この和歌もねずさんの百人一首で初めて知ったという情けなさです。特に、これが坂出に流された崇徳上皇の上皇后皇嘉門院の別当の歌というのも全く知らなかった無教養に恥じ入るばかりです。
それにしても、日本女性の強さには感動します。やはり、日本は女性こそが救うのじゃないでしょうか。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/07/29
・・・略
けれど、そうして崇徳上皇が政治に無関心を装えば装うほど、忠道には、それが裏で何かを画策しているかのように見えてし まう。
人間、ひとたび疑心暗鬼の虫が宿ると、そこから逃れられなくなるのです。
そしてついに藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じて、「崇徳上皇に謀叛の兆しあり」という、あらぬ疑いを でっちあげて、武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にするという暴挙に出ます。
これが保元の乱(1156年)です。
こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流されました。
上皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残られたのです。・・・中略
彼女は持参した歌を披露しました。
歌は、意訳すると次のような意味になります。
「難波の港に住む遊女であっても、
短い一夜限りの逢瀬でも
一生忘れられない恋をすることがあると聞き及びます。
しかし朝廷の高官というのは、
一夜どころか、
神代の昔から天皇を中心とし、
民を思って先祖代々すごしてきました。
けれど、
そのありがたさを、その御恩を、
たった一夜の『保元の乱』によって、
すべてお忘れになってしまわれたのでしょうか。
父祖の築いた平和と繁栄のために、
危険を顧みず
身を尽くしてでも平和を守ることが、
公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか」
歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いてい ますので、ここでは省略します。
ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。
難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
身を尽くしてや 恋ひわたるべき
と歌を披露したことで、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
なぜなら、堂々と叩きつけられた皇嘉門院別当のその歌の内容が、あまりに正論であり、その正論の前にその場にいた貴族高官た ちの誰もが、ひとことも反論できるものがなかったからです。
歌は正論であり、否定することはできません。
さりとて、認めれば、自分たちがアホのやくたたずであることを認めることになってしまう。
だから、できることといったら、ただうつむく以外なかったのです。・・・中略
おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
「この歌の出詠は、
あくまで私の独断で
いたしたものとします。
皇嘉門院様には
決して咎が及ばないようにいたします」
と、事前に許可を得ていたことでしょう。
そして別当からこの申し出を聞き、許可した皇嘉門院も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。
つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
そういう戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。
なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。
「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。
男女は対等。
それが日本の文化です。
男女が対等というこの素晴らしい歴史さえ世界に認識させることの出来ない政府・外務省の仕事振りには呆れるしかない。
こんなことでシラス国の素晴らしさを世界に認めさせることは何時のことかと絶望的になります。