11日㈯、東日本大震災から12年目。亡くなられた方々の御霊に哀悼の誠を捧げます。
10時から綾部幼稚園の閉園式に参列した。明治27年に博約尋常小学校に仮設開設され、明治33年に京都府の認可を受け、綾部町立綾部幼稚園として開園以来、123年の長きにわたり、綾部地区の子ども達を育んできた綾部幼稚園が閉園することになったのは残念だ。
私も昭和55年に綾部幼稚園に入園した卒園生であり、父も弟、妹も、三人の子ども達も全員が綾部幼稚園を卒園した。
長男小源太が綾部幼稚園に在園していたのは、ちょうど12年前。東日本大震災があった年だった。初めてPTA会長を務めた年でもあった。一緒にPTA役員をしていただいていたお母さんが「将来、息子を福知山高校に通わせたいから福知山に家を建てる」と言われるのを聞いて、このままでは子育て世代が綾部から流出してしまうという危機感を抱き、その年に府議になって最初に取り組んだのが綾部高校の改革であった。
またその年、市教委が「幼稚園の保育料を月額で約3千円値上げし、さらに預かり時間を厳格化して、16時から14時と短くする」という方針を打ち出し、幼稚園に通わせようと考えていた保護者らに動揺が走った。
綾部市の幼稚園は当時、綾部、西八田、東八田と3園あり、他の2園のPTA会長さんが「これに反対したい。どうしたらいいでしょうか?」と言ってこられた。当初は「署名を集めたい」とおっしゃっていたが、広く巻き込んで共産党の活動ネタにしても仕方ないので、それよりも3人のPTA会長の連名で市議会に陳情書を出し、我々が市議会や市教委と交渉しましょう!と合意して動きだした。
結果的に、議員の皆さんのご尽力で、1年先延ばしすることはできた。おかげで翌年は多くの園児が入園された。そのままでいけば良かったのだが、PTA会長ではなくなったので口が出せずに、翌年には値上げ等が決まってしまった。
幼稚園の先生方はあれこれ手を尽くして努力されていたが、いかんせん市教委が閉園になるように向けていったので、その後は園児の減少傾向に歯止めがかからず、今日の閉園に至った。
この12年間、綾部小学校支援協議会「綾小応援団」で、綾部地区の連長さん、民生児童委員さん、見守り隊の方々やPTA役員等と一緒に、綾部幼稚園のテコ入れ策を綾部市教委の教育長等に要望に行き、「こうしたら増える」という具体案も幾度となく提示したが、市教委には全く取り合ってもらえず、「無策」の結果の閉園なので「それは、そうなるわな」という気持ちだ。
12年前からそうだったが、今はさらに「幼児教育の重要性」が社会の共通認識となりつつある。綾部幼稚園を休園でも残しておいてもらえば、いずれやり直せると思っていた。今回の閉園は「綾部市に若い人口を増やすことに逆行しているな」と思いながらも、「これまでもこういうことの繰り返しで、こういう困難な状態からいつも道を切り拓いてきた」という自負もあり、諦めず「いずれ何とかしよう」と改めて誓った。
式では、写真による振り返りがあったり、来賓の平野正明綾部地区自治会連合会長、安藤和明市議の挨拶、綾部幼稚園の元園長である西田愛子先生は幼稚園の思い出や幼児教育に取り組んできた想いを語られた。
100周年の時にPTA会長だった北原章裕さんの挨拶や当時の園児によるタイムカプセルの開封などもあり、閉園式は終了した。
帰りに、42年前に「きく組」でクラスメイトだった今川信吾くんと園舎の前で記念撮影した。あの頃、砂場で遊んだ二人が今でも綾部で仲良くしていることをあの頃の二人に教えてやりたい(笑)
午後は13時30分から、ITビルにて、京都綾部ユニセフ協会(大槻富美雄会長)の総会に出席した。コロナの影響で4年ぶりの対面の総会だった。
役員改選があり、5代目会長に野間由紀さんが就任された。初の女性会長で、全国の地域組織でも女性の会長は珍しい。野間さんには発足当初から理事を務めていただいており、特に学校部の活動で常に中心となって活動されてきた。今後、野間会長によって、さらなる活動の広がりを期待している。
総会後の活動報告会では、コロナ禍の間に作成された学校訪問用の資料やオンライン学習会の様子などが報告された。
夜は、顧問を務めるあやべ福祉フロンティア(玉川弘信理事長)の理事会に出席した。
大槻広敏事務局長(せいざんセンター長兼務)が3月末で退任されることになり、後任に森慎一さん(前里山ねっと・あやべ事務局長)が就任されるという人事異動が報告された後、最近の状況について、各部・支部からの報告があった。
高齢や病気、家族の反対等の理由で運転ボランティアを引退される方が増えており、5名ほどはすぐに増やしていく努力が必要だと運転部長からの提案もあった。