「酒井勝軍」で検索して見つけた。
日本最初の音楽出版社『音楽新報社』は1904(明治37)年
2月、山田源一郎(1869-1927)とキリスト教伝道師で
賛美歌と唱歌の普及を目指す酒井勝軍(1874-1940)に
よって創業され、2月23 日に月刊誌『音楽新報』を創刊した。
雑誌発行に際して小松耕輔が編集人として呼ばれ、その後
すぐに小林愛雄も同人として参加するようになった。
『音楽新報』創刊号の巻頭言は同誌発刊の主旨として、
「理想的社会の要因たる音楽」の社会的地位および発言権の
欠如に鑑みて、音楽活動の活発な推進を図るよう唱っている。
『音楽新報』は明治・大正期の音楽雑誌と同様に、紙面は
論文、楽典、西洋音楽の紹介、音楽エッセー、音楽会評、
音楽会案内、人物動向、新曲紹介などから構成され、洋楽、
邦楽を問わず様々なテーマが扱われている。
創刊号の表紙には「Die Musik」 の文字とともに、竪琴を
弾く女性が描かれてた。
音楽新報社は雑誌の発行だけでなく、1906(明治39)年
5月に「樂苑會」を興し、同年8月には上田敏、東儀季治らを
招いて音楽講演会を開催するなど多彩な活動を展開した。
中でも「樂苑會」の活動に事業の重点が置かれた。
1906(明治39)年の『音楽新報』第3巻6号の巻頭には
樂苑子の筆により、会の抱負として、
①従来の俗受けする音楽会を打破するために、趣味高尚なる
曲目を選び、その選択に当たっては音楽的価値を第一とすること、
②会費は低額に抑えて若者の参加を希望すること、
③オペラ上演は訳詞による西洋オペラと日本語による創作
オペラの2本立てとすること、
④日本古楽の保存および新楽の創作を行うこと、
などが記されている。
樂苑會の成立を知るためには、その母体である「音楽新報社」についてまず触れなけれfばならない。
音楽新報社は1904(明治37)年2 月、山田源一郎(1869-1927)とキリスト教伝道師で賛美歌と唱歌の普及を目指す酒井勝軍(1874-1940)によって創業され、2月23 日に月刊誌『音楽新報』を創刊した。雑誌発行に際して小松耕輔が編集人として呼ばれ、その後すぐに小林愛雄も同人として参加するようになった。
『音楽新報』創刊号の巻頭言は同誌発刊の主旨として、「理想的社会の要因たる音楽」の社会的地位および発言権の欠如に鑑みて、音楽活動の活発な推進を図るよう唱っている。
『音楽新報』は明治・大正期の音楽雑誌と同様に、紙面は論文、楽典、西洋音楽の紹介、音楽エッセー、音楽会評、音楽会案内、人物動向、新曲紹介などから構成され、洋楽、邦楽を問わず様々なテーマが扱われている。
創刊号の表紙にはDie Musik の文字とともに、竪琴を弾く女性が描かれ、それ以降も毎号ユーゲントシュティール風のデザインによる楽器をもつ女性像が表紙を飾っている。
音楽新報社は雑誌の発行だけでなく、1906(明治39)年5 月に樂苑會を興し、
また同年8 月には上田敏、東儀季治らを招いて音楽講演会を開催するなど多彩な活動を展開した。
中でも樂苑會の活動に音楽新報社の事業の重点が置かれた。1906(明治39)年の『音楽新報』第3 巻6 号の巻頭には樂苑子の筆により、会の抱負として、
従来の俗受けする音楽会を打破するために趣味高尚なる曲目を選び、その選択に当たっては音楽的価値を第一とすること、
会費は低額に抑えて若者の参加を希望すること、
オペラ上演は訳詞による西洋オペラと日本語による創作オペラの2本立てとすること、
日本古楽の保存および新楽の創作を行うこと、などが記されている。
樂苑會成立には、当時のヴァーグナー熱、坪内逍遙の「新樂劇論」発表、東京音楽学校による《オルフォイス》公演、《露営の夢》の創作などが少なからず影響を及ぼしたことだろう。
『音楽新報』は『音1908(明治41)年になると、山
「酒井勝軍」をネットで検索すると、3年前は50件ほどだったのが、6万件もアップされていた。最近にわかに注目され出したようだ。
「酒井勝軍」は明治6年(1894)の生まれ。アメリカに留学し、クリスチャンとなり、東京本郷に東京唱歌学校を設立して、賛美歌を通じてキリスト教の伝道を行っていた。高村光太郎の姉も通っていた。
