現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

あの戦争は何だったのか

2021-06-11 23:31:26 | 太平洋戦争

2014年の年末年始特別番組で、ビートたけし演ずる東条英機のドラマがあった。

「あの戦争は何だったのか」

「これまで、戦争の悲惨さを被害者の視点から描く作品は多かった。だが、この番組では、繰り返される政権交代、省庁の縄張り争いなど、現代と共通点があったことに着目。日本というシステムが持つ問題点は今の時代にもあるというメッセージを伝えたい」という意図で作れたという。

私が慶応の史学科に在籍していた頃(S42~46)「50年経たなければ歴史学のテーマにならない」と言われた。太平洋戦争からもう60余年を経た。田母神空幕将が、「あの戦争は侵略戦争ではなかった」という論文を発表して物議を呼んでいる。

私の伯父牧原源一郎は、東条英機内閣の下の「翼賛政党議員」となり、運輸大臣
の秘書官を務め、東条がギブアップした後、総理大臣となった鈴木貫太郎の下で終戦への難しいかじ取りにかかわった。しかし戦後「戦犯」に問われ、公職追放と農地改革で田畑を失った。同期の岸信介らが戦後即政界に返り咲いたことを複雑な心でみていた。

また、東条にさからって投獄され、割腹自殺を図った中野正剛も遠戚にあたる。

であるから、東条は嫌いだが、この番組では、東条は昭和天皇の御意をうけて、戦争回避を模索していたが、「開戦を叫ぶ国民・マスコミの熱狂があり、それを抑えきれず、やむなく開戦の決断をしたと、彼を擁護している。

そう、今のコロナ禍のバカ騒ぎにしても、マスコミがいたずらに煽っているとしか見えない。マスコミこそマズゴミ。民衆の敵だ。騙される民衆もあわれ。


コロナで大儲けした人

2021-06-11 23:24:45 | 社会問題
コロナで「仕事無い」「客が来ない」と嘆く人をしり目に、一儲けしている
こずるい人がいる。
 
扶桑社新書

 

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本体価格:800円+税

判型:新書

誰が新型コロナで暴利を得たのか?

持続化給付金の不正受給、
偽造された税務署の収受印、
ペーパーカンパニーを使った詐取、
コロナ禍に乗じた悪徳商法、
窮地の飲食店に不正受給をそそのかす悪質業者、
マスク価格高騰の裏で暗躍していた国際犯罪組織……
新型コロナ経済対策200兆円を喰い物にする連中の巧妙な手口に迫る!

 


昭和39年年は邦楽界に革命が起きた年

2021-06-11 23:16:16 | 虚無僧日記

昭和39年、東京オリンピックの年。尺八界は劇的に変革します。

まず「日本音楽集団」が旗揚げ。琴、三味線、尺八、笛、太鼓、琵琶など流派を超えた和楽器奏者が集まり、三木稔、長澤勝利等、洋楽系の作曲家による現代曲が次々に演奏発表されます。その中心的存在になったのが、堀井小二朗に影響を受けて7孔尺八の宮田耕八朗でした。

NHK FMでは「現代の日本音楽」という番組がスタートし、諸井誠、武満徹、一柳慧といった前衛的な現代作曲家もこぞって和楽器を使った曲を作曲、放送されます。

また、都山流の山本邦山、琴古流の青木静夫(後に鈴慕)、そして海童道(わだつみどう)の横山勝也の三人が「尺八三本会」を結成。杵屋正邦や洋楽系の作曲家による現代曲を次々に発表。それまで、流派が異なる尺八家が同じ舞台で演奏することはあり得ませんでした。都山流などでは「除名」と噂される世界でした。

 

 


宮城道雄 触覚で見る

2021-06-11 23:13:03 | 筝尺八演奏家

宮城道雄 エッセイから 

指先をつかうことがだんだん慣れてくると、テーブルに手を触れただけでも、どこにきずがあるか、また、汚点があるかもわかるようになる。そして織物のようなものでも色はわからないが、縞の荒さなどは、どんなぐあいかということはわかる。私は変わったものを、目で見るかわりに、撫でてみるのが楽しみなのである。

