癖
むかし女いじめっ子がいた
意地悪したり からかったり
髪ひっぱるやら つねるやら
いいイッ! と白い歯を剥いた
その子の前では立往生
さすがの私も閉口頓首
やな子ねぇ と思っていたのだが
卒業のとき小さな紙片を渡された
ワタシハアナタガ好キダッタ
オ友達ニナリタカッタノ
たどたどしい字で書かれていて
そこで私は腰をぬかし いえ ぬかさんばかりになって
好きなら好きとまっすぐに
ぶつけてくれればいいじゃない
遅かった 菊ちゃん! もう手も足も出ない
小学校出てすぐあなたは置屋の下地っ子
以来 いい気味 いたぶり いやがらせ
さまざまな目にあうたびに 心せよ
このひとはほんとは私のこと好きなんじゃないか
と思うようになったのだ
旅行会社の募集要項では、伊丹空港から利尻空港に飛び、そのあと船で礼文島に渡るという旅程でしたが、何か事情が変わって関空から稚内空港、
そこから船で先に礼文島へ渡ると言う当初とは逆周りのコースに変更になりました。
そのお陰と言うか、塞翁が馬と言うか、最初に渡った礼文島で丁度咲き出した「礼文アツモリソウ」をたっぷり、じっくり見る事が出来ました。
レブンアツモリソウとカラフトアツモリソウのハイブリッド。
イワベンケイ
礼文島の岬
2005.6.19記 。
☆2泊3日で利尻・礼文島に行きました。昭和40年の8月に当時流行の学生のカニ族でこの2島に行ってから、丁度40年ぶりです。高山植物の花々を平地で見ることが出来るというのが、当時も利尻島、礼文島のウリでした。
勿論、利尻富士の秀麗な姿は、その頃も今も最大の観光資源です。自分の頭の中に残る当時の印象は、島には花々と海岸に漁師の漁具を格納する納屋が点々と散開するいうイメージだけでした。舗装道路はどこにもなく砂地の道が歩きにくかった記憶があります。全てが木造の建物のみでコンクリート造りの建造物は皆無だったと思います。そして今回、当たり前と言えば当たり前ですが、この島も戦後60年の「土建国家日本」の恩恵を受けていることを実感しました。
そして島の個人住宅の変貌を見て、この2島が本土の観光客の憧れの地であり続けてきたことがよくわかりました。全部が全部ではありませんが、内地では見られない洒落た北欧風の家が島のあちこちに建っています。漁業収入に観光ビジネスの収入がプラスされたのでしょう。
☆ 飛行機が伊丹発から関西空港発に変更になったため久しぶりに湾岸線を走りました。今回はバスで行ったので目線が高く、窓から関空まで外の様子が良く見えました。神戸から関空そしてまだその先までずっと高架道路ですから、恐らく100kmほどの長い長い橋の上を走っているのと同じだと思いました。
神戸から大阪を通って和歌山まで切れ目なく工場と港湾設備が続いていることに改めて驚きます。大阪南港に近づき各種の港湾クレーンを見ていると、ある鋼材センターに自分が販売を担当して昭和44年ごろに納入したクレーンが見えてきて、ああまだ使ってもらっているんだと嬉しくなりました。
☆ この沿岸にえんえんと続く化学工場、製鉄所、配送センターなどを見て走ると、見ている対象は全く同じ湾岸風景なのに、東南アジアから帰国した時は、日本経済の活力は凄いなあと誇らしく思い、欧米から帰国すると、もう少し外観がきれいな街つくりが出来んかったもんやろかと思うのは、比較するその時の自分の“物差し”が違うからでしょうか。
今の日本の工業地区は中国とは異なり、各地の公害問題で沢山の人が苦しんだ長い期間を経て、走っていても公害機器の導入や法による規制などで空気が臭いと言うことがないのは、アジアのほかの国とは大変な違いだと思いました。
☆ 飛行機が飛び立ってまだ30分くらいと感じる頃に窓際に座った相方から、目の下に雪が放射線状に広がっている山がいくつも見えると言われました。まさか日本アルプスではないだろうしと思ったら、機内放送が本機の右下に松本の町が、左側に富山の町が見えておりますとアナウンスしました。早くも長野県の真上を飛んでいたのでした。それから1時間半後に稚内空港に着陸しましたが、風雨が横殴りに吹き付け、温度は6.9度という予想外の天気でした。
☆ ツアーは全員で25人で、そのうち男性は5人だけでした。夫婦連れは二組だけというのも少し意外でした。ホテルの男性用大浴場はどの時間帯もガラガラでしたから、他のツアーも男性が少なかったのでしょう。おかげで露天風呂にゆっくり漬かることが出来ました。
ツアーの全行程を通じて殆どが自分より年配の皆さんの、歩く事、喋る事、食べる事の元気さには驚くしかありませんでした。