って、今や使い捨てというのも気の毒だ。

3)かの国に自分が今生まれていたらと想像すると、気の毒に思うことは多々あるが、「暴力とカネ」だけがルールで、
ある一族だけのために50数年運営されてきた国の人とはもはや同じ常識は通用しない。
かの国が国として、金一族と共に自滅するしかないとすると、人間とはつらいもんだと思いながら会場を後にした。

(とは言え、昭和20年、アメリカが準備していた原爆をあと5発ほど落していたら、こちらも歴史家におんなじ事を書かれていた可能性もあるが)

五十棲さん、自分では行こうと思い付かないところへ連れて行って頂きありがとうございました。

2003.9.04 作成

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腹部大動脈瘤 が徐々に大きくなって人工血管を入れる手術を受けた話          茶話 9

2023年09月23日 | エッセイ

売れない落語家の 阿智胡地亭辛好が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。

隠居:おう、ようやく顔を出したか。はらあ切ったっておめえのカミサンから聞いたが、いってえどのくらい切ったんだい?

辛好:ミゾオチからせがれのすぐ上まで真っ直ぐに20センチくらいのもんでさあ。

隠居:で、詳しく聞いてなかったが、なんで腹なんぞ切る羽目に?何か不義理でもしたのかい。
お前さんみたいな売れねえ噺家にもご贔屓筋が何人かついてるみたいでな、看板が下りてるがどこか出稼ぎにでも出かけたのかとか、
いつから高座に戻るのかとか聞いてくれるお客様もいたんだよ。

辛好:そいつはナンと嬉しい話じゃあござんせんか。ありがてぇこった。
実は少し昔、安芸の国の席亭で3年ほど高座に上がっていたんでやんすが、5年ほど前、席亭指定の施療院で春の健康診断を受けたんでさあ。
指定目入の診断をこなしたあと、くすしの院長が「ちょうど息子が他院の修業を終えて戻ってきたんだが、超音波腹部検診のカラクリを入れて
くれってねだられて“回向(エコー)”のカラクリを買ったばかしなんじゃが、特別割引銭で見るがどうじゃ」って言うじゃあありませんか。
それまで「回向」なんぞやったことがないもんで、おもしれぇと思って「ようがす」って言ったら、若が喜んじゃって詳しく見てくれるってやりだしたが、
途中からえらく真剣な顔になったんでさあ。

隠居:どうしてまた?

辛好:「腹部大動脈瘤がありますね、破裂するかも知れんけん、すぐにでもそっち方面に明るい「くすし」に見てもろおてください、紹介状も書きます」
って言うじゃあござんせんか。あんまり真剣に言うので翌週 広島市民病院の心臓血管外科で見てもらったら、この秋にでも手術をしたほうがいいが、
するかどうかを決めるのはアンタだと言うン。

隠居:くすしに自分で決めろと言われても患者はちょっと迷うわな。

辛好:手術をするにもカミサンが近くにいねえと万事不都合だと思って、カミサンにこんな事になったが家の近くに心臓血管外科に強い病院がねえか
調べてくれって連絡したら早速、パソコンの印多蜘蛛網であれこれ調べてくれて、家の近くの労災病院に心臓血管外科の「神の手」(click )がおられるらしいと。


それで夏休みの1日にこの病院に行き、腹のCTを撮ってもらったら「本来約20ミリ径の大動脈が35ミリまで膨らんでいるなあ。
形状がなだらかなので、まだ手術はしなくてもいいと思う。そやけど半年に一回はチエックに来てもらわんと」となってそれからずっと見てもらっていたんでさあ。

隠居:それで?

