この記事は、勉強のための書きかけです。
琉球王国
神話では、源為朝(鎮西八郎)が12世紀に琉球へ逃れ、その子孫が琉球王家の始祖とされる舜天になったとされる。
また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が琉球の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという
舜天王統の実在は疑問視されている。
グスク時代
沖縄・奄美地域は琉球国に属し、目本の他地域とは異なる歴史を歩んでいた。
沖絹本島では、十二世紀ごろから(按司・あじ=地元の農民を束ねた豪族)とよばれる首長層が割拠し、
グスク(城郭 石垣で囲まれた城)をかまえて抗争を繰りかえしていたが14世紀にはそのなかから山北(さんほく)、中山(ちゅうざん)、山南の三つの王朝が台頭し覇権を争うようになった(三山時代 約100年続いた)。
その中から察度の子・武寧を滅ぼした佐敷(さしき)按司である尚巴志(しょうはし)の中山が勢力を増し、(中山王位を簒奪)尚巴志の父である尚思紹(しょうししょう)を中山王につかせて、統一への動きを見せた。
地図はwiki 三山時代 拡大します
思紹・尚巴志は、1416年に山北を滅ぼし、
その領土であった奄美諸島南部(沖永良部島以南)を侵略して領土に組入れ、
1429年には山南を滅ぼして、初めて統一国家を樹立した。
第一尚氏王朝である。(1422年頃とする説あり)
しかしこの王朝は短命で、1470年に対外交易長官であった金丸(尚円王)がクーデタをおこし、
金丸は尚円と名乗って中山王位を継承し、その子孫が十九世紀まで琉球下国を統治し続けた。(第二尚氏王朝)
島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられる。
1587年(天正15年)に豊臣秀吉の九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた。ただしこの時点では薩摩:島津義久、大隅;島津義弘、日向諸県郡:島津久保と分割して宛われた。
九州の役(きゅうしゅうのえき)
天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉と島津氏との戦いの総称
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・忠恒(家久)が当主(18代)と認められた。
この時点をもって正式な薩摩藩(正式な名称(藩名)は鹿児島藩)成立と見なすのが通説である(鹿児島県の歴史 P172)。
島津 忠恒 / 家久(しまづ ただつね/いえひさ) 初代薩摩藩主
島津貴久の孫にあたる。
慶長11年(1606年)、徳川家康から偏諱をうけ家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在するため、「忠恒」と表記される事が多い。
1609年(慶長14年)、島津家久は、徳川幕府の許しを得て琉球に出兵し、琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美諸島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。(琉球から明(中国)へと伸びる海上交易路の独占したい島津氏と、琉球の仲介で明との国交を回復したい幕府の意図が合致した)
つづく
相撲と甘いものと、そうでないものも大事ですネ。