重野安繹は奄美・瀬戸内町に6年遠島、土地の娘を妻に一女。龍郷で西郷隆盛とも出会う。赦免後薩英戦戦後処理での重野の辣腕を英は高評価、信頼関係が増し薩摩を支援、倒幕へ。有名な文学者になった後、島を再訪時、妻は再婚妊娠。そこには当時の役人達の多くが島妻を残し一顧だにしない現実があった。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年2月3日
制度上、島妻は鹿児島へ連れて帰れないこともあり、妻(ウミ)も悲しいあきらめもあったのだろう。重野は子(ヤス 自分の名の一字)を鹿児島に引き取り文を書かせたという。
最近瀬戸内町の阿木名に「重野安繹先生流謫の地・寺子屋跡/安政八年~文久三年」と書かれた木碑(木標)が建てられ、説明版もある。
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— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年2月3日
@amami_kaihu_so NHKBS歴史館幕末大転換「生麦事件動画https://t.co/W0Ly0N5IUu重野の功績は特筆すべき。7年も奄美に閉じ込められナゼ驚くべき交渉知識を?奄美での数十箱の蔵書にあった?島には他にも鹿児島の一級の知識人に貸す程の蔵書をもつ豪農もい
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2017年2月4日
豪農とは、琉球王朝時代からの由縁人(ユカリッチュ)や、薩摩藩の支配下の新興勢力の衆達(シュウタ)でしょうか。鹿児島からの差配役人には武士とはいえ鹿児島では貧しい暮らしだったものも多く、彼らにとって島の豪農の屋敷や暮らしぶりは青天のへきれきだっただろう。
彼の墓碑に「島人鼎氏貯書数十函就而読之学殖増進」とあり、島人鼎(かなえ)氏の貯えた本を読んで学殖を増進した。(しまのゆ 島人鼎氏 google book検索)12ぺージ
当時これだけの書物を持つ人が島にいたということも驚くべきことだ。
参考 大奄美史 改定名瀬市誌 碑(いしぶみ)のある風景 しまぬゆ