現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「キムタク武蔵」は 『バガボンド』の実写版?

2014-03-17 14:37:34 | テレビ・映画・芸能人
吉川英治原作の『宮本武蔵』をベースにした漫画『バガボンド』と
いう劇画があるとは知りませんでした。吉川英治版は読んでいなくとも
『バガボンド』を読んで、宮本武蔵」を知った若者が多いようです。

『バガボンド』とは、「放浪者、漂白者」という意味の英語
「vagabond」とのこと。わたしゃ「“バカボン”のパパ」と
「007のジェームスボンド」の掛け合わせかと思ってました、はい。

作画は「井上雄彦」。出版は講談社
1998年から 36巻もの長編だそうです。

こちらのツイッターを見ますと、漫画で描かれた「武蔵」や「小次郎」
「吉岡」らの登場人物と、今回の「キムタク武蔵」はそっくりですな。


ところで、「昨日の『キムタク武蔵』の話は、みなホントーなの?」と
聞かれましたが、ほとんど嘘です。こんなことを言ってはシラケますが、
吉川英治の『宮本武蔵』自体“大衆娯楽読み物”ですから。

武蔵が「沢庵」や「法蔵院」「柳生石舟斎」と会った可能性は
極めて低いですし、「吉岡一門」や「佐々木小次郎」との試合の様子も
史実は、だいぶ違うようです。もちろん「又八」も「お通」さんも
「お杉ばば」さまも吉川英治の創作でした。

「佐々木小次郎」の名は、武蔵の養子・伊織の記した『小倉碑文』や
『沼田家記』などには、全く記されておらず、決闘から100年以上の
後に著された『武公伝』に「小次郎」とだけ記され、それからさらに
数十年後の1776年に書かれた『二天記』に、突然「佐々木小次郎」と
フルネームで登場します。

『二天記』は、武蔵の死後、130年も経っての書ですので「内容の
信憑性は低いとみるのが専門家の見解です」だって、残念でした。

卑怯者の「武蔵」

2014-03-17 14:37:19 | テレビ・映画・芸能人
私は 吉川英治の『宮本武蔵』は大好きですが、「武蔵」には
いろいろ異説があって、「兵法者」の風上にも置けない“卑怯”な
振る舞いも、巷間縷々伝えられています。
「キムタク武蔵」のファンにも申し訳ありませんが。

まず、「吉岡一門」との対決

黒田藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に
著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、

「吉岡清十郎」との試合当日、武蔵は病気になったと断りを
入れたが、幾度も試合の要求が来た。それで、武蔵は 竹輿に
乗って試合場に到着した。清十郎が、武蔵を出迎え、輿に
横たわる武蔵に近づき、「具合はいかがか?」と覗き込んだ
ところ、武蔵は隠し持った木刀で清十郎を刺した。

その敵討ちと、弟の「伝七郎」は、五尺の木刀で 武蔵に
立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。

吉川英治の「宮本武蔵」では「吉岡伝七郎」との試合は
三十三間堂で行われた。あいにく雪が降り、シンシンと
冷える中、吉岡は、堂の外で武蔵を待つ。その武蔵は、
堂の中で火鉢に当たって、身体を温め、伝七郎を待たせる。
伝十郎の方はすっかり冷え切って、手足もこごえた頃を
見計らって、武蔵は、堂の中から飛び出し、伝七郎の背後から
斬りつけた。

「一乗寺下がり松」では、先の二つの試合が、時間に遅刻する
作戦で成功したため、今度は敵の裏をかいて、前日から松の木の
上に潜んでいた。そして定刻になっても動かずにいた。吉岡の
門弟達は「武蔵はまだか!?」と四方に様子を見にいって、
居なくなった時に、木から降り、木の下にいた少年の「亦七郎」を
切り殺して逃げた。

そう、70人も相手に一人で戦えるわけがない。

巌流島での佐々木小次郎との決闘でも、武蔵は遅れていき、
小次郎をさんざんに、じらした。小次郎の刀が長いので、
舟の櫂(かい)で、小次郎の刀より長い木刀を作り、
しかも、武蔵は 門弟4人を連れていき、4人で小次郎を
撲殺して、舟に乗って逃げた。しかも、この時「小次郎」は
70歳。ヨボヨボの爺さんだったとも。

いやはや、ひどい!

「キムタク武蔵」では、とても こんなことは描けませんでしたが、
「キムタク」の殺陣(たて)で気づいたことがあります。それは
剣道や居合いの流儀を全く無視した「棒振り剣法」。武蔵は
正式に剣術を習ったわけではなく、ガキの頃からの“喧嘩剣法”、
“棒を振り回すだけの暴れ剣法”だったのでは ということです。
六尺(180cm)の大男で、刀を片手で振り回すだけの腕力はあった。
それで、左右の手に刀を持って振り回す“二刀流”となった。

勝つためには手段を選ばぬ武蔵。そのように思えてきたのは
私だけでしょうか。