朝9時に山家の城跡に行った。悟さんと義弟一家と小源太と一緒に、戦国時代に山家を治めていた豪族和久氏が拠点としていた甲ヶ峯城の見学会に参加した。
約40名が参加され、山家城のそばにある伊也神社から奥にある甲ヶ峯城に登った。
和久氏は丹波守護代であった八木城主・内藤氏の家臣として山家に来て、綾部や福知山、舞鶴などに向けて、内藤氏の前線基地としての役割を果たしていたようだ。
後に、内藤氏から離反し、内藤氏から攻撃されるが、下原町での合戦で当主・内藤宗勝を返り討ちにしている。内藤宗勝は、高名な戦国大名である松永久秀の弟で豪勇を誇った人物だったので、和久氏も相当な力があったようだ。
織田信長の命を受けた明智光秀に従わなかったため討伐され、歴史から名を消すが、いまだに和久という姓は山家に残っている。
戦国時代の山城としては、規模が大きく研究価値のある城だと綾部史談会の川端二三三郎先生が教えて下さった。
空堀や虎口、曲輪などがしっかり残っていた。
ここにどんな雰囲気で城があり、和久一族が籠もったのだろう?と、しばし歴史ロマンに浸った。子どもたちには退屈だったようだが…。
江戸時代に山家藩主となった谷氏が築いた山家城は今も“山家のお城”として親しまれている。
この城の裏手に回ると、しっかりした石垣と空堀があった。
綾部には石垣が築かれている城はない。
さすが、山家藩1万石の大名の居城だけはあるなあと思った。
谷氏は“陸戦の勇”であり、数々の武功によって大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いでは西軍に与して、舞鶴城の細川幽斎を攻めたが、“谷の空鉄砲”といわれ、東軍と内通していたと伝えられ、所領はそのまま安堵された。
城の隣りを流れる上林川をはさんでいる東山町の町並みは京街道の宿場町として、京都北部では最大規模のものだったそうだ。
午後は釜輪町の日前神社(聖権現)の祭礼に参加した。山頂にある神社で釜輪自治会で管理をしておられる。
険しい道を登る。大人の足で20分ほどだろうか。林重雄さんにご案内いただき、悟さんと三人で登った。
神社では祭礼の後、『湯立神楽』という神事も行われた。
直会の前には当番の引継ぎも厳かに行われていた。
自治会の方々に交じって直会にも参加させていただいた。
夜は、消防団での訓練前懇親会に参加した。
綾部分団の指導員以上が集まり、当番部管内の自治会長さん方との懇親を深めた。
今年もそろそろ訓練が始まる。
終わった後、二部のメンバーで飲みに行った。