辛好:安芸の国から地元に戻って何回目かの検査で50ミリ程になって先生も次はそろそろ手術やなあと言われていたんだが、
なんせこの大動脈瘤ってやつは自覚症状がまるでないン。
原因は動脈硬化らしいんだが自覚症状が全くないもんで、生活習慣を変えもせずこないだまで飲む吸う打つを懲りずにやってきたン。

隠居:そういやあ、お前の好きな司馬遼太郎さんも確か腹部大動脈が破裂して惜しい人を無くしたが司馬さんの奥さんの話でも
動脈瘤をお持ちなのは本人も周囲も気づいてなかったそうだなあ。
確かに、司馬さんの写真で煙草をくゆらしてない写真は一枚もないなあ。

辛好:ホントに司馬さんは同時代にあんな人を持てたのは有難いことで、それだけにあんなに早く亡くなったのは心底勿体無いことでさあ。
司馬さんと同列に並べてもらう気は毛頭ねえが、病気としては同じに違いがねえ、ってことでいずれはと思う気持ちと、
身体にメスが入る、しかも全身麻酔の手術ってえのは生身のカダラには一生どえれえストレスが残るって聞いているもんで
正直出来たらやりたくないって気持ちでいたン。


ところが半年前くらいから夜、布団に入って天井を向くと、腹の一部が時々ぴくんぴくんと動くのを感じるようになって
そろそろ年貢の納め時かなとは予想していたんでさあ・・。
それで7月中ごろに見てもらったらCTのフィルムを見たとたん、先生いわく「こら切りごろや、よう育てはったなあ」
「どれくらいになってます」「60ミリくらいやねえ」 「風船膨らますとおんなじでな、瘤いうのんはある時から急に大きなるねん」
それまでに調べていたんで、径が55ミリを超えると破裂率が年間33%になり、いったん破裂すると死亡率50%を越えるって
知ってたこともあり、その場でもう手術を観念して先生と相談して入院日も決めたン。

隠居:そうか、そんなもんを後生大事に育てて、この5年ほど好き勝手やってきたんじゃな。

辛好:そういう事なんでさあ。まあそれでも8月16日に入院して20日に手術、9月1日に退院てえことで順調な経過の方らしいのは有難いことで。
ただ心臓から下りてきて両下肢へ伸びる「人」型の大動脈部分を人工血管と取り替えるのに、腹割いて腸を掻き分けて背骨のすぐ 前に
位置する大動脈を一望に見えるように出して、3箇所でいったんクリップして血流を止めてってなことをしてるんで、長時間空気に
さらされた大腸なんぞのハラワタが元の場所にうまく戻り、ストレスで反乱を起こして壊死しないようこっちの方の対処も
大変ってことらしく、4日間点滴だけだったン。


それなのにじっと安静にしていたら腹の傷口と腸が変に癒着したらいかんからと、15時間の集中治療室から病室へ戻ったらその時点から
点滴液のハンガーを自分で押してトイレへ行けと 言われて・・・・。(思い出したのか殆ど涙声)

隠居:噺家が泣いてどうする。それにまだ下腹に力が入らないのか声がまともに出てねえなあ。
今日はもういいから茶をいっぺえ飲んで帰りな。入院のあれこれはまたこんだ聞かせてもらうから。

辛好:
そんじゃあ、今日のところはお腹のお開きという噺まででお開きに
しっかり傷がくっつくまで、しばらく大人しくしてまさあ。
ただ退屈だからこの歩いて来れる隠居部屋にはまたすぐ遊びにきますんで。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


売れない落語家の 阿智胡地亭辛好 が今日も今日とて、楽屋横の隠居部屋に上がりこみ、席亭のご隠居と毒にも薬にもならない話で盛り上がっております。

隠居:おう又、来たな。おめえさん、こないだは、手術中自分で自分の腹切りの一部始見ていたようなことを話していたが、確か全身麻酔だったんだよな。

辛好:それはそうなんでやんすが、あの話は手術前の手術説明会と術後に病室で先生に聞いた話なんでさあ。

隠居:手術説明会ってえのは何のことだい?

辛好:アタシもなんせ初めての経験だったんだが、近頃の(因報務度懇宣度)「同意説明」っていう奴らしく、
手術前の血液テスト、アレルギーテスト、自己採血2回、カテーテルでの血管造影撮影で手術対象箇所のレントゲンなんぞ
が済んだ後、医者方が手術設計をして、それを患者本人と親族・関係者に説明するって言うン。
外科部長は何人来てもらって、聞いてもらっていいですよなんてね。

隠居:じゃあ、自分がどんな手術をされるのかその場で事前に何でも聞けるンじゃね。

辛好:これまで5年付き合ってきた心臓血管外科の脇田部長と今回、辛好の主治医になったN先生の二人が出てきて脇田部長が黒板に図を書いて、
手術内容とか時間とか説明してくれたン。


