現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ロシアの尺八事情

2011-03-20 18:04:45 | 虚無僧日記
私がサーシャに初めて会ったのは5年前か。(過去の書類を
捨ててしまったので、記憶はあいまい)。名刺を交換した時、
私のH.P.アドレスが「komuso」となっているのを見て、彼も
「私と同じです」という。「はぁ?」であった。

その頃の彼は、練習用の「木管」の尺八で、琴古流の楽譜で
古曲を吹いていた。「これ 教えてください」と出された譜面は、
『明治松竹梅』とか『東獅子』とか「地唄」物ばかり。

「地唄」は、日本では もう、一般に聞かれることは少ない。
それが、「ロシアに伝わって 残るのか」と驚いたものである。
翌年も その次の年も、ロシアに行った。行くたびに、彼は
上達している。日本にも 二度ほど 来てくれた。

モスクワのFMラジオから 放送依頼があった時は、もう驚きの
連続。「時間は 2時間 ありますから、ノーカットでお願いします」と。
2時間といっても、一曲ごとに ロシア語での解説が 10分以上も
はいる。原稿は全部 ロシア人が用意したもの。

放送は「生(なま)」。ラジオだが、100人ほどの観衆が来ている。
「車で3日かかってモスクワまで来た」という人たちも。若い
十代の女の子も。みな真剣に聴いている。

そして翌日、尺八愛好家が集まって、交歓会を開いてくれた。
女性も何人か。『春の海』など きれいな音で サラリと吹く。

『一定』などの現代曲から、古典本曲も、各流派の譜面をすべて
持っているのだ。CDも、私の知らないCDまであった。

一人のロシア人が「私は今、これを読んでます」と差し出された
分厚い本は「鈴木大拙」だった。

そして今、サーシャは「You-Tube」で、「尺八講座」を公開している。
そして、演奏もアップしている。紋付は私があげたものだ。「日の丸
扇の紋」が、ロシアで活用されているとは うれしい。

「紋付・袴」での『奥州薩慈』の映像は、今、なぜか開けなくなって
いるが、聞いてびっくり、すばらしい演奏だった。


●「сякухати 尺八 本調べ хонкёку , тёси」


「сякухати 尺八 сингецу 心月」

「ロシアの竹の友」から

2011-03-20 17:42:39 | 虚無僧日記
モスクワのサーシャからメッセージがはいり、昨日、そのことを
ブログに書いたら、またすぐ、メッセージが送られてきた。


「平成の虚無僧一路の日記」で掲載された「サーシャからのメッセージ」を拝読し、
嬉しくて 心から感謝いたします。私達、以前発表された牧原先生の虚無僧日記も
全て拝読しました。非常に面白くて 素晴しい語りで 御座います。
私たちには、牧原先生の生き方、その経験、思想等は とても興味深く、私達も
いつか、虚無僧の道を踏み切ろうと覚悟を決めています。

更に、昔の虚無僧(虚妄僧とも)、一休宗純についての物語りが 私達には実の
宝物になります。殊に『狂雲集』の詩。是非くれぐれも読ませてください。お願い
申し上げます。

私達、牧原先生の漢字遣いがとても好んでおりまして。(とてもお洒落。非常に!)
尚更 矢鱈(やたら) 読ませて 戴ければ 幸いで御座います。
今後もますます御活躍の程お祈り申し上げます。
   
露西亜の竹の友  サーシャ・ジマ

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なんだか、ロシアの大統領から公式メッセージをいただいたような、驚きの
文章だ。漢字が たくさん 使ってある。変換ソフトなのだろうか?。

サーシャからは、震災直後、すぐ 見舞いのメールもいただいていた。
私のお弟子さんたちに、あなたの「奥州薩慈」の映像を見せました。
紋付・袴を着て、演奏もすばらしい。私のお弟子さんたちも びっくりで、
「負けてはいられない」と、よりいっそう頑張っています。

ありがとう。サーシャ君。

仙台松島は思い出の地

2011-03-20 16:58:32 | 虚無僧日記
平泉の中尊寺や松島の瑞巌寺、塩釜神社、そうした文化財の
被害状況は 全く報道されていない。「物より人」と あえて
報道が控えられているのだろうか。

「松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの 寺もないとエー
 アレワーエ エトソーリャ 大漁だぁエー」『大漁唄いこみ』

「松島」も思い出深い。叔父とその子供4人、つまり私の
従兄弟たちと旅行に行った。戦後、妻を失い、農地解放で
田畑も失い、公職追放で 仕事にもつけず、つつましやかな
生活を送っていた叔父が、子供4人と私まで 旅行に連れて
行ってくれたのは、あれが 最初で最後だった。一枚の白黒
写真が残る。

