現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

パソコン不調

2009-10-05 19:10:05 | 虚無僧日記
今朝ブログを書いてオフにしたら、その後再起動できなくなった。
まだ買って半年経っていない。ネットオークションでいろいろ
入札しているので、落札メールがきても対応できないのでは、
また「悪い落札者」の烙印を押されてしまう。1日気持ちは
ブルーだった。

夜になって、ひっくり返してみたり、叩いてみたり、そして、
バッテリーをはずしてリセットしたら起動した。なんだった
のか。悪夢の1日でした。

今後も起こると思いますので、ブログ更新していなかったら
パソコンの不調です。メールも交信できません。その時は
“さようなら”。

古典尺八と現代尺八

2009-10-05 08:29:54 | 虚無僧日記
10/4 志村禅保氏のレクチャーコンサートにて、

かつて、虚無僧尺八の愛好家は 『尺八は 音楽なんて
下賤なものではない』といい、外曲系尺八家は『虚無僧
尺八なんて音程もリズムもめちやくちゃ。音楽以前の
しろもの』と、双方反目しあっていた。

前者を「第一世界」後者を「第二世界」とするならば、
両者は水と油で互いに譲らなかった。それが最近、
お互いの世界を認め合うようになってきた、と。

本当にそう思う。私は明暗尺八は富森虚山師に習った。
師の尺八は太く、音色は“寝てる児を起こさぬように、
竹林をよぎる風の如く”ノイジィな風音だった。
そして音階はツのメリが高く、チも高い。これでは『荒城
の月』は吹けなかった。いや「吹く必要はなかった」。

例会に行くと、皆自作の竹を持ち寄り、一斉に『調子』を
吹く。長さもまちまちだから、洋楽に慣らされた人たち
には、気が狂いそうな不協和音だった。あの当時、昭和
42年。私が大学1年の時。「虚無僧尺八は遠からず滅びる」
と誰もが思っていた。

そして、180゜方向転換して、堀井小二朗師の門を叩いた。
「君、尺八は楽器だよ。ドレミファを正確に吹けなければ」
と云われた時には、頭を叩き割られたようなショックを
受けた。師の音色はフルートのように清く澄み渡っていた。

以来私の尺八は「フルートに追いつけ追い越せ」だった。
それが今「尺八はフルートをしのぐインパクトがある」と
思えるまでになった。

『荒城の月』は、多孔尺八でフルート以上に情感を込めて
吹くことができる。尺八の音には、“なにかしらぬ懐かしい
響き”がある。“故人を偲ぶ”さらには“霊を呼び覚ます”
力がある。

そしてそれよりもインパクトがあるのが、虚無僧本曲なのだ。
最近のライブでは、虚無僧本曲が一番うける。

志村氏も虚無僧本曲だけで、あちこち呼ばれるようになった
とのこと。30年前には考えられなかったことだ。








志村禅保氏の尺八を聞く 1

2009-10-05 08:29:16 | 虚無僧日記
10/4 浜松市で志村禅保氏の「地無し管についてのレクチャー
と吹奏」があり、行ってきた。主催はわが朋友の竹内明彦君。
彼から案内をもらったのだ。

昼は市内のビルの一室で、レクチャー。夜は浜松市郊外の
森林公園内のレストランで、食事付「お月見コンサート」。
その両方に参加した。参加費5,500円+交通費で1万円。
それだけの価値ある体験だった。

志村氏は大阪芸大の教授。尺八は竹保流だが、全国各地の
虚無僧尺八伝承者から吹奏技法を学び、また古管尺八を
調査し、古管尺八の研究で博士号を取られた。その真摯な
研究姿勢と卓越した吹奏技法は、現代の虚無僧尺八の第一
人者として、知る人ぞ知るである。

レクチャーでは、「地無しの古管は、メリ音がカリ音に勝る。
地塗りはカリ音重視でメリが弱い。地塗りは音程重視で、
各音の響きが等質。洋楽に合わせて改良=改悪された。
地無しは、アタック音がよく出る。各音の響きに差があり、
それぞれの音に音味(ねあじ)がある。虚無僧が吹いた曲を
地塗り管で吹いたら全然違う曲になってしまう」と。

そして、地無し管と地塗り管で『鶴の巣籠り』を吹き比べ
られた。門外漢には違いが判らないだろうが、地無しに
こだわる尺八家には、その繊細な表現、奥深い味わいが
なんともいえずたまらない。


志村禅保氏の尺八を聞く 2

2009-10-05 08:20:19 | 虚無僧日記
10/4 浜松市でのレクチャーコンサートを終えて、竹内氏、
志村氏とともに、静岡県立森林公園内の森の家に向かう。
志村氏は、昨日は伊豆の料亭でライブ。今日は昼夜2回。
明日は磐田市でと、タレントなみのハードスケジュール。

夜の「お月見コンサート」では、尺八を初めて聞くという
ようなお客50名を前に、『大和調子』『滝落ちの曲』、明暗
対山派の『鹿の遠音』『虚空』『鶴の巣籠り』の5曲を、
1時間半たっぷり聞かせてくれた。

客の反応やいかにとみると、全員固まっている。微動だに
せず、志村氏の吹奏に目と耳が釘付けとなり、心を研ぎ澄
ましているではないか。レストランでのライブであるから、
“リラックスして音を楽しむ”気分で来られたのであろうに。
「複数の音の法則をもった配列」が“音楽”と定義するなら
古典尺八は音楽ではない。「尺八演奏」とも云わない。
「吹禅」なのだ。

天井も高く、100人以上は入る会場だったが、マイク無しで
十分聞こえる。強い音は強く張り詰めて、ピアニシモの音も
はっきり響いてくる。全く無音の状態。息を入れず、孔を叩く
だけの時も音は聞こえないが“気”が伝わってくるのだ。
耳で聞くのではない。これは体で感じる世界。

「現代音楽は100回も練習しないでしょう。虚無僧尺八は
一生練習が必要」と。志村氏は、控室でも本番までずっと
吹き続けていた。まさに“道を極めん”とする「道者」の姿だ。