現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「西郷頼母」と養子「西郷四郎」

2021-06-26 21:58:20 | 会津藩のこと

西郷頼母(さいごうたのも 1830~1903年)
松平容保(まつだいらかたもり1836~1893年)

ちなみに頼母は1830年生まれで、八重の兄の山本覚馬は1828年生まれ。NHK大河ドラマ『八重の桜』では西田敏行が西郷頼母を演じ、隠居した「年寄」のようでしたが、実際には「山本覚馬」より2歳年下でした。ジャ~ン

さて、西郷頼母の母、妻子、二人の妹ともに自刃して果てたのですが、長男「吉十郎」だけは「頼母」とともに、米沢、仙台、函館まで運命を供にしまた。

その「吉十郎」は、明治12年22歳で若死にしてしまったため、頼母は甥の「志田四郎」を養子にします。この養子が「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四郎」です。



さて、養子に迎えたのはいつか?。

「四郎」は 会津藩士「志田貞二郎」の三男として生まれ、会津戦争の時はまだ2歳。会津の西50kmほどの山あいの村津川に疎開していました。

明治5年、父「貞二郎」が38歳の若さで亡くなります。四郎が7歳の時でした。四郎はずっと津川で育ったようです。

明治15(1882)年、17歳で上京し、この年、嘉納治五郎によって創設されたばかりの「講道館」へ入門します。

その2年後の明治17(1884)年に 西郷(保科)頼母の養子となり当初「保科四郎」後に「西郷四郎」と改名します。


さて、ネットでは「四郎は霊山の宮司を勤める頼母に育てられ、頼母から武芸を習った。その後、東京に出て、講道館にはいった」という記述が多いようですが、「頼母」が霊山の宮司を勤めるのは明治20年です。年代があいません。


「四郎」が東京に出て講道館に入門した明治15年、また「頼母」の養子となった明治17年、その頃「頼母」はずっと日光東照宮の禰宜を務めていたのです。

そこで、不思議なのは、「頼母」と「四郎」の接点が全く見つからないことです。「四郎」は「頼母」の甥だったといいますので、「頼母」の妻(旧姓「飯沼」)の姉妹いずれかが「志田貞二郎」に嫁いでいたことになります。

「実子ではないか」という説もあるほど、二人は体型も顔もよく似ています。「西郷四郎」は身長5尺1寸(約153cm)、体重 14貫(約53kg)と小男でした。背が低いために陸軍士官学校に入れなかった。しかし、その小男が、大の
男を投げ飛ばす。それで講道館柔道が脚光を浴びることになったのでした。


「四郎」は7歳で父を亡くしていますので、東京に出るには叔父「頼母」の資金援助を受けていたのでしょうか。「頼母」は明治12年には一子「吉十郎」を亡くしていますので、甥である「四郎」に目をかけていたのでしょう。

しかし、その後も「頼母」と「四郎」が接触したという記述が全く見当たりません。「四郎」はその後 講道館を出て、長崎に行き、政治活動に身を投じ、最後は
1922年 尾道市で57年の生涯を閉じます。


「西郷頼母」と「西郷四郎」

2021-06-26 21:57:12 | 会津藩のこと

明治12年に、一子「吉十郎」を亡くし、天涯孤独と
なった「西郷頼母」は、明治13年、旧藩主「容保」が
日光東照宮の宮司となった際、自分も日光の禰宜(ねぎ)と
なって 「容保」を補けます。

「禁門の変」の際、会津への引き上げを進言して、
「容保」の怒りをかった「頼母」でしたが、月日が
去ってみれば、「容保」も「あの時、頼母の意見を
取り入れていれば、会津藩士3千名の命を失わずに
済んだもの」と、反省したのかもしれません。

この頃、同じ会津藩士の「志田貞二郎」の三男「四郎」を
養子に迎えます。「容保」の仲立ちがあったのでしょうか。

志田四郎は、3才の時、会津戦争に遇い、家族とともに
津川(現:新潟県阿賀町)に逃れます。そして16歳で
「西郷頼母」の養子となり、「福島県伊達郡霊山町の
霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられ、頼母から
柔術の手ほどきを受ける」と云われているのですが、
「頼母」が「霊山」の宮司になるのは、明治22年の
ことで、辻褄が合いません。