 

 

私のところに尺八を習いにきているSさんも、同じことを言う。

「この尺八、ここ割れてますね」と、竹のヒビ割れや 疵も 触ってわかる。

竹の色、黒い染みまでがわかるようだ。「この竹は きれいですね」と。

あの点字も、われわれ目明きには、触っても全くわからない。

1万円札、5千円札、千円札、そしてコインも手で触って見分ける。

驚いたのは、耳の良さ。

100円玉を落としたら、「あ、百円 落ちましたよ」と。

「なんで百円と判るの?」訊くと「百円、十円、五百円玉、

それぞれ、みな判りますよ」と。

尺八は「ロ(ろ)」の音を連打する時、第1孔を打つか、第2孔、

第3孔を打つかで音色、感じ方が違う。それも聞き分ける。

「今3孔を打ちましたね?」と。

目明きのお弟子さんは、譜面しか見ていないから、「ロ」ならば

バカの一つ覚えで第2孔しか打たない。私が第1孔を打っていても、

気がつこうとしない。

だから、全盲のSさんが、私に最も近い吹き方をする。

高橋竹山の二代目も云っていた。「初代の竹山の音は、われわれ

目明きには真似できない。でも盲目の人にはできるんですよね」と。

 

 


仏教の中にはいったキリスト教

2021-06-11 23:09:23 | 虚無僧日記

仏教に対するキリスト教の影響 から転載


 仏教は初期の段階で「小乗仏教」と「大乗仏教」に分派します。

小乗仏教」(上座部仏教)とは、大乗仏教成立以前の仏教で、現在は、セイロン、タイ、ミャンマー(旧ビルマ)、インドシナに残ります。
 

大乗仏教」は、小乗仏教が 個人的解脱の教えであるのに対し、広く人間の全般的救済と 成仏の教義を説き、 一~二世紀頃に成立しました。中国、日本などに伝わった仏教は、大乗仏教です。


大乗非仏論、「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」?

釈迦は、長い苦行の末に「悟り」を開き、一切のものは空(無我)であると説きました。人間世界の苦も、生も、死も、すべては空であり、実体のないものであると説いたのです。 

そして、前世も来世も、あの世のことについて、釈迦は何も説いていません。釈迦は、無神論者で、キリスト教でいう「神」、絶対的存在者に関する思想は持っていませんでした。原始仏教では、人間から悟りを開いて如来となったという釈迦仏だけを信奉するものでした。

 

ところが、大乗仏教になると、釈迦の他に、「大日如来」(大ビルシャナ仏)とか阿弥陀仏」とかいうような 実在しなかった架空の"神的存在者"が出てきます。

大日如来」とは、「光明があまねく一切を照らす」という意味で、宇宙の実相を霊化した存在者です。ですからキリスト教の「全知全能なる神」と同一です。

 

また「阿弥陀仏」とは、極楽浄土に住むとされる神的存在者で、この仏を信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな人でも 極楽に往生できる、というのです。

大乗仏教には、「浄土」とか「仏国土」という思想があります。

「浄土」(仏国土)は、キリスト教で言う「天国」と同じです。

「浄土」の思想は、もともと釈迦の教えにはなかったのです。


また、小乗仏教では、この世界の事物は「空」(無我)であり「無常」であるという世界観に終始していたのに対し、大乗仏教になると、「無常」の世界の奥に、さらに常住なるもの」(変わりなく存在するもの)を捉えようとします。

すなわち大乗仏教になると、移り変わる物事の奥に、"永遠的なもの"を探ろうとするのです。

 


『古事類苑』とは

2021-06-11 23:08:05 | 尺八・一節切

『古事類苑』は、一千巻もの膨大な書物を集めたものです。
その 第262冊「楽舞部」の 第12が「尺八」です。

尺八の項に引用されている文献は次のとおり。
これだけのものを,よくも集めたものです.

