カフェテラス

テラスの片隅で一人心に呟くように

稲むらの火の町・広川町

2008年05月29日 | △ 旅 あれこれ ドライブ




紀ノ川サービスエリアで子燕を見た日の続きである。

阪和自動車道を海南東インターで降りた。
海辺に近いところを車を走らせるには、R42を走るとどこかに行き着くだろうとの、計画性のない暢気なドライブをするのも、皐月の空の下では気持ちが良い。

有田に入ると櫁柑山が左手に続く。
山肌に大きな「有田みかん」のPRがあり、さすがみかんの里だと感心すると同時に、これは何で作られているのだろうと、興味を持って通り過ぎた。


新広橋を渡って、広交差点にきた時、「稲むらの火」という道路案内が目に飛び込んできた。
「稲むらの火」の後に、「町」が付いていたのか、「館」が付いていたのか瞬間であったので分からなかったが、とにかく「稲むらの火」に惹かれて標識の指す方向へといった。

戦後間もない頃、国語の教科書で習った「稲むらの火」は、地震や津波などの報道を目にするたび思い出すお話だった。
その頃の国語で習ったことは何一つ記憶にないが、このお話には強い感動を覚え、強烈な印象を子供心に受けたのは確かだ。
きっと担任の先生も感動を持ってこの教材を教えてくださったに違いない。

「大地震の後高台で海の様子を見て、その異状に気が付いた庄屋さんが、自分のうちの田の稲むら全てに火をつけて、村人に危険を知らせ多くの命を救った。」
事実に基づいたお話だったのが一層深い感動となっていた。

当時文部省国語は全国同じ教科書だったから、おそらく私と年代を前後する人達も習ってきたことだろうと思う。


町の中の狭い道をうろうろして行き着いたのは、漁船の繋留してある海辺だった。
とりあえずそこの駐車場に車を置いて、近くの喫茶店へ休憩もかねて入った。
目的は私の記憶の中の「稲むらの火」のことを尋ねたかったのだ。

居合わせた年配のお客さんにその話を切り出した。
「国語で習ったんだけど・・・」そう言ったら「いや、あれは修身やったで・・。何年生まれや?」「11年。」
「わしと、おんなじやな。修身の本にのっとったで。」
修身は徳目中心で、心を揺すぶられるようなお話はなかったとは、言えず、何より聞きたかったこの町の話をいろいろと教えてもらった。
「大昔の事やけど、この村に起こったことや、稲むらの館があるけど、今日は休みや。濱口梧陵さんの造った堤防もあるで。その辺歩いてみぃ。」


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濱口梧陵の「 稲むらの火」が今生かされている町
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「稲むらの火」は、安政元年11月5日 M8.4 震源=潮岬沖 (和歌山・徳島の南)『安政南海大地震』の時の話である。

「稲むらの火」に関連する事柄について記述のあるホームページの中で、リンクの許諾を得ているサイトをご紹介いたします。この中で、私が小学校の5年生の時感動した教科書の文も大きくして読むことが出来ます。





この町を散策した時、目に付いた、津波に対する避難誘導の表示である。
ことに、右のような矢印は、安全な地帯への避難を的確にしかも一目で分かるように指示している。
○○小学校へなどという緊急時の避難場所の表示を知らない町で見かけるが、そこに住んでいる人には、場所が分かるが、他所から偶然来た人には分からない。
一刻も争う津波について、過去の経験を生かしてこのような心配りがしているのだろう。

「海を見に行きたい」そんな気持ちのドライブだったが、「稲むらの火」の町で大きな収穫を得た。
「稲むらの館」は、月曜日が休館だったので、いつか機会を見て訪れたい。

コメント (16)
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