阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
1942年生まれが江戸川区から。

インド・ムンバイでお世話になった商社駐在員の家族        昭和50年代の海外あちこち記    その12  

2024年08月29日 | 昭和50年代の海外あちこち記

ボンベイ(ムンバイ)によく行った昭和55年頃は中印紛争の余韻が残っている時期でした。

中印紛争のあおりでボンベイ市内に数多くあったという中華料理屋はみんな店を閉めてしまい、

オーナーの中国人は国外に出てしまっていました。

そのため、中華メシは海外のどこに行っても食えるという安心感がこの都市では無くなっていました。

 これで困ったのが日本からメーカーの人間を印度の商談に呼ぶ日本の商社です。日本メシ屋は当然ない、中華メシ屋もなくなった。

ホテルの西洋料理屋では牛肉を使ったメニューはハムステーキくらい。メーカーの出張者に一日三食何を食べさせたらいいのか。

 インド料理のスパイシーなおいしさに、その日からはまった私などは例外中の例外らしく、殆どの日本人はインド料理=カレー料理=辛い→とても口に合わない、

というイメージが強く、ハナから敬遠してしまいます。

実際は辛いといっても、辛さそれ自身は知れているし、辛いというのではなくスパイスの旨みであり、スパイスも種類が豊富で野菜の使用量も多く

健康食の一つなのですが、日本人に長年CMなどで刷り込まれた<インド料理は、辛い料理>という既成観念は凄いものだと驚きます。


 ボンベイのオベロイホテル滞在も何日か過ぎ、毎食、果物とパンとコーヒーだけしか口にしない人も出て来たある朝、

東京から同行した商社・M商事の長谷さんが「皆さん、今晩は楽しみにしてください。カツドンと味噌汁と漬物を食べてもらいます。」と言いました。

「おおーっ」と皆どよめきましたが、雰囲気はどこでそんなもん食えるんやと半信半疑でした。その夜、機械担当駐在員の車でオフィスを出ました。

5人のメンバーは結局、彼の自宅のアパートに招待されたのです。


 ダイニングキッチンのテーブルにはもう日本の家庭料理の皿が沢山並んでおり、奥さんに挨拶して全員ニコニコ顔で、席につき次々おいしい日本食を堪能しました。

狭い台所の横のテーブルですから奥さんとインド人の料理人が大車輪でコロッケやポテトサラダなどを作っているのが見えます。


 さすがに日本酒はなかったけど、インドでいいものが出来るジンやスコッチ類は飲み放題で、久しぶりにゆっくりとした頃、家の中を見るとも無く見ると

前に住んでいた千葉県南柏の3DKの社宅のアパートとよく似た間取りで、時々小学生くらいの娘さんが台所の隅を通ってトイレに行っているのが見えます。


 大阪支店から数年前にボンベイ勤務になったと聞いていましたが、旦那も奥さんも大阪出身の「ジュンカン」

 (純粋の関西弁を喋る人を表す言葉)で、ボンベイで聞く大阪弁は耳に心地よく響きました。

奥さんにも話の輪に入ってもらい、日頃の生活ぶりを伺いました。

料理をしているインド人は代々の機械担当駐在員が引き継いでいる料理人だそうです。

彼は日本の家庭料理は何でも出来ます。私よりレパートリーは凄いンですと笑っておられた。

彼の家はここから半日ほどバスで行く町で、半年に一度休みで帰るくらい。普段は住み込み。

見た目50歳くらいの温和な白髪交じりの人で、恥ずかしそうに少し日本語をしゃべりました。

 買物などにもついてきてもらう。最初のうちはとても一人で買物は出来ない。

お嬢さんは小学5年と中学一年の二人、確かアメリカンスクールへ通っていると言われたような記憶。

 二人は、はにかみながらも最初にきちんと挨拶してくれた。

奥さんは「商社やからどこへ行け言われても、いかなあかんけどボンベイとは思いませんでした。

まだしばらく帰してもらわれへんと思うから、もう少しここで頑張らんとネ、ハハハ」と笑って言われた。


 こうして旦那の会社の仕事のためとは言いながら、夜、自宅を取引先のいろんな会社の人に提供して

(担当者だから決して広いアパートではなかった)

酔っ払って遅くまで帰らぬ客の為、子供さんも影響されながら頑張っておられる日本人商社マンの家族。

申し訳ないがお名前を忘れてしまったけど、こうするのは当然の事という感じで自然体で遇してくださった

奥さんとあのご家族のことは忘れられません。


 後で長谷さんに聞くと、インドの華僑がインドを出てしまい中華料理屋がなくなってから、

ボンベイの駐在員の家族には悪いけど、ああして自宅での接待を頼んでいると。

 外人が住めるような住まいが少なく、家賃が恐ろしく高いので狭いアパートしか会社も借りてくれない。

コックの給料と食事の材料費と酒代は当然会社持ちだが、奥さんと家族の貢献代は給料のうちで会社は持ってくれない。

機械担当は商談数が一番多く、納入業務も多くいろんなメーカーからいろんな人間がボンベイに来ます。

エライさんからペイペイまで、グループ各社のVIPも含めて。

ウ~ンできんこっちゃと正直思いました。あのクーラーも効きかねる暑さのボンベイの日本飯、感謝感激でありました。

 ついでながら、いま、神戸に生まれ神戸で育った人たちに神戸に数おおいインド料理屋を紹介したり、

(代々の神戸人は意外に保守的で、新しいものに手を出さない人も多い)

正月の初詣の後はインドレストランで飯を食う事を習慣にしている我が家は、やはりこの私のボンベイ出張がインド料理好きの初めの始めです。

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   阿智胡地亭便り#91<ボンベイから出した手紙> 2005年9月6日 記

自分の子供時代の品物を整理していた長女が、「お父さんがインドから送ってくれた手紙が出てきたよ」と言って、その手紙を私の所へ持ってきました。

 読んでみると、長女の小学校の入学式のことが書いてありました。それからすると昭和55年(1980年)の4月ごろに、インドのボンベイから、

当時住んでいた茨城県北相馬郡藤代町(現取手市藤代町)の自宅に出した手紙です。(当時のボンベイは今はムンバイという名になっています。)


     泊まったホテルはオベロイホテル。

「Y子へ

 おとうさんは おしごとで たいわんから また べつのひこうきにのって いんどの ぼんべいというところへ きています。

ままに ちづでどこか みせてもらいなさい。いんどの人ひとはいろが みなくろく にほんじんとは かおやからだつきが ちがっています。

 Y子のにゅうがくしき おめでとう。おとうさんが いえへかえってから にゅうがくしきのときの ようすを

おはなししてください。おとうさんの にゅうがくしきのときは きゅうしゅうの わかまつ ふたじま というところに いました。

がっこうのさくらのはなが まんかいで きれいでした。

これから あたらしいことを たくさん べんきょうして よくかんがえるこどもになってください。そしてじぶんのかんがえを はっきり いえるようにしよう。

 M子と なかよくしていますか。ときどきはけんかしてもいいけど(M子がわがまましたりするとき) ままと M子と みなで なかよく

ぱぱのかえりを まっていてください。では げんきで まいにちがっこうへ かよってください。 ぱぱより。」



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