奄美 海風blog

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絞め殺しの木★アコウ対★ガジュマル ヒカンザクラとサンキライ シラタマカズラ

2017年02月15日 | 植物

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名瀬の書店で見た面陳列の西郷関連本2冊 ★『史伝 西郷隆盛』 ★『愛加那と西郷 』

2017年02月14日 | 本と雑誌

意外とまだ、少ない。ざっと面陳列だけを探したので、もっと詳しくさがせば、あるのかもしれない。

同郷である西郷に、思い入れの強い海音寺の史実にこだわった重厚な語り口に対し、ロマンあふれる物語りで読ませる★『愛加那と西郷 』は対照的。

また★『史伝 西郷隆盛』は、奄美大島潜居に入るまでで、★『愛加那と西郷 』はそこから物語が始まり、舞台は愛加那同様、奄美を動かない。これも対照的で上の二冊は、偶然ではあるが、互いに、そういう意味では補完的と言えなくもない。2冊とも西郷に対する誤解や思いこみを解消する力は感じることができた。

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海音寺潮五郎が西郷隆盛を取り上げた主な作品 wiki

  • 長編小説『西郷隆盛 第一部』
  • 『武将列伝』収録の「西郷隆盛」
  • 『史伝 西郷隆盛』
  • 『西郷と大久保』
  • 大長編史伝『西郷隆盛』全9巻『朝日新聞』

このブログ『西郷隆盛』 第九巻 単行本 海音寺 潮五郎 (著) 2008/3/7

     2015年09月26日 | 本と雑誌
  • 学習研究社版の『西郷隆盛』」「雲竜の巻」「王道の巻」
    文庫本として 角川文庫や 学研M文庫
  • 『西郷と大久保と久光』

去年の記事 今はない、近所の桜

2017年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
 
近所の桜満開 2014年より約2週間遅れ
↑ ↓ 2014年 1月29日↑ 2014年 1月29日動画 近所の桜 見ごろ2014年01月29日 | 桜の観察...
 

街中でも、けっこう枝ぶり、花ぶりがよく、よく夜桜撮影を楽しんだものだった。

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先週 宇検村ドライブの写真

2017年02月12日 | ドライブ

 

 

宇検から国道方面へ新小勝(アランガチ)トンネルを抜けたところ。

名瀬から国道58で住用(すみよう)の先で、県道85号へ右折すると新小勝トンネルの手前ということになる。


去年の記事 ツイートまとめ アカボシタツナミソウ チガヤ カワヅザクラ 近所の夜桜とソテツとクロトン 他

2017年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
 
ツイートまとめ アカボシタツナミソウ チガヤ カワヅザクラ 近所の夜桜とソテツとクロトン 他

アカボシタツナミソウが咲いていた。 pic.twitter.com/HiqTf3JxMc— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016, 2月 11 ......
 

近所の桜は、敷地の持ち主が替わり、宅地造成されで伐採され、今年から見ることができなくなりました。


去年の記事 『明治維新という名の洗脳』 150年の呪縛はどう始まったのか? 単行本2015/9/19

2017年02月10日 | 歴史 民俗
 
『明治維新という名の洗脳』 150年の呪縛はどう始まったのか? 単行本2015/9/19
『明治維新という名の洗脳』 150年の呪縛はどう始まったのか? 単行本 2015/9/19 苫米地 英人   (著)きのうの読了。この本は、ネットなどでよく見る陰謀論の......
 

