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「重野安繹先生流謫の地 寺子屋跡」 木碑 奄美 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名(せとうち・ちょう・あぎな)

2017年02月07日 | 歴史 民俗

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重野安繹 奄美 生麦事件 薩英戦争 幕末大転換

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重野は、自ら罪を犯したのではない、と言われ、流罪の原因には、いくつかの説がある。多才な重野は藩主斉彬に抜擢され、藩校から江戸にある幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)に留学中に仲間同士との金銭貸借で仲間のねたみを買い、自ら責任をとるこになっとも、いう。

西郷が2度目の遠島で召還されたのは元治元年(1864年)2月だから、時代は幕末大転換に向け、西郷より先に重野を必要としたのだった。

薩英戦争戦後処理で英国との交渉役に久光は重野を起用→動画 http://dai.ly/xxl2md?start=2364 nhkbs歴史館 横浜生麦事件 幕末大転換!逆境に活路を開け

イギリスも幕府役人も驚く交渉知識を、7年近くも島に居て召喚されてすぐ、重野はナゼ、どうして発揮することがことができたのだろうか?

彼の墓碑に「島人鼎氏貯書数十函就而読之学殖増進」とあり、島人鼎(かなえ)氏の貯えた本を読んで学殖を増進した。(しまのゆ 島人鼎氏 google book検索)12ぺージ が参考になる。

当時これだけの書物を持つ人が島にいたということもまた驚くべきことだ。

文久元年(1861年)10月、久光 卒兵上京(公武周旋)に乗り出す決意

よく文久2年(1862年)2月 龍郷から西郷召還

文久2年(1862年)4月 西郷が、下関待機命令をを破ったとして久光は捕縛命令を出す

「寺田屋事件」文久2年4月23日(1862年5月21日)

文久2年8月21日(1862年9月14日) -生麦事件

薩英戦争(文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日)

元治元年(1864年)2月 召還 

wikipedia

国道58号を名瀬から南下して、ここまでおよそ50分ほど。勘違いして隣の勝浦集落で、碑のことをたずねたところ、わからないということだった。

阿木名は、奄美大島第二の街、古仁屋にも数分。行動を通り抜けるだけだと、あまみ感じないが、東西にひろがる集落は意外に大きく

世帯数も2015年で340戸ほどと、島のなかでも大きいほうだだろう。

伊須湾は波静かだった。

国道は集落の中を通り、平行する伊須湾の湾岸道路に途中左折した。

木碑、説明版は、湾の奥まったところの道路沿いにあり、すぐにわかった。

波静かな、伊須湾には、古く明和8年(1772)には風を避けオランダ船が漂着、兵員が上陸、役人が出で大騒ぎになったこともあるという。