 この病院で同じ手術を年間20例から30例やっており、成功率はほぼ99%だから安心して欲しいが、
100%安全だとは言えませんなんてね。怖気がついて患者に止めますなんぞとと言われないようにソフトに丁寧に説明してくれたン。
ただ、こっちがどれくらい切るんですかって聞くまでは、切り口なんぞのことを具体的に向こうから言わなかったのは笑っちゃった。
聞いて「ヤダもう手術は止めた。オレ帰る」なんて言い出す奴が時々いるに違ぇねえって思ったね。
面白かったのは、最後の方に若手のN先生が「この手術だけは手術しても患者に感謝されない手術なんだよね」って言うんだよね。
「なんでです?」って聞いたら、破裂の原因が取り除かれるから、破裂そのものはもう起こらねえんで、手術の後の痛みだけが残って、
恨まれこそすれ感謝は後々までされないんだと。

隠居:なるほどそう言われてみれば、そういうこった。こいつはおもしれえ。

辛好:まあ、手術説明会のもう一つの目的は「手術同意書」、「輸血同意書」にスムーズに署名してもらうことにもあるんだなと思ったね。
それと裏を返せば、あれの本音は医療訴訟に備えているんだ。
それからこれとは別に麻酔科の担当医との面談もあったなあ。アレルギーやこれまでの煙草と酒の付き合いなんぞ聞かれましたよ。
そしてインタビューの後、「麻酔同意書」にも署名だよ。
それから当日の手術室の担当看護師、今は看護婦って言わないんだね、も病室に来てアタシの顔を見ていった。横浜市立大学病院だったかで
手術患者の取り違えがあってから、トリプルチエックくらいで顔を確認する仕組みになったんだと思ったね。

隠居:そりゃ当たり前といえば当たり前だが、安心だね。それで手術は何時間くらいのもんだったんだ?

辛好:1時25分に看護師が呼びに来て、一時間ほど前からつけていた麻酔液の入った点滴ハンガーを自分で押しながら手術室へ歩いて行った。
入り口で身内と別れて、なんか台に乗ってくれと言われて、乗ったらでは始めますと言われてからはもう覚えがなかった。
それから次に気がついたら身内がベッドの上から覗きこんでいたな。後で聞いたら5時20分に終わりました、
目が覚めたからどうぞってN先生が呼びに来てくれて、集中治療室に入ったって。
予定が3時間で麻酔処置など前後一時間って言ってたから殆どピタリの時間だったみたいでさあ。

隠居:麻酔がうまく醒めねえで、管を取ったり暴れる奴もいるらしいがお前はどうだったい。

辛好:先生には名前を呼ばれて普通に返事をして醒めたらしいが、その後が大笑いでさあ。    
カミサンと娘の顔が見えたとたん「ヨッ、どういう訳かここに美人が二人いるよ」って言ったらしいン。
カミサンはこんなときに身内にヨイショしてどうするって思ったって。
ワタシはこれを後で聞かされた時、芸人の悲しいサガを思ったン。    
それからもう一つ、「出血も少なくて自己採血の半分の400cc使うだけで良かったんだって」と手術後の身内に対する手術結果の
説明で聞いた事をカミサンが言ったら、ワタシが「日頃の冷血人間は、血液の量まで少ないんだ」って訳のわからないことを口走ったってさ。

隠居:お前いつも身内から冷たい人間って言われてるから、そういう時に気にしてることが出るんだよ。

辛好:そんなことがあって、翌日の午前中に病室に戻ったら、すぐさまリハビリですって言われて、トイレもベッドから起きて行けって、
まだ縫ったばかりの腹を抱えてどんどん歩いて動けって。
点滴も丸4日間で後はオカユになった。
手術の後の医者の関心は、どうも人工血管が中でちゃんとくっつくのは当たり前、腸がだんだん動くかどうかが問題らしくて、
ひっきりなしに看護師が来て腹に聴診器を当てて、あっ腸が中で動き出しましたなんて嬉しそうに言 うン。
1日一回傷口の消毒に来たとき初めて見たが、縦線の切り口はあまりカッコのいいもんではなかったすよ。
24時間腹帯を締めて、切り口が離れてヘルニアにならないように、ゼッタイに腹に力を入れるなと無理難題を
言われてるのがいまだに一番弱ることでさあ。