 あまり本文とは関係ないが、

記事中の★薩摩シチューデント(薩摩藩第一次英国留学生 薩摩藩遣英使節団 薩摩藩英国留学生)
1863年薩英戦争の後、慶応元年(1865年)引率係の新納久脩、寺島宗則、五代友厚、通訳、学生15名計19人)

その後の読書で、留学生の多くが、途中で藩の送金をたたれヨーロッパで四散、帰国後も栄光へ背を向けた人生を送ったものも多いと知った。
彼らは英国の現実を知りwiki欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っているwikiと、鹿児島の駅前にある銅像(今でもあるのかなあ、若き薩摩の群像)の雄姿には、そぐわない留学だったらしい。


写真:名瀬港 琉球エキスプレス/ アマミノクロウサギの糞/高倉の屋根様のソテツの枯れ葉

2017年02月08日 | 写真

名瀬港 琉球エキスプレス まもなく荷役作業済み次第徳之島向け出向

撮影日不詳 22時過ぎ写す。↑↓

↓ 乗船が終わり、まもなく閉まる名瀬港待合室

たぶん、アマミノクロウサギの糞

湯湾岳への道

高倉の屋根のような形をしたソテツの枯れ葉とヒカンザクラとヒカゲヘゴ ☆撮影地 大島郡瀬戸内町 高地山(展望所台)への道すがら ★高倉(たかくら=高床式倉庫)奄美大島の高倉★(日本民家集落博物館)→

 
 

「重野安繹先生流謫の地 寺子屋跡」 木碑 奄美 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名(せとうち・ちょう・あぎな)

2017年02月07日 | 歴史 民俗

関連記事 このブログ

重野安繹 奄美 生麦事件 薩英戦争 幕末大転換

2017年02月05日 | 歴史 民俗

↑拡大します。

重野は、自ら罪を犯したのではない、と言われ、流罪の原因には、いくつかの説がある。多才な重野は藩主斉彬に抜擢され、藩校から江戸にある幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)に留学中に仲間同士との金銭貸借で仲間のねたみを買い、自ら責任をとるこになっとも、いう。

西郷が2度目の遠島で召還されたのは元治元年(1864年)2月だから、時代は幕末大転換に向け、西郷より先に重野を必要としたのだった。

薩英戦争戦後処理で英国との交渉役に久光は重野を起用→動画 http://dai.ly/xxl2md?start=2364 nhkbs歴史館 横浜生麦事件 幕末大転換!逆境に活路を開け

イギリスも幕府役人も驚く交渉知識を、7年近くも島に居て召喚されてすぐ、重野はナゼ、どうして発揮することがことができたのだろうか?

彼の墓碑に「島人鼎氏貯書数十函就而読之学殖増進」とあり、島人鼎(かなえ)氏の貯えた本を読んで学殖を増進した。(しまのゆ 島人鼎氏 google book検索)12ぺージ が参考になる。

当時これだけの書物を持つ人が島にいたということもまた驚くべきことだ。

文久元年(1861年)10月、久光 卒兵上京(公武周旋)に乗り出す決意

よく文久2年(1862年)2月 龍郷から西郷召還

文久2年(1862年)4月 西郷が、下関待機命令をを破ったとして久光は捕縛命令を出す

「寺田屋事件」文久2年4月23日(1862年5月21日)

文久2年8月21日(1862年9月14日) -生麦事件

薩英戦争(文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日)

元治元年(1864年)2月 召還 

wikipedia

国道58号を名瀬から南下して、ここまでおよそ50分ほど。勘違いして隣の勝浦集落で、碑のことをたずねたところ、わからないということだった。

阿木名は、奄美大島第二の街、古仁屋にも数分。行動を通り抜けるだけだと、あまみ感じないが、東西にひろがる集落は意外に大きく

世帯数も2015年で340戸ほどと、島のなかでも大きいほうだだろう。

伊須湾は波静かだった。

国道は集落の中を通り、平行する伊須湾の湾岸道路に途中左折した。

木碑、説明版は、湾の奥まったところの道路沿いにあり、すぐにわかった。

波静かな、伊須湾には、古く明和8年(1772)には風を避けオランダ船が漂着、兵員が上陸、役人が出で大騒ぎになったこともあるという。

 


重野安繹 奄美 生麦事件 薩英戦争 幕末大転換

2017年02月05日 | 歴史 民俗

制度上、島妻は鹿児島へ連れて帰れないこともあり、妻(ウミ)も悲しいあきらめもあったのだろう。重野は子(ヤス 自分の名の一字)を鹿児島に引き取り文を書かせたという。

