朝5時に起き、小源太を連れて、6時半から寺山に登った。
7時から、山頂で《市民平和祈願の集い》に参加した。
今日は“終戦の日”であるが、実際には“敗戦の日”だ。
“終戦”には、「日本人が巻き込まれていた戦争からの解放」という響きが含まれている。これは占領軍が支配しやすくするための言葉だったろうと思う。
現実には、日本は敗戦し、占領政策の下で占領国に都合の良いものは残され、都合の悪いものは消し去られた。
イラクやアフガニスタンでアメリカ軍がやっていること。それ以上のことが半世紀以上も前の日本では行われていたはずだ。アメリカでは国内でもまだまだ厳しい人種差別政策があった時代だ。
“全滅”を“玉砕”と呼び、“撤退”は“転進”と主張した戦時の大本営発表は、戦後は占領軍である“進駐軍”によって、都合よく言葉がすりかえて続けられた。
“戦犯”も占領軍の都合で創り上げられたものだ。占領軍にとっての“戦犯”が合祀されているからという理由で、菅首相もその閣僚も靖国神社を参拝しない。
敗戦とは、これほどまでに大きな傷を国に残す。
自国の利益のためにも、平和を維持する努力を惜しんではならないが、平和とは安きに流れることではない。“戦わない宣言”をすることでもない。
国民が国家を守る意思を明らかにし、伝統や文化を継承し、誇りある教育で将来世代を育てることだと思う。