日頃あまり意識してなかったが人間、声を出すにも下腹に力入れてるン。
この手術後の最大の難関は雲古みたいなン。初めて雲古が少量出たと報告した時は先生も看護師も喜んだね。
便秘予防の漢方薬が出て飲むんだが、なかなかうまくいかないのでふと思い立って、下腹を刺激するために
「声に出して読む日本語」をやろうと思って、「般若心経」を称えるようにしたら臍下丹田が整ってきたらしく、
腸が動き出したン。「般若心経」でも「サラダ記念日」でも「風の又三郎」でも李白の「靜夜思」でも何でもいいンだが、
声に出してみて「息を長く吐く」ことの大事が又わかったン。

隠居:まあ、お前はそんな御託を並べて冷房の効いた病室で五輪を見ていりゃいいんだが、どうだい手術で入院したという経験は。

辛好:いやあ、職人芸の凄腕の先生方も有難いが、月並みながら、24時間中、検温、血圧、腹の聴診器、点滴とやってくれる看護師チーム、
ルームメークのおばさんなど、誰一人欠けても自分のイノチは、うまくまわらねえとつくづく思ったねえ。ホントに他人様に吾が命を預けっぱなしだよ。

隠居:それとなんだかんだ言っても暑い中、病院に通った身内が一番心配で大変だったはずだから、おめえが無事に医療事故もなく家に帰れて良かったよ。

辛好:病院から家に帰って最初の夕飯のときに次女いわく、広島で偶然コブを見つけてもらって、神戸で腕のいい先生にめぐり会うなんてオトッツアンやっぱ悪運が強いよね。
そしてカミサン曰く、それもそうだけど、この病気は結局、自業自得なんだよね。


 ワタシはこれを聞いて心づくしの退院祝いのお赤飯を噛みしめながら、人生、誰のせいでもない、自分のクジは自分で引くンだと改めて実感したんでさあ。

隠居:まあ、ちょっとキツクは聞こえたかも知れないが、きっと身内の嬉しさの裏返しだと思わないといけないよ、それは。
それにしても、おまえさんが入院中自分でやったことと言えば、冷房の効いた部屋でアテネをミテネてただけのことだな。

    お後がよろしいようで。

2004.09.04 記

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
手術後3か月して一回経過を見て頂いて以来、2004年以降無罪放免ですが、やはり動脈硬化は腹部大動脈血管だけでなく心臓の冠動脈にも生じており、
2010年に同じ神戸労災病院で冠動脈狭窄の3本の血管へのステント挿入カテーテル手術を受け、手術後ずっと循環器内科で2か月に一回の検診を受けています。

      

  脇田先生に執刀していただいた。

2017年10月 神戸新聞

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ軍楽隊の世界最古の行進曲<ジエッデイン・デデン>のCDを探した  NHKテレビドラマ「阿修羅のごとく」でいつも流れた  茶話 8

2023年09月20日 | エッセイ
 

「あのう、昔のトルコの軍隊の行進曲で、ずいぶん前にテレビドラマの「阿修羅のごとく」のバックに使われていた曲が入っているCDはないかなあ?」

外出して相方がレコード店に入る度に、自分はもう何年も行進曲の棚を探して来たが、この曲が入ったCDを見つけることが出来なかった。

 

テレビドラマの「阿修羅のごとく」は昭和54年と55年にNHKで放送された。そしてそのバックにこの曲が使用された。

なんとも不思議なメロデイーとリズムの曲だが、一度聞いていいなあと思った。そしてシリーズが終わる頃には何とか口笛で吹けるようになっていた。

放送が終わってから録音しておけば良かったと思ったがもう遅かった。

 

向田邦子原作のドラマも面白かったが、この曲を聴きたいためにこのテレビドラマを見ていたこともあったかも知れない。

長年探しても見つけることが出来なかったので、この曲を入れたCDはないのかも知れないと思うようになりだしていた。

しかし最近は本屋も店員が本のことを良く知っていて書名か作者名を言うとすぐ棚を教えてくれたり、棚に案内してくれることを思って、

レコード屋もそうかも知れないと思い、その日入った堂島アバンザのレコード店の女店員に聞いてみた。

 