最近瀬戸内町の阿木名に「重野安繹先生流謫の地・寺子屋跡/安政八年~文久三年」と書かれた木碑(木標)が建てられ、説明版もある。

豪農とは、琉球王朝時代からの由縁人(ユカリッチュ)や、薩摩藩の支配下の新興勢力の衆達(シュウタ)でしょうか。鹿児島からの差配役人には武士とはいえ鹿児島では貧しい暮らしだったものも多く、彼らにとって島の豪農の屋敷や暮らしぶりは青天のへきれきだっただろう。

彼の墓碑に「島人鼎氏貯書数十函就而読之学殖増進」とあり、島人鼎(かなえ)氏の貯えた本を読んで学殖を増進した。(しまのゆ 島人鼎氏 google book検索)12ぺージ

当時これだけの書物を持つ人が島にいたということも驚くべきことだ。

参考 大奄美史 改定名瀬市誌 碑(いしぶみ)のある風景 しまぬゆ


今、見ごろ シロバナヒカンザクラとヒカンザクラ

2017年02月04日 | 桜の観察

↑ 県道81号線を奄美市名瀬大熊から北へ車で約5分、残土処分場?入口を過ぎてすぐ。

展望台の手前にも、紅白並んだ木がある。

拡大します。

関連記事 このブログ 奄美のシロバナヒカンザクラ 『花伝説・宙(そら)へ!宇宙へ旅した桜たち』単行本 長谷川 洋一 (著)

2010年01月31日 | 本と雑誌


去年の記事 満月 夜ヒカン桜 奄美市名瀬長浜町

2017年02月04日 | 夕焼け
 
去年の記事 満月 夜ヒカン桜 奄美市名瀬長浜町
 満月 夜ヒカン桜 奄美市名瀬長浜町昨夜の撮影 きょうが満月 月齢カレンダーヒカンザクラはそろそろ満開になりつつある。コンデジのタフカメラで手持ちでも、月の表面のか......
 

この桜は、宅地造成により、去年伐採され、見ることはできません。


『横目で見た郷土史』―言いたい放題でごめんなんせ – 1996/11 片岡 吾庵堂 (著)

2017年02月03日 | 本と雑誌

この、ツイートは思いのほかtwitterのインプレッションが多かった。

朝日新聞鹿児島版に一年あまり前から毎週連載された、『横目で見た郷土史』全48回のほかに、石亀日記 ぶらり人生のエッセイ集がある。

天声人語の冒頭で紹介された「西郷という人は大度量のある人物ではない。豪傑肌であるけれども度量が大きいとはいえず、いわば偏狭」という評は、西郷と同じころ奄美大島に島流しになっていて交流もあった、のちの東大教授重野安繹(しげの やすつぐ)の西郷評だ(たぶんその一部だと思う)。(重野は島で結婚した相手を赦免後、自ら迎えにきた稀有な薩摩人として知られる。)

 ほかに、斉彬の密命により琉球に渡りフランスと軍艦購入などの交渉に当たったこともある市来四郎の手厳しい西郷評もある。市来は西郷の長所を述べたあと冷静に評している。

あとの桐野による西郷射殺説の検証話が一番印象的だった。桐野wikiで調べても見当たない。司馬遼太郎の大作家であるがゆえに言いにくかったことは、類推するほかない。”翔ぶが如く”の翔ぶは、このパソコンでは変換候補にない。タイトルの中にもヒントがあるようだ。「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」。うーむどこまでも両義性がつきまとう。いいようにも悪いようにも取れる。

著者のみずからの人生のエッセイも面白い。『横目で見た郷土史』もサラリーマンではなかなか書けない視点だろうなあ、と思わせる。(駐車場繁盛記 カネよりヒマと廃業)挿絵も秀逸だ。