「西郷頼母」の養子となった「四郎」は、1882年(明治15年)
には上京して、陸軍士官学校の予備校であった成城学校
(新宿区原町)に入学し、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場に
通いますが、同流出身の嘉納治五郎に見いだされて講道館へ
移籍し、わずか半年で 1883年(明治16年)「初段」を
取得します。講道館最初の「初段」免許でした。

養父「頼母」は、前述のとおり、明治20年、日光から
一旦会津に帰り、同22年、福島市東の「霊山神社」の
宮司となります。「霊山神社」は 南朝の忠臣「北畠親房・
顕家・顕信・顕時・守親」を祀り、明治19年に別格官幣
大社となった神社でした。

「頼母」は明治32年、会津に帰り、旧藩邸から100mばかり
離れた「十軒長屋」でひっそりと暮らし、明治36年、
73歳で亡くなりました。辞世の句は

「あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ
 保科近悳今日死ぬるなり」

最後は「西郷頼母」ではなく、先祖の姓「保科近悳」として
亡くなったのでした。

この間、養子の「西郷四郎」は、明治22年には講道館を
出奔して大陸に渡り、後、長崎で「新聞」の発行に携わったり
しながら、最後は 1922年(大正11年)尾道で亡くなります。

二人の経歴を見る限り、親子としての接触はほとんど無いに
等しいのです。ですから、西郷頼母が「四郎」を養子にした
経緯、その後の関係については、“知ろう”としても
まったく不明なのです。


姿三四郎のモデル「西郷四郎」

2021-06-26 21:56:43 | 会津藩のこと

姿三四郎のモデルは、柔道四天王のひとり「西郷四郎」だが、
彼が会津人であることは、知る人ぞ知るだ。

「姿三四郎」。名前はステキだが、実在の「西郷四郎」は
身の丈5尺(50cm)に満たない「会津の山ザル」。

西郷四郎は、慶応二年(1866)、会津藩士志田貞二郎の三男
として生まれた。三男なのに「四郎」それで「三四郎」??

2歳の時、戊辰戦争となり、津川に避難していた。会津藩士は
家族一丸となって玉砕したかと思いきや、会津から50kmも
離れた新潟県阿賀野町津川まで疎開していたのだ。津川は
今は新潟県だが、江戸時代は会津藩領だった。

明治元年の戊辰戦争に敗れた会津藩士は、多く故郷を捨て、
下北半島に移住したが、生計成り立たず、北海道や東京に
移った。志田家もそうだったのか。四郎は、明治15年(1882)、
17歳で 講道館に入門した。この時はま だ旧姓の「志田四郎」。

翌16年には、富田常次郎と共に 初段になる。その素質を
認められてか、翌17年、元会津藩家老「西郷頼母」(1830~1903)
と養子縁組をし、「西郷四郎」となった。明治19年には、
五段に昇進する。

この年、「警視庁武術大会」で 西郷四郎は 楊心流戸塚派の
昭島太郎を下し、講道館柔道が、警察官必修科目として、
警視庁に採用されることになる。

こうして、「西郷四郎」は「講道館の四天王」と呼ばれる
ようになる。その「四天皇」の一人、同期の「富田常次郎」
(1865-1937)の子が、「姿三四郎」の原作者「富田常雄」
である。

なお、黒沢明の監督としての最初の作品が「姿三四郎」。
昭和18年(943)年公開。


会津藩家老「西郷頼母」って?

