現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

5/29 はなきん

2015-05-29 22:02:45 | 虚無僧日記

まだ5月というのに、連日30度前後の真夏日。それでも

夕方になれば涼しい。今日は「花金」。期待して名古屋駅へ。

すごい人波。最近地下鉄も満員だし、人が多くなった気がする。

今日はサラリーマンより高校生が多い。なんでだろ。

「高校生はダメ」と決め付けてはいけない。今日は男女四人の

高校生が近づいてきて、私の天蓋の中をじっと見つめながら

「怪しくない」と思ったのか、それぞれ財布をあけて・・・・。

高校生から布施いただくのは、過去15年で数回しかない。

その後も男子高校生が・・・・・。

五人であわせて18円。それでも、若い人たちに関心をもって

もらえることがなによりもうれしい。尺八百年の大計のため。

 

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普通の人って?落合恵子

2015-05-29 21:48:45 | 心の問題

「普通の女の子に戻りたい」は、人気絶頂で解散した
キャンデイーズの伊藤蘭の名文句でした。

落合恵子が「普通の人々と普通の暮らし」という題で
書いてます。

東日本大震災、そして福島の原発事故以来、昨日の次に
明日がとどこおりなく来ることのありがたさを痛感しての
タイトルとか。

中日新聞には、生い立ちが書かれていました。

私は「私生子」として生まれました。私はただの子どもとして
生まれてきたのに、社会が「私生子」「非嫡出子」といった
レッテルをはり、戸籍に登録され、明るくしていると
「どうしてそんなに明るくしているの?」と聞かれたりする。
そういうところで、フツーという基準を決めつける社会の
息苦しさを、小さいときから感じていた。

そして、「しーちゃん」と呼んでいた叔母が結核だったために、
近所から避けられていたこと。いなり寿司を作って近所の家々に
届けたら、食べずにすぐ捨てられた。母も、フツーでない状況の
なかで疲れきって、かなり強度の神経症をかかえていた。

等など、フツーでない家庭で育った彼女。今「反原発」の先頭に
立って講演して廻ってます。

その彼女への批難、誹謗中傷もまた、すごいものです。

それにもめげず戦う彼女。

何が「フツー」なのか、今の世の中 判らなくなってます。

かく言う私、「虚無僧」は、どうみても「普通の人」ではないですな。


一休と原始仏教

2015-05-29 17:32:52 | 一休と虚無僧

テーラワーダ仏教では、「来世があるかどうかは
わからんが、もしあったとして、来世でも苦しむ
くらいなら、僧侶に説法できるくらいの善行を積んで
死ね」と、より良く生きる“生き方”を説いている。

一休の母の手紙というのも、同様のことを言っている。
「教典を総て諳んじて、どこぞの寺の住持になったとか、
位や肩書きが上がったとしても、そんなものは糞虫と
同じ事。
釈迦も元は凡夫。経典も無いところから修行して、
人に道を説くまでになったではないか。お前(一休)も、
釈迦や達磨を奴(下僕)とするくらいの修行を積んで、
人々を感化いることができるようになれたら、既存の
寺などいらんではないか」というのだ。

一休は、この母の教えの通り、寺には入らず、草庵に
住んで、一生を一蓑一笠の托鉢僧で終えようとした。
最後81歳で、天皇の勅願により大徳寺の住持となって、
応仁の乱で焼けた大徳寺の再建を果たすのだが、新装
なった大徳寺に住むことはなかった。薪村の酬恩庵で
盲目の森女と仲睦まじく余生を過ごしたのである。

そして一休の名は、600年を経た今日、東南アジアまで
知れ渡るようになった。一休は未来永劫生き続けて
いるのである。虚無僧は、その一休に倣う生き方である。


「布施とは何か」

2015-05-29 16:58:50 | 虚無僧日記

5/29 中日新聞・文化欄に 花園大学教授の「佐々木 閑(しずか)」氏が寄稿。

『お布施とは何か-誠実な生き方を称賛』。

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お坊さんとは「世俗の生産活動を放棄し、世間の価値観に

従わずに生きていく人たち」。しかしこれはね大変虫のいい

生き方である。普通なら世間からひんしゅくをかう。

「みんな汗水たらして働いているのに、好きなことだけ

やって生きていこうとは けしからん。働かざる者 喰うべからず。

さっさと働け」ということになる。

そこで、釈迦は弟子たちにこう言った。

「私たちは、世間の皆さんが苦労して働いている横で

仏道修行などという世間離れしたことに人生を懸ける横着者である。

しかし 人に どう言われようと、この道を進むしか我々の生きる道はない。

だから、我々は、ののしられようが、石を投げられようが、ひたすら

世間のみなさんに頭を下げて、食べ物をもらって歩く。世間の人たちの

厚意にすがって生きるのである」と。

実際、石を投げられたり、冷たく追い返されたりすることもある。

それでも  じっと耐えながら、自分の信念を貫いて生きる。

その嘘偽りのない生き方に共感して、「食べ物や着物を施して

やりたい」という人も現れる。

布施は、修行に打ち込んでいる坊さんへの称賛の証しであり、

「修行を積んで、人々に生きる道を指し示してください」という

期待への証しでもある。

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と、まあ、布施(喜捨)する意義、目的をわかりやすく説明している。

ありがたや。私は「布施してもらえる自分になれるよう、自分みがきが

修行と心得る。