「尺八の項の序」

倭名類聚抄・伊呂波字類抄・源氏物語六末摘花・教訓抄・續教訓抄・
唐六典・文獻通考・遊仙窟・和爾雅・日本風土記・?器年山紀聞・
本朝世事談綺・吉野拾遺・廣益俗説弁・羅山文集・『體源抄』・
東大寺獻物帳・信西入道古樂図・西大寺資財帳・看聞日記・龍鳴抄・
享祿本類聚三代格・令集解・舞曲口傳・古事談・續世継・續教訓抄・
梅花無蓋藏・雅遊漫録・人倫訓蒙圖彙・『虚鐸傳記』・和漢三才圖會・
普化宗雑記・雍州府志・萬寳全書・先進繍像玉石雑志・常山紀談・
雨夜燈・俗耳鼓吹・音樂栞・『糸竹初心集』・獨語・翁草・閑際筆記・
鹽尻・傍廂・嬉遊笑覧・閑田耕筆・書言字考節用書・一節切竹律談・
指田流一節切之傳・本朝世事談綺・一思庵之傳書・類聚名物考・
南畝莠言・一話一言・紙鳶・糸竹古今集・小竹笛音調學初傳・
尺八手員目録・竹の根分・一節切温古大全・一節切一家言・洞簫曲 

これを全部精査するのに、あと10年かかりそう。



尺八の元祖は猿の骨

2021-06-11 23:07:33 | 虚無僧日記



その(1)

「古典尺八を楽しむつどい」。古典とは
いつの時代まで遡ればよろしいのでしょうか。

尺八の歴史を紐解きますと、なんと1万年前
にまで遡ります。中国の1万年も前の遺跡から
鶴や動物の足の骨に孔を空けた笛が何本か出土
しているそうです。

その昔、中国は漢の武帝の時の事です。武帝は
隣国を攻め、戦いに明け暮れていましたが、ある
時、山間に兵を進めていきますと、猿の鳴き声が
聞こえてきます。その声がなんとも美しい。
兵たちは、その声に聞きほれ、闘う意欲を失って
しまいました。故郷の家族のことが思い出され、
里心がついて、戦意喪失です。
兵たちが進まないので、怒った武帝は、「その猿
を捕まえ、殴り殺せ!」と命じます。「ぶてぇい、
ぶてぇい!」と。誰も応じようとしないので、武帝
は自ら弓矢をとり、その猿を射殺してしまいました。
“いかんわなぁ”。漢の国はやがて滅びます。

さて、何日か、何ヵ月かが過ぎて、村人が山中で
妙なる笛の音を聞きます。近づいてみると、朽ち
果てた猿の骨に、風が当たり、妙なる音が鳴って
いるではありませんか。
村人は、その猿の骨で笛を作り、また、竹で同じ
ような笛を作った。それが尺八の元祖だそうです。

あります。
尺八は、中国音で「チーパ」。もともとの意味は
「肘や脛の骨」だそうです。

このように、尺八には、なにか、もの悲しい、
郷愁を誘うような響きがあるようでございます。
 


聖徳太子の尺八

2021-06-11 23:06:12 | 虚無僧日記

6/14 「古典尺八を楽しむつどい」シナリオ (2)

さて、最初にお見せするのは、法隆寺に伝わった
「聖徳太子の尺八」です。只今は国立博物館の
所蔵となっています。それと全く同じ形に複製
したものです。尺八の最初は、猿や鶴の足の骨
で作ったという伝説を思わせるような細い尺八
です。竹で節は3つ。手孔は前に5つ、裏に1つ。
合計6個です。