「はい、それってジエッデイン・デデンという曲じゃないでしょうか」と彼女はすぐにしかも迷わず言いながら歩き出した。

私は「曲名は知らないんだけど・・もう随分昔のことで・・」などと口の中で我ながら訳の分からないことをモゴモゴ言いながらついて行った。

(外国の音楽)という棚のところに連れていかれた。いままで目に入らず素通りしていた棚だった。

彼女は迷わず「トルコの軍楽-オスマンの響き」というCDを取り出して渡してくれた。そしてこれ結構出るんですよと言った。

 

収納曲の一番先に「古い陸軍行進曲 ジエッデイン・デデン(祖先も祖父も)」というのがあった。

直感的にこれだと分かった。1999年8月6日発売となっていた。

もっと早く店で聞けばよかったと思った。 この曲のフアンが世の中に沢山いるようで嬉しかった。

 

向田邦子さんは昭和56年の8月22日に台北から高雄行きの飛行機が空中分解した事故で亡くなった。

この曲を口笛で吹くと、彼女が書いた面白いいろんなドラマが頭に浮かぶ。

 

余談ながら、私はその1週間後に出張で同じ路線の飛行機で高雄に行ったが乗客は5人しかいなかった。

当時高雄の中国鋼鉄の新製鉄所の設備商談が山場で、日本のメーカー各社から人が多く通っており、

月に一度の出張のたびいつもチケット確保が大変な路線だったのだが、事故の後はしばらくガラガラだった。

 

早く聞きたくて、レコード店の近くのスナックでこのCDをかけてもらった。時間が早くて他の客はいなかった。

懐かしい響きが流れてきた。間違いなく探していたあのトルコの軍楽隊の曲だった。2月に大阪歴史博物館のトルコ3大文明展に行ったが、

期待していたが会場でも販売していなかった。そのときがっかりしただけによけい嬉しかった。

 

聞いていると断片的にドラマの場面も浮かんでくる。それにもましてやはり曲自体がいい。

後から出勤してきた別の女性が店に流れるこのトルコの軍楽を聞いて「どこの球場の野球実況やってるの?」と聞いた。

ちがう、このCDをかけてるんやというと「エ~、阪神の応援団の応援が聞こえてるとばっかりおもてた、そやけどまだシーズン前やしおかしいなあとおもた」と言う。

そう言われれば他の曲はどれも本当に球場のラッパや太鼓の応援そのものにも聞こえる。

 

西暦4世紀に出来た世界最古のトルコ陸軍軍楽隊の音楽は、やはりアジアの音楽の源流の一つかも知れない。

理屈ではない懐かしい気持ちが湧いてくる不思議な曲だ。

焼酎のお湯割りを飲みながらこのCDを聞いていると、トルコの音楽がシルクロードを通って中国に入り、中国経由で日本に来て、演歌の源流になったに違いないと思えてくる。

 2004.03.10 記

ジェッディン・デデン(Ceddin Deden)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霞ヶ浦から荷を担いで 通ってくるおじさん と 「どじょう豆腐」の話      茶話 7

2023年09月19日 | エッセイ

昭和51年のある日、勤め先の神田から流山市(千葉県)の社宅に帰ると、夕食に焼いたワカサギやゴリやハゼ、川エビの佃煮が出てきた。

  好物なのですぐに食べてみたら、とてもおいしい。  どこで買ったのと相方に聞くと、

 

今日自転車の荷台に箱を乗せた小父さんがやって来て、アパートの一軒一軒を回った。

味見をしてみたらおいしかったので買ってみた。ねえ、おいしいでしょうという。

 

小父さんにどこから来たのと聞いたら、霞ケ浦から来た。これからも買ってくれるなら時々寄るよと言ったので寄って下さいって頼んでおいたわよ。

 とても凄い茨城弁で言葉は半分くらいしかわからなかったけど、仲間が霞ケ浦で取った魚を自分で加工してそれを常磐線の駅毎に下りて行商していると言っていたわ。

小父さんはその後、ほぼ定期的に寄ってくれるようになり、スーパーで買うのとは違い捕ってすぐの加工なので、新鮮で化学調味料も使ってなく子供たちも喜んで食べた。

 