2021-06-26 21:56:14 | 会津藩のこと

1/2 新春ワイド時代劇『白虎隊』では、家老の「西郷頼母」が
主役に据えられるそうです。


「西郷頼母」は、藩主「松平容保」が京都守護職を拝命した時には、
「火中の栗を拾うようなもの」と諌め、鳥羽伏見の後も、ひたすら
恭順を説き、いよいよ西軍が福島に迫るとなると、白河口の総大将
でしたが、あっさりと敗れて退却。そして、籠城戦のさ中、長男
「吉十郎」を連れて、会津から出奔して 行くへ不明となる。
どちらかというと、パッとしない存在ですが、それが、今回主人公と
なるのですから、どのように取り上げられるのか、難しいところです。


この長男「吉十郎」は若死にしてしまうため、「志田四郎」を
養子にします。この養子が「姿三四郎」のモデルとなった
「西郷四郎」です。

西郷頼母は、その後、養子の「四郎」とも疎遠になり、最後は、
会津の長屋で独り淋しく74歳の生涯を閉じました。なぜ、
講道館で頭角を現してきた志田四郎を養子にして、その後
疎遠になったのかが謎でした。

どうやら「西郷頼母」は、今日の「合気道」の元祖らしいのです。

西郷頼母は、会津藩に伝わる合気術の伝承者で、それを四郎に
継承しようとして養子にしたが、四郎が柔術の道に進んだことで、
疎遠になった」という説が浮上してきました。
このことを、いつかマスコミで取り上げて欲しいですね。


もひとつ、噂話。「西郷頼母」と 薩摩の「西郷隆盛」は、
先祖が同じで、お互い「血脈」も「気脈」も通じていたと
いうのです。

明治10年、福島県の都々古分神社の神主をしていましたが、
西南戦争で蜂起した「西郷隆盛」を支援したという理由で
解任されます。

会津藩の家老「西郷頼母」。会津征討総大将が「西郷隆盛」。
「たかもり」と「たのも」。「隆盛」は 実は父親の名前で、
本名は「吉之助」。「頼母」の子の名は「吉十郎」。そして
双方とも、遠祖は「菊地」氏。戊辰戦争で、ひたすら「反戦」を
唱えたのも「西郷隆盛」と「気脈」が通じていたからではと、
疑われた、なんて話はまだありましぇん。私の推理です。



郡長正割腹の真相

2021-06-26 19:44:26 | 虚無僧日記

郡 長正(こおり ながまさ)を知っていますか?

郡 長正は会津藩家老 萱野 長修の次男として生まれるが、明治2年父が会津戦争の責任を負って自害すると、お家断絶。郡姓に改姓した。

明治3年豊前豊津藩(旧小倉藩)の藩校 育徳館に留学する。
ところが、翌明治4年5月、郡 長正は育徳館の寮で自害して果てた。遺書はなく、戦前の書物では「母親に寮の食事の不満を述べた手紙を同輩に見られたことを恥じての自害」とされてきた。
 
数年前ですが、小倉から行橋、そして豊津(現 みやこ町)へと虚無僧で旅してきました。目的地は、みやこ町にある郡長正の墓参り。そして旧豊津中学(現育徳館)内にあるという郡長正の碑を訪ねたのですが、在校生に訪ねても誰も知らないというのでがっかり。失望して帰ってきました。
 
「郡長正」の話は、私も幼い頃から母に聞かされており「食べ物の不足はいってはならない」と教えられてきました。
昭和16年に亜細亜書房から出された狭間祐行著「維新秘史 会津戦争」も読んで感銘を受けました。
 
 
しかし、子供心に「長正が食べ物の不足を母に愚痴るはずはない、そんな事で腹を斬るわけがない」と疑問に思っていました。
 
ところが平成15年宇都宮泰長氏によって「会津少年郡長正自刃の真相」という本がだされ、納得です。
 
その場に居合わせた豊津藩・育徳館の人たちの子孫たちが語り伝えていた真相です。「母親への手紙」というのは作家の創作。当時明治4年郵便制度はまだ未発達で、母親との手紙の往還などあり得ないということです。
 