すでに、叔父も従兄弟の二人も亡くなり、いま一人 会津に
留まっている。敷地 500坪、部屋数は 2~30もある大豪邸だ。
泉水があり、築山があり、蔵がいくつもある。お寺の門の
ような「歌舞伎門」と 瓦を乗せた土壁の塀。その補修だけ
でも 2,000万円 は かかるという。

家屋敷の崩壊が、私から過去の思い出を一切消してゆく。
「過去を振り返らない。過去にしがみつかない。過去に
こだわらない。すべてを捨てきってこそ、新しい人生が
開ける」と、「断捨離」が教えてくれている。

今日、過去の写真を捨てた。




相馬盆唄

2011-03-20 15:56:18 | 虚無僧日記
「東北・関東大震災」。被災地の地名が出るたびに、心が痛む。
みな、思い出多い 土地だ。

福島県の相馬地方は 毎年7月に「相馬野馬追い祭り」が行われる。
甲冑や馬が大好きな私は、高校、大学と 毎年 観に行っていた。

1年でこの日だけ 大勢の観光客が訪れるので、旅館やホテルは
満杯。原の町の「松の湯」という銭湯が 私の常宿だった。
2階の大広間で、数十人の男女が雑魚寝する。夜は、宿泊客の
ために、民謡が披露された。

「ハァー 今年ゃ 豊年だよ 穂に 穂が 咲いてヨ
 ハァー 道の小草にも ヤレサ 米がなるヨ」『相馬盆唄』

尺八は「松の湯」のおじいさん。盲目で、普段は風呂の釜炊き
が仕事。おがくずを炉にくべていた。尺八は 火を起こす「火吹き
竹」に近いものがある。虚無僧寺の多くが「風呂屋」を経営して
いたのも うなづける。

その人の尺八の吹き方は、ほっぺたを ふくらます吹き方だった。
それで ものすごい音が出るのだ。大広間で マイク無しでも
十分聞こえた。民謡を唄う人の声量もすごい。あの時の感動は、
今でも鮮明に覚えている。

祭りは3日間にわたって行われた。松の湯の番頭さんが、
バイクで 小高町、相馬市と案内してくれた。マイカーなど
まだ少ない時代だ。途中、激しい雷雨となった。田んぼの中に
一軒の農家があり、軒下を借りて雨宿りしていると、家の人が
中に入れてくれ、お茶を出してくれた。「お茶うけ」は漬物。
そしてトマト。そのトマトになんと砂糖がかけてある。
トマトも砂糖も、当時は 最高のおもてなしの品だった。
あの相馬の人たちの暖かい温もりを、今も忘れてはいない。

「ハァー 遥か かなたは 相馬の 空かよ
 相馬 恋しや 懐かしや ナンダコーラヨーと」『新相馬節』



65年前は、テレビもねぇ、ケータイもねぇ

2011-03-20 13:33:47 | 虚無僧日記
65年前は、原発も 新幹線も 高速道路もケータイも、テレビも
無かった。自家用車も無かった。それでも“人のぬくもり”が
あった。生きる 喜びがあった。

「ハァー テレビもねぇ! ラジオもねぇ! 車もそれほど走ってねぇ!
 電話もねぇ ガスもねぇ 信号ねぇ あるわけない 電気もねぇ。
 オラこんな村いやだ~ 東京さ行くだぁ。よしッ行くぞう!」

吉 幾三の『おら東京さいぐだ』。この歌が出た時、地元青森では
「東北をバカにすんでねぇ」と非難ごうごうだったそうな。でも
吉幾三が生まれ育った時代は、そうだったという。

私の曽祖父たちは、会津戦争に敗れ、明治2年 下北に移住した。
それこそ、何にもない。米も野菜も実らない 不毛の原野だった。
まず、ブナの木を倒し、家を建てることから 始めた。

鋤鍬など持ったことのない人々が、すべては1からの出発で、
かろうじて生をつないだ。それが、わずか2年。ようやく収穫の
見通しが立ったところで 廃藩置県。青森を離れ、乞食同然に
着の身着のまま 会津にもどった者。東京に出たもの。そこで
また1からの出発。それぞれの道を歩み、苦難を乗り越えて、
多くの会津人が 世に出た。

私の叔父も、福島県一の高額納税者となり、国会議員にまで
なった。そして敗戦で また すべてを失った。

今回の未曾有の震災からも、人々は たくましく 立ち上がる
ことだろう。新たな 希望と 目標に 向かって。