私の通勤最寄り駅の南柏から会社のアパートへ来るまでに、途中のお客さんに殆ど売れてしまい、残り物しかない日もあるので、

来客の手土産や神戸に帰省するときの土産にする時は、小父さんの自宅の電話番号を聞いておき、あれを300g、これを200gとか頼むようになった。

 顔を見て話すぶんにはなんとか理解出来るけど、電話で本物の茨城弁を聞き取るのはホント大変と言っていた。 

茨城県の言葉が東北弁のエリアに入るのはそれまで知らなかった。

 

ある日、帰宅すると子供達がバケツを覗き込んで騒いでいた。今日は小父さんが、生きたドジョウを持って来ていたのでアナタが柳川が好きだから

明日の休日の晩に柳川鍋をしようと思って買った、と言う。

 

突然、何かで読んだか聞いた料理法を思い出した。鍋に汁と豆腐とドジョウを一緒に入れて火にかけると、

まもなく熱くてたまらないドジョウがいっせいに豆腐に頭を突っ込んでどじょう豆腐が出来る。それがとてつもなくおいしいと。

翌日、相方はそんな料理法は聞いたことないと半信半疑だったが、強引なダンナに負けてトライしてくれた。

 

       台所は修羅場になった。ガスをつけてしばらくするとガタガタという大きな音がして蓋を押しのけて必死のドジョウ達が鍋から飛び出した。

コンロの上の鍋から落ちたドジョウが台所の床を這い回る。

子供達はキャアキャア言って逃げ回る。

そこら中水浸しで、鍋の中の豆腐はカタチがないほどグチャグチャだ。

 

 無言で冷ややかにこちらを見る相方の目を外し、必死でドジョウを捕まえた。

結局その晩はドジョウを捌いて、相方の当初レシピどうり柳川鍋に落ち着いたが食べおわったのは随分遅かった。

水浸しの床掃除は当然、自分以外誰もやってくれなかった。

 

 その騒ぎとは無関係に子供が飼ってみたいというので、ベランダで一匹だけ小さなバケツに別にしていたドジョウは、

1週間後、幼稚園児の長女がつかんで遊んでいた時、手からスルリと抜け出し、あっという間にアパートの四階から下へ落ちた。

あーっ、お父さん、ドジョウが落ちたヨという娘の声で4階から下へ一気に階段を駆け降りた。

ドジョウは芝生の上で何もなかったように動いていた。ドジョウを掴んで上がって来ると心配顔の娘達は大喜びだった。

 その後、このドジョウは餌をもらい丸々と太り、長くベランダのバケツに住み着いた。

 

  しかし相方は小父さんからドジョウを買うことは二度となかった。

10年くらい経って神戸に住むようになり、元町商店街の外れに泥鰌料理専門の小さな店をみつけ、二人で柳川鍋をつついた時

相方がアナタは時々とんでもない事をおもいつくからと当時を思い出して笑った。

そして、今思い出したけど、どじょう豆腐clickは たしか落語のネタのどれかにあったんじゃないと言った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セロリ栽培 日本初めて 物語        茶話 6

2023年09月18日 | エッセイ

戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は殆ど知られていませんでした。

☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として数多く駐留しました。

 

昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって同盟軍として58年経つ今も、継続して駐留してくれています??

(2003.7.14記)

 占領軍のトップであるゼネラルマッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで常食するのでその材料の調達が毎日毎日必要でした。

しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は調達出来ませんでした。

 

なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。

 戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は一般家庭では殆どありませんでしたし、日本人は昔から低コストで資源の有効活用をしていたのです。

 止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて野菜を作らせるようにしました。

 

米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、

それまで日本ではあまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。

   その一つにセロリがありました。

当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ、寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、

カラッとして湿度が低い土地に良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。

 長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。

 

色々と試行錯誤の結果、アメリカで取れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と

米軍検査部門の厳密な検査にパスし関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。

日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。

 

☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の茅野市玉川へ四日市から遊びに行って、始めてセロリに 出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、