育徳館に留学した仲間に「神保修理の子神保岩之助(長正とは従兄)がおり、長正が鳥羽伏見の敗因を作った神保修理を責めたたりして留学生同士の喧嘩が始まった。その仲裁にあたった豊津藩の生徒に対して、長正は「小倉(後に豊津)藩は長州に攻められた時、城を捨てていち早く逃げたではないか」とやじった。これに対して、豊津藩の中川三郎が「いや逃げたのではない。町人たちが戦火に巻き込まれるのを避けるため、ここ豊津まで移動して、長州を相手によく戦い、持ちこたえた」と説明した。そして「会津藩も山間部で戦えば、冬までの持久戦になって被害も少なかったであろう」と。長正の父萱野長修はまさに、越後口の山間部で戦っていた。長正は「それみろ、父は正しかった」といってまた仲間内の争いがはじまった。また、中川三郎は「豊津藩は会津戦争後、猪苗代から数百名の会津藩士を東京までの護送の任にあたった。その苦労は筆舌に尽くし難い。豊津藩としては会津に同情して厚遇したが、脱走する者が後を絶たず、当藩は責任を問われた。諸君らは戦争の勝ち負けを今更論じても始まらない。学業にいそしみ、会津藩を再興すべきだ」と諭した。その言葉に長正は深く反省し「豊津藩に暴言を吐いたことを詫び、殿様にあやまらなくてはいけない」と神妙になった。それを心配して、長正を一時家老宅に預けたが、寮に帰したところで、また仲間同士言い争いとなり、その晩、長正は腹を切ったというもの。
 
「食事がまずい」と母に送った手紙を読まれて「会津の死に損ない」とやじられ腹を切ったというのは、後世の作家の作り話。私はこうした作為に憤りを感じます。
今、復元された日新館内にこのような展示があるそうな。真相が分かった今、このような展示はやめるか、真相を書くべき。それを頑固に変えようとしないのが会津人の気質か。
だから私は、復元された会津武家屋敷も日新館も飯盛山も行きません。崇高なる武士道が、嘘でかためたお涙頂戴の観光売り物にされることに、私は辟易します。
 

6/26 「ハーメルンの笛吹き男」の伝説

2021-06-26 15:48:28 | 虚無僧日記

今日6月26日は、ドイツのハーメルンの町に笛吹き男が現れて、町中の子供達を連れ去った日。

ドイツ、ハーメルンの町の伝承

1284年6月26日、カラフルな色の派手な衣装をまとった男が笛を吹きながらやってきた。すると、その笛の音に引き寄せられて家々から子供たちがぞろぞろ出てきて、彼の後に着いて行った。そして130人の少年少女たちが町の外に出ていき、二度と戻ってこなかった。

この話は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会にのステンドグラスに描かれたのが最初。

以降、グリム童話等で脚色され、日本にも伝わった。日本では、次のように語られている。

ハーメルンの町で鼠が大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、派手な服を着た男がやって来て、「鼠を退治してあげよう」と。それで、町の人々は彼に報酬を約束して、鼠退治を頼んだ。すると、男が笛を吹くと、町中の鼠が集まってきて彼の後に続いた。男は笛を吹きながら川の中に入っていくと、鼠も続いて川にはいり皆溺死してしまった。ところが、鼠を駆除したのに、町の人々は約束を反故にして報酬を払わず、男を町から追い出した。

そして6月26日の朝、大人たちが教会に集まっている間に、男が町にやってきて、笛を吹くと、町中の子供たちが笛の音を聞いて彼の後に続き町の外に出ていった。男は郊外の山の中腹にある洞窟の中に子供たちと入っていき、出てこなかった。驚いた町の人々は、彼に謝り、報酬を払って子供たちを取り返した。

と、いわゆる❝勧善懲悪❞の話になっている。嘘をついてはいけないという教訓話だ。

実は私は子供の頃、この話を絵本で読んで異常な興味を覚えた。そしてある日、家の前に虚無僧が現れた時、私は虚無僧の後に続いて隣町まで着いて行った経験がある。そして大人になって虚無僧をしながら、いつもハーメルンの笛吹き男と自分をダブらせる。私の尺八で何人の子供たちを引き寄せられるだろうかと。

私の尺八にはそれだけの力がある。無ければならないと。