現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

6/27は函館戦争終結の日

2021-06-27 13:13:10 | 虚無僧日記

慶応4年(1868年)4月江戸城無血開城により、海軍副総裁の榎本武揚は、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らとともに蝦夷地に向かい、松前藩を攻めて五稜郭に入り、「蝦夷共和国」を樹立した。会津藩家老の西郷頼母も加わっていた。

 

しかし、蝦夷地の独立を許さない新政府軍の攻撃を受けて、明治3年5月18日(1869年6月27日)降伏した。

その一週間前の5月11日(6月20日)新選組副長だった土方歳三が戦死。享年は近藤勇と同年34歳だった。

2日前の5月16日(6月25日)には中島三郎助が、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。享年49。土方ともに覚悟の討ち死にだった。

中島三郎助は嘉永6年6月(1853年7月)ペリーが浦賀に来航した時浦賀の副奉行として旗艦サスケハナに乗船、ペリーと対面し、蒸気船の構造や大砲など詳細に調べて幕府に造船を建白。翌年の嘉永7年(1854年)には日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造にあたり、完成後はその副将に任命された。ペリー来航から16年、目まぐるしい幕末の動乱を生き、函館で最期を飾った。

 

 

 


彰義隊士の戦い

2021-06-27 11:18:36 | 虚無僧日記

1968年6月26日の事件簿

慶応4年4月11日、江戸城が無血開城し、上野寛永寺で謹慎していた徳川慶喜は水戸へ移送された。その時、渋沢成一郎ら一橋家臣や幕臣、脱藩者で結成された彰義隊は慶喜の護衛を行おうとしたが、寛永寺に止め置かれた。

彰義隊は、新政府軍と一戦交えようとする脱藩兵や博徒も集まってきて最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がった。渋沢成一郎は江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張したため分裂。

そして、彰義隊は江戸市中で新政府軍に対して抵抗を試みた。

5月7日(1868年6月26日)次の三件の事件が起きた。

  • 同夕方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人~9人と遭遇し、惨殺された。
  • 同夜、尾張藩の足軽1人が私用で四谷付近へ出掛けたところ、10人ほどの旧幕臣に襲撃されて手傷を負った。
  • 同午後6時頃、肥前藩士2人が、上野北大門町で80人ほどの集団に斬りかかられ、1人が斬殺され、もう1人は深手を負っ藩邸へ逃げ帰った。

なぜか「本能寺合戦之図」となってます。

そして、5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する新政府軍は、寛永寺を包囲し、雨中総攻撃を行った。午後から肥前佐賀藩アームストロング砲が彰義隊を圧倒し、1日で戦いは終了した。彼らの多くはから威張りで、いざ戦闘となると多くが逃げ出したとも。記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名と言われている。逃れた彰義隊士の一部は会津へと向かったが、彼らは各地で略奪暴行をくり返し、会津にはいっても評判はすこぶる悪かった。

この日、福沢諭吉は砲声に浮足立つ塾生を尻目に「ウェーランドの講義」を行った。

 


108歳まで生きた?「天海大僧正」

2021-06-27 09:07:50 | 会津藩のこと

家康のブレーン「黒衣の宰相」として知られる「南公坊天海」。
その出自は不明で「明智光秀」ではないかとも噂される。
もし「光秀」ならば、116歳まで生きたことになる。

 



出生は謎だが、関ヶ原の役や小田原北条攻めの時は家康の参謀として傍らに控えている。

  天海着用と伝えられる甲冑

家康、秀忠、家光の三代に仕え、江戸の町の設計に大きく関わった。

こんな逸話もある。
100歳の時、将軍・家光から柿を拝領した。天海は 柿を食べると、
種をていねいに懐紙に包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光が からかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。
「桃栗3年、柿8年」。8年後、天海から家光に柿が献上された。
家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が 実をつけました」と答えたという。それで108歳まで生きていたことは確実らしい。
「きんさん・ぎんさん」バリの話だ。

 

江戸の鬼門を守る寺として上野に東の比叡山「東叡山寛永寺」を創建してその住職となった。その寛永寺は幕末、慶応4年7月4日、彰義隊が立て籠り、新政府軍の砲撃を受けて、全焼壊滅した。天海の呪術も時の流れには逆らえなかったか。



『東叡山開山慈眼大師縁起』には「陸奥国会津郡高田の郷にて生まれ給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されている。蘆名は、鎌倉・室町と会津を支配した領主。伊達政宗によって滅ぼされた。

一昨年、虚無僧で会津高田を訪れた。今は「美里町」と町名が変わっていた。一軒一軒門付けして廻っていると、突然の夕立。
丁度、図書館の前だったので、入り口の庇の下で雨宿りしていると目の前に「天海僧正誕生地」の碑があった。案内板では「蘆名氏の女婿 船木兵部少輔景光の息子で、その両親の墓が見つかった」と。