あの独特の匂いが漢方薬の匂いのようだと思いました。

 

 その後長い間セロリは四日市の家の近くの八百屋では見かけませんでした。

そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降マーケットにも少しづつ出回るようになり、

今ではどこのスーパーでも売られている野菜になりました。

 

 茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として味噌汁の具や、

漬物にも使われてよく食べられています。洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。

 

 諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、

セロリは東京という大消費地へ出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。

恐らく今でもセロリの出荷額では日本の中では長野県がトップclickだろうとおもいます。

 

*以上の話は 最初に農林省から試験栽培を言われた農協の一つの組合長をしていた母の兄である伯父と一緒に、日本で最初にレタス栽培導入に携わり、

今も専業でレタスを作っている従兄から今回の前半の話を聞いて構成。

 

 ♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」というアメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、

紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、あれはなんだろうと長年思っていたのですが、

あるとき「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

Before the war, the vegetable celery (Japanese name: Holland mitsuba) was almost unknown in Japan.

After Japan lost the Pacific War, many U.S. troops (including British and Australian troops) were stationed in various parts of Japan as occupying forces.

 

It has been 58 years since the first year of occupation in 1945, and they are still stationed in Japan as allied forces even though their names have been changed.

(2003. 7. 14 note)

 General MacArthur, the head of the occupation forces, and other U.S. generals ate fresh vegetables in salads on a regular basis, so it was necessary to procure the ingredients for them every single day.

However, although fresh vegetables were available in Japan, it was impossible to procure vegetables that could be eaten raw.

 

This is because, at that time, most vegetable farmers in Japan were found to be using a lot of traditional recycled golden fertilizers (or human feces fertilizers), which have been used since the ancient times of the Japanese archipelago.

 In prewar Japan, as is the case with the Chinese and Taiwanese people of today, it was not customary for most households to eat vegetables raw, and the Japanese had always made effective use of resources at a low cost.

 The Occupation Procurement Office ordered the Japanese government to produce vegetables in a clean environment using only chemical fertilizers.

 

Among the vegetables grown at the U.S. Military Procurement Department's "Vegetable Cord" were potatoes, carrots, cabbage, and onions, among others, which were their favorite foods,

Among the vegetables grown in the "Vegetable Growing Cord" were potatoes, carrots, cabbage, onions, and other vegetables that had never been cultivated in Japan before.

   One of them was celery.

The Ministry of Agriculture, Forestry and Fisheries at that time investigated the climatic conditions of the land where celery was grown in the U.S., and found that cold regions were suitable, with a large temperature difference between morning and evening, and during the day,

The Ministry of Agriculture, Forestry, and Fisheries conducted trials in Hokkaido and Nagano Prefectures, finding that celery grows best in cold climates with a large temperature difference between morning and evening and low humidity.

 In Nagano Prefecture, celery was cultivated in the highlands at the foot of Mt. Yatsugatake, mainly in present-day Chino City and Hara Village, now known as Pension Village.

 

After much trial and error, it became possible to produce celery of the same quality as that grown in the U.S.A. The seedlings were grown, grown, taken in, cleaned, packaged, and transported to the U.S.A. for strict inspection by the U.S. military inspection department.

After passing strict inspections by the U.S. military inspection department, the celery was shipped to the U.S. military garrison in the Kanto and Chukyo areas. The shipping boxes were labeled "clean vegetables" for the purpose of shipping.

The vegetables that were sold at ordinary Japanese grocery stores (this was more than 10 years before supermarkets appeared in Japan) and that our parents and we ate every day were not clean for them.

 

When I went to my mother's hometown, Tamagawa, Chino City at the foot of Mt. Yatsugatake during summer vacation in junior high school from Yokkaichi and met celery for the first time, I went into the earthen floor where celery was piled up,

When I entered the earthen floor where celery was piled up, I thought its distinctive smell was like the smell of Chinese herbal medicine.

 

 For a long time after that, celery was not seen in the grocery stores near my house in Yokkaichi.

Then, as time went by, celery gradually became known to people, and even in the Kansai region, after the Expo, it began to appear in markets little by little,

Nowadays, celery is a vegetable sold in every supermarket.