聖徳太子が吹かれたという『蘇莫者』の曲が、
大阪四天王寺に伝わっています。『蘇莫者』
とは山の神、猿のことだそうです。では聞いて
いただきましょう。


いかがでしたか。仏教を取り入れ「和をもって
尊しとなす」「あつく三宝を敬え」と定めた
聖徳太子の願いは、争いのない平和な国づくり
でした。

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家康も一節切に執着

2021-06-11 23:05:34 | 尺八・一節切

12/7 短歌会館で私の独演会。
オークションで入手した「一節切(ひとよぎり)」を
公開する。裏孔が二つある珍しい一節切。一つの孔は
祥啓画の「朗庵像」に描かれている「響孔」なのだ。
中国の明笛と同様、薄い膜を貼って、ビリビリと響かせ
るものだ。日本ではこれまで一本も確認されていない。
マスコミ各紙にニュースレリースを送ったが、まだ
どこも飛び付いてこないのは残念。

「家康愛用」と伝えられる「一節切まむち」が、
岡崎市の法蔵寺に秘蔵されている。

小田原北条氏が滅びた時、徳川家康は、北条氏綱の娘
香沼姫に「北条幻庵の一節切を渡せば、北条家を再興
させてもよい」と、手紙を送ったという。北条幻庵は
北条早雲の第3子で北条氏滅亡の前年まで生きた。
幻庵の作る一節切は鳴りも良く、「幻庵切り」として
都まで評判となっていた。それを家康が欲しがったの
である。
香沼姫は、これを拒絶し、その代わり「玉葉和歌集」を
送ったという。「玉葉集」は1312年に撰集された勅撰和歌集。
一節切が、北条氏再興を左右するほどの価値があったのだ。
今その一節切は小田原の山本良久氏によって、香沼姫の
墓とともに大切に維持保管されている。

沼津の耕雲寺には「武田信玄の一重切一対(2本)」が
秘蔵されている。みな公開したがらないので、世に知ら
れず、その価値が認められていないのは残念。





武田信玄と尺八

2021-06-11 23:05:17 | 尺八・一節切

沼津の【耕雲寺】に、「武田信玄の一節切尺八」が
寺宝として伝存している。

虚無僧研究会会誌『一音成仏』(第19号が 昭和60年)に
掲載されている。
書付には「武田信玄公御調法 一重切御笛 壱対」とあり、
藤巻きの、よく似た作りの「一節切」2管だ。

ただし「(石綱氏が)拝見させてもらったが、写真を撮った
ところ、住職がカンカンになって怒りだし、あわてて
逃げ出したが、門まで追っかけてきて、ネガを返せ、返せ
と迫られ、返却する約束で退散した」というようなことが
書かれているので、取り扱いはご注意。

寺としては非公開で、秘しているようで、ネットで検索
しても「耕雲寺幼稚園」ばかりで、尺八の記述は2件だけ
ヒットした。

寺伝では「耕雲寺は、大永年間(1520年頃)太岳和尚が開山。
北条氏との戦いで、武田信玄がこの地まで進軍した時に、
この寺で休憩をとり、そのお礼に太岳和尚に授けた」と言う。

北条との戦いで、武田信玄が沼津に来たのはいつだろうか。

1554年に相模の北条氏康が、駿河の今川領に侵攻する。
永禄3年(1560)今川義元は、桶狭間で討ち死にする。
永禄11年(1567)武田信玄の駿河侵攻が始まると、北条
方も駿河に攻め入り、興国寺城を奪取した。

「太岳和尚が存命だった」とするならば、この頃がリミットだ。

その後も武田と北条氏との対立は続き、元亀元年(1570)、
武田信玄は興国寺城に攻撃をかけたが失敗。

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は諏訪から伊那谷を
経て遠江に出、12月22日「三方ヶ原」で、家康を駆逐。
翌元亀4年(1573)1月、野田城を取り囲んだ。そこで
毎夜、野田城から聞こえてくる「一節切」の音に誘われて
城に近づき、銃撃を受けたという。

信玄は、よくよく尺八が好きだったのだ。


この時の鉄砲傷か、持病がさらに悪化したか、鳳来寺に
1ヵ月留まる。そこで亡くなったのであろう、武田軍は
信玄の喪を秘して撤退する。