熱海の「起雲閣」を後にして、梅園の方に向かって、また
急な坂を上っていくと「双柿舎(そうししゃ)」がありました。
閑静な住宅街の中ですから、“知る人ぞ知る”です。
ここは「坪内逍遥」が大正9年から昭和10年、亡くなるまで
過ごした邸宅でした。「坪内逍遥」は名古屋の出身でしたので、
名古屋駅の近くにも「邸宅跡」の碑があります。
坪内逍遥は、「シェークスピヤ」の翻訳で知られ、演劇の
劇作家でもあり、早稲田大学の教授でもありましたから、
早稲田大学には「坪内逍遥記念・演劇博物館」があります。
その関係でしょうか、ここは早稲田大学の管理下にあり、
日曜日しか見学できません。
実は私、坪内逍遥の名前は知っていても、作品など
読んだことがありません。ところが、モスクワに行った折、
ロシア人によって、坪内逍遥の『お夏狂乱』が演じられ、
箏、三弦、尺八の演奏もしたと言うのです。もうビックリ。
そして「双柿舎」は、松本清張が『文豪』という短編小説で
詳細に紹介していました。こちらを読んで 興味をもった次第。
松本清張は「書庫の入り口前に、小さな犬のような石の彫刻が
二つ並んであった」と書いていましたが、ガイドの説明で、
この石の像は「羊」でした。「小さな羊」なので「小羊
(しょうよう)。「坪内逍遥(しょうよう)」とひっかけた
ギャグです。しょうよう。
「逍遥」って「気ままにそぞろ歩き、徘徊」の意味でしたね。
これが、今回の私の旅でした。
急な坂を上っていくと「双柿舎(そうししゃ)」がありました。
閑静な住宅街の中ですから、“知る人ぞ知る”です。
ここは「坪内逍遥」が大正9年から昭和10年、亡くなるまで
過ごした邸宅でした。「坪内逍遥」は名古屋の出身でしたので、
名古屋駅の近くにも「邸宅跡」の碑があります。
坪内逍遥は、「シェークスピヤ」の翻訳で知られ、演劇の
劇作家でもあり、早稲田大学の教授でもありましたから、
早稲田大学には「坪内逍遥記念・演劇博物館」があります。
その関係でしょうか、ここは早稲田大学の管理下にあり、
日曜日しか見学できません。
実は私、坪内逍遥の名前は知っていても、作品など
読んだことがありません。ところが、モスクワに行った折、
ロシア人によって、坪内逍遥の『お夏狂乱』が演じられ、
箏、三弦、尺八の演奏もしたと言うのです。もうビックリ。
そして「双柿舎」は、松本清張が『文豪』という短編小説で
詳細に紹介していました。こちらを読んで 興味をもった次第。
松本清張は「書庫の入り口前に、小さな犬のような石の彫刻が
二つ並んであった」と書いていましたが、ガイドの説明で、
この石の像は「羊」でした。「小さな羊」なので「小羊
(しょうよう)。「坪内逍遥(しょうよう)」とひっかけた
ギャグです。しょうよう。
「逍遥」って「気ままにそぞろ歩き、徘徊」の意味でしたね。
これが、今回の私の旅でした。