 

 My cousin on my mother's side in Chino has been a celery farmer for decades, and celery is also a very common and popular vegetable in the Suwa area,

In the Suwa area, celery is a very common and popular vegetable used in miso soup and as a pickle. Celery is often washed, dipped in mayonnaise, and eaten as is, and pickled celery is one of my favorite dishes.

 

 The Suwa-Chino area is a cold region that also produces agar and frozen tofu (koya-dofu), so the yield per unit of rice is not good,

However, celery has long been cultivated in Suwa as an advantageous suburban vegetable in the summer season that can be shipped to Tokyo, a major consumption center.

Nagano Prefecture is probably still the top clic in Japan in terms of celery shipments.

 

The above story is about my uncle, who was involved in the first introduction of lettuce cultivation in Japan together with my mother's brother, who was the head of one of the agricultural cooperatives that was first asked by the Ministry of Agriculture and Forestry to conduct experimental cultivation,

I heard the first half of this story from my cousin, who still grows lettuce full-time, and composed it.

 

 Â By the way, there is an American family cartoon called "Blondie" that was serialized in the Asahi Shimbun newspaper in the late 1945s, in which the husband, Dagwood, eats his lunch at work,

In the scene where the husband, Dagwood, is eating his lunch at work, there is often a scene where he pulls out a long, white thing from a paper bag, separate from the bread, and covers it with it, and I had wondered what that was for many years,

One day it occurred to me that it might be celery, but what do you think?

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九州の若松市二島で昭和24年に小学校に入学した。 商店街の真ん中を走る蒸気機関車と米軍戦車の長い列を見た。     茶話 5

2023年09月16日 | エッセイ

昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。

1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。

月に一度か二度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。気が重くなるのはそのことではなかった。

 

行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって

「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と甲高い声で叫ぶのだった。

きれいに見えた着物も近づくと薄汚れていて髪の毛も殆ど梳かした様子がなかった。
 
その人の手前でつい足が遅くなった僕に「早くおいで」と母から声が飛び慌ててその人の横を通り抜ける。
 
その人を見るのがつらいのだった。
 

その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。

子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。

 そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。

その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年もこうしているが、

駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。

 

2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、

大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。

買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。

 こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、母の買物が済むともう帰る時間だった。

出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。

若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。

行きたくない若松も、あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。

 

3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。

大人の声もして県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。

あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。

 

朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。

先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。

 「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。

もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。

 

赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。

 

その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。

 

それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。

芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、

そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。

 

そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。

当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。

 

町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

福岡県 若松~飯塚:若松駅~藤ノ木駅~シャボン玉石けん~デンソー九州~北九州学術研究都市~本城駅~折尾駅【空から公式】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

北九州市から小学校2年生当時の写真を入れた手紙が2019年9月に届いた。

封書が届いた。差出人の住所は北九州市八幡西区となっており、お名前には心当たりがない。

封筒を開いてみると手紙と共に写真が一葉同封されていた。

お手紙によると送ってくださった方は、小学校(二島にあった当時若松市立島郷第2小学校)の一、二年時に同じクラスでしたと書かれていた。

 

遠足で行った撮影場所は今の北九州市の折尾公園だと思うと書いてある。

先生や前列の方の名前が書いてあり、前列右端の阿智胡地亭の隣に座っている方がその方だった。

昭和26年撮影の写真を目の前にして遠い昔の小学校生活が目に浮かんだ。


家から2㎞の通学路は田圃と山道の連続で、入学早々の身には遠かったが学校生活は楽しかった。

 幼稚園という団体生活の経験がなく、生まれて初めて集団社会への参加だったが何とか毎日遠い小学校に集団通学で通った。

  そのうちに北九州弁にも慣れてみんなと喋りよったですもん。

当時まだテレビもなく、九州弁以外の日本語を聞くのは先生も含めて周囲の全員がNHKラジオだけだった。

 当然彼らが喋るのは北九州弁だけだったから、小学校に上がる一年前までは三重県四日市にいて、

そこから引っ越してきた自分は嫌も応もなく、周囲の誰もが喋りよる北九州言葉ば覚えんと学校におれんかったとよ。

 

 Oさんわざわざ68年前の写真を送って頂きありがとうございました。

 2019年9月23日記

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする