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『回天の門』 上 下巻 (文春文庫) 2016/3/10 藤沢 周平 (著)

2016年06月03日 | 本と雑誌

この記事は書きかけです。

『回天の門』 上 下巻 (文春文庫) 2016/3/10
藤沢 周平 (著) 

これも名瀬の書店でみつけた
2016/3/10 の新装版(1978年刊行)だが、
なにかあるのかなあ。

上巻は、藤沢らしい、わかりやすいく端正な文章で、
14歳の元司(清河八郎)の廓遊びの話から始まる。

このまま、フィクションでいつもの藤沢作品のような上質で切れのいい展開を
期待したいことろだったが、下巻では一転、幕末の血なまぐさい政治の話になる。

司馬遼太郎をして「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本竜馬が閉じた。」と言わしめたという
清河八郎をとりあげた主な作品は、

司馬遼太郎の「奇妙なり八郎」
柴田錬三郎清河八郎 (集英社文庫) 文庫  ? 1989/11
海音寺潮五郎 幕末動乱の男たち〈上〉 (新潮文庫) 1975/1/31

などがあるが、

藤沢はあとがき」で
「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策師あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える」
と書いている。

たとえば

p323慶応三年十月、薩摩藩の西郷、大久保は、幕府を挑発するために
江戸から関東一帯に騒乱を起こし、また岩倉具視とはかって
討幕の密勅なるものを偽造し、薩摩、長州ニ藩の藩主父子にくだした。

これを山師的策謀と言わないのは、時代が煮つまって来て、
手段を顧みるいとまがなかったという一面があるにせよ、
西郷や大久保が結局は当時の幕藩体制の
内側にいた人間だったからだとは言えないだろうか。p323

ひとり清河八郎は、いまなお山師と呼ばれ、策士と蔑称される。
その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎた今日もなお、
草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の
口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか。p328

藤沢としてはかなり強い口調だ。

清河八郎、辞世の歌ともとれる
「魁がけてまたさきがけん死出の山 迷ひはせまじすめらぎの道」


===あとで、このへんに、久光卒兵上京、寺田屋事件=薩摩藩志士粛清事件 西郷二度目の遠島(徳之島 沖永良部島)について書くこの記事は書きかけです。

 

寺田屋事件(薩摩藩志士粛清事件 文久2年4月23日(1862年5月21日)文久2年4月23日(1862年5月21日))
の真相は、清河八郎が田中河内介(青侍=貴族・公家の家政機関に勤仕する侍)と図った京都挙兵と
いわれる。
田中は、寺田屋事件で捉えられ薩摩へ護送の途中、沖合で斬殺され海中に捨てられるが。
清川は寺田屋へ行っておらず、難を逃れている。

 

寺田屋事件の前、文久2年4月6日、久光は、西郷が下関で待ての命令を破り、志士を煽動しているとして、西郷・村田新八・森山新蔵の捕縛命令を出した。
西郷らは10日、鹿児島へ向けて船で護送された。

 

その後、西郷が赦免され沖永良部から鹿児島に帰ったのは、元治元年(1864年)2月28日であった。
禁門の変(元治元年7月19日1864年8月20日)に西郷は再び中央政治に復帰する。
 
清河八郎は、文久3年4月13日(1863年5月30日)に幕府の刺客によって麻布一ノ橋で暗殺される。
こうしてみると清河八郎の活躍が場外ファールとすれば、西郷の維新までの活躍はジャストミートであったようにも見える。

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p214「それではご家老におたずねするが、倒幕というほどの大事が準備万端ととのって実現するとでもお考えか」
「・・・」
「それがしは、さようには考えない。倒幕の機運は、われわれみずからがつくりだすものだと信じている。
機会をとらえて、一歩でもそこにむかって足場を築く。われわれはその足場づくりで倒れるかも知れん。だが
それで十分だと考えるものだ。後につづく者が、その足場をたよりに、さらに一歩倒幕にむかってすすめばそれで
よろしい。。その意味で、今度の久光公の上洛は、倒幕への最初の足掛かりを築く、願ってもない機械でござった。
断言してもいいが、こうした機会はもはや当分訪れまい」

この記事は書きかけです。