現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

関が原で武蔵は東軍だった!

2014-03-18 16:46:08 | 虚無僧日記
吉川英治の『宮本武蔵』、「キムタク武蔵」の冒頭で、
宮本武蔵は「関が原の合戦」で 西軍(石田三成方)に付き、
敗れたため、故郷 美作に戻ったところ、残党狩りで捕えられた
ことになっている。

そして、「関が原」で西軍に付いていたとの理由で、仙台伊達家
からの仕官の話は取り下げとなった。

そこで調べてみた。

そもそも、「武蔵」は、関が原で 誰の下に所属していたのだろう。
当時の姫路の城主は「木下家定」。秀吉の正室「高台院・寧々」の
兄である。

関が原の時は中立を保ち、その子「小早川秀秋」が 「高台院」の
勧告を受けて 東軍に寝返ったことで、徳川の勝利につながった。

その功績で、関が原の後、備中足守に2万5000石の所領を与えられた。
家定の後、姫路の城主となったのが「池田輝政」。

三河吉田(現豊橋)の城主だった「池田輝政」は、関が原では
徳川に付き、その論功で、姫路城主となり、西国の豊臣方大名の
監視役を務めることに。

まそれで、“西軍の残党狩り”となるのだが、「木下家定」も
中立を保っていたのだから、武蔵が西軍に加わったというのは
不自然。

そこで、驚き桃の木。「宮本武蔵」は「関が原」の時は「黒田如水」の
配下にいて、「東軍=徳川方」という説が浮上してきている。

「黒田如水」といえば、丁度今 NHK大河ドラマでやっている
「軍師黒田官兵衛」の事である。

黒田如水は関が原の時は九州で戦っていたので、武蔵も付き
従っていたとすると、九州に居たのだ。関が原には行っていなかった。
なんてこった。吉川「武蔵」は、その根底から間違っていたのだ。




宮本武蔵の出自

2014-03-18 16:45:51 | 虚無僧日記
■宮本武蔵の出自について、江戸時代後期に作成された『小倉・
宮本家系図』に次のように書かれています。

宮本武蔵は 天正12年(1584年)(他の史料では1582年)、播磨
(兵庫県)の守護大名「赤松氏」の一族で、播磨国印南郡米田村の
地侍「田原家貞」の次男として生まれた。

米田村は、姫路から南東へ約15kmの地。その当時の姫路の領主は
小寺氏。田原家貞は黒田官兵衛と共に「小寺政職」に仕えていた。

その頃の様子は、NHK大河ドラマの『軍師官兵衛』で、詳しく
描かれていましたね。あそこに、武蔵の父親も いたとは驚き。

武蔵は次男だったこともあり、同僚の「平田武仁・新免無二」の
養子となる。


■武蔵の養父となる「平田武仁」は、元は、竹山城(岡山県大原町)の
「新免宗貫」の家臣で、十手や剣術の達人であった。

あるとき「平田武仁」は、将軍・足利義昭の御前試合において、
「吉岡憲法」と試合し、勝ったため、主君の「新免」姓を賜り、
「新免無二」を名乗るようになった。

しかし、天正17年(1589年)「新免無二」は 次席家老の「本位田
外記」を誅殺(騙し討ち)して出奔。播磨(兵庫県)へ渡ってきて、
黒田官兵衛に仕えたのだった。

この「武蔵が、田原家貞の次男で、新免無二の養子となった」とする説は、
『小倉・宮本家系図』に書かれているのみで、他の史料にはない。


吉川英治の『宮本武蔵』で「本位田又八」「吉岡清十郎」などの
名前が登場するのは、この史料からの着想かも。
吉川『武蔵』では、武蔵と対照的に さえない男として描かれる
「本位田又八」です。「新免無二」に殺された「本位田」の子孫と
思われる、東大教授の「本位田某」氏が「私の先祖に“又八”の
ような者はいない」と、吉川英治に抗議したとか。


さて、武蔵は 養父の「新免無二」から 十手や剣術を学んだ。
13歳の時に「有馬喜兵衛」と決闘して勝ち、16歳の時には
但馬の兵法家「秋山某」を打ち負かした。

主君の「黒田官兵衛」が、九州の豊前6郡(福岡県の東部と大分県の
一部)を拝領して、豊前へ移ったため、武蔵の養父「新免無二」も
九州に渡り、黒田家の家臣「黒田兵庫」、その子「黒田政成」の
与力となった。「武蔵」も、関ヶ原の合戦の前には 豊前に行き、
「黒田政成」の与力となっている。

慶長5年(西暦1600年)「関ヶ原の合戦」のとき、黒田長政は
徳川家康側についた。新免無二と武蔵の親子は、黒田政成の与力
として豊前に居り、中津城(大分県中津市)を出て、富来城
(大分県国東市)を攻めた。

(私も、国東半島の東「冨来」へは、虚無僧で行きましたぞ。
冨来のYさんとの不思議なご縁で、招かれて行ってきたのです。
いいところでした。武蔵も行っていたのか・・・・・。知らんかった)

武蔵は、この富来城攻めで、敵兵に足を槍で突かれて負傷している。
富来城の主「筧利右衛門」は 討ち死に覚悟で 必死の抵抗を見せた。

黒田官兵衛(如水)は、富来城を落とし、九州統一を目指すが、
島津家との対決の直前で 徳川家康から停戦命令が届いた。

この恩賞として、黒田如水の子[長政」は、筑前(福岡)の
大名となる。しかし、武蔵とその父は福岡には行っていない
ようである。

それからの足取りは不明?なにせ「吉岡一門」との果し合いも
「宝蔵院槍術」や「柳生石舟斎」との対決も、「本阿弥光悦」
「吉野太夫」、「沢庵」との接触も、史料は皆無というのです
から驚き。いや「吉川英治」の想像力、創作力に驚くのです。