ロシア語にも通じていたことと、「勝軍」という名前が乃木希典に気に入られ、日露戦争に従軍し、各国からの観戦武官の通訳を勤めた。その功により「ステッセルの」というピアノを下賜された。
五木寛之の「ステッセルのピアノ」という本によると、「ステッセルのピアノ」と云い伝えられるものは日本に数台あり、それはロシア、バルチック艦隊の艦長にそれぞれロシア皇帝から贈られてもので、日本海海戦で勝利した日本が戦利品として持ち帰ったものだった。
1927年(昭和2年)酒井はパレスチナやエジプトへ、ユダヤ研究のために軍から派遣された。エジプトではピラミッドも調査した。そして次第に「親ユダヤ」色を強め、「日本とユダヤ人は同祖」であると唱え、また日本にもピラミッドがあることを予言し、日本の各地でそれを発見してみせた。神の霊示を得て、その場所に行くと、まさしくそこに三角山があった。また、青森の「平来(へらい)村」にも行き、「へらい」は 「ヘブライ人」が来た場所。そこで発見した三角山こそ「キリストの墓」と主張して、話題をふりまいた。
「アルマゲドン(天魔両軍の最終決戦・日米戦争)の時が近づいているが、その時、神選民族ユダヤ人と天孫民族である日本人は勝利し、神州天子国が確立され、キリストの託身のである天皇が世界統治者として君臨する」という 神がかりな論を唱え、しばしば特高警察に捕らえられ、投獄されている。
ドイツと同盟を結んでいた日本としては「親ユダヤ」はまずかったのだろう。まして「ユダヤ人と天皇が同祖」というのは“不敬罪”であった。それでも、昭和15年に亡くなり、勲五等を授けられている。
私が小学校1,2年、昭和30年頃のことである。
音楽が全くダメな私を母は心配して、ピアノの先生が来ることとなった。
先生の名は万沢智慧さん。私はピアノがサッパリ上達せず、音楽がすっかり嫌いになってしまった。
それで洋楽に反発して尺八を始めたのである。尺八も上達するには人一倍時間がかかったが、昭和40年頃から尺八ブームが沸き起こり、洋楽系の作曲家によって、五線譜で次々と曲が作られた。そのころ、世に尺八家は五万といても、五線譜が読める人は少なかったから、私は作曲家の方々から創作曲の演奏を頼まれることが多くなった。それで今日がある。
さて、私のピアノの先生万沢智慧さんは、実は私の父の従妹だったが、父はなぜか万沢さんについて語ることはなかった。
その万沢さんの父親は「酒井勝軍(かつとき)」ということは聞いていた。「酒井勝軍」の本が二、三冊わが家の隠し戸棚の中にあって、子供の頃私はそれを見つけ出して読んだ。すると、父はなぜか「そんなもの読むな。キチガイの本だ」と言った。
「酒井勝軍」は、明治の時代にエジプト、中近東を旅して、帰国後「日本にもピラミッドがある」とか、「青森にキリストの墓がある」とか予言を立て、現地踏査で次々とそれらしき遺構を発見してみせた。そして「日本人とユダヤ人は道祖」という説を立てたが、「天皇家の祖はユダ人」というのが不敬罪になり投獄されたこともあったらしい。
それで、戦前はキチガイ扱いされていて、父も「酒井勝軍」には触れたくなかったようだ。
ところが、近年「日ユ道祖論」がにわかに脚光を浴び、「酒井勝軍」の本も出るようになった。
さて、万沢智慧さんが私の父の従妹ということは、私の祖父森次郎の姉か妹が酒井勝軍の妻ということになる。祖父は養子で、私の父が4歳の時に亡くなっているから、その出自は全く分からない。
酒井勝軍の一人娘だった「万沢智慧」さんは、NHKの専属ピア二スト万沢〇〇?氏と結婚した。そして二人の男児を産んだが、その夫も若くして亡くなる。それで生活は大変だったようだ。昨日NHKテレビで見た「フジコ・ヘミング」と境遇が重なる。
酒井勝軍はロシア語も堪能で、「勝軍」と云う名が縁起がいいと乃木稀介に見出され、日露戦争に従軍し、乃木稀介とステッセルとの会見で通訳を務め、ステッセルのピアノをもらった。と父から聞いた。
ところが五木寛之の「ステッセルのピアノ」によると、ステッセルのピアノと言い伝えられるものは数台あった。
バルチック艦隊のそれぞれの艦船にピアノが積んであったようで、それぞれ戦利品として日本にもたらされた。
そのうちの一台が、五木寛之の本では「行くへ不明」となっているが、それが酒井勝軍に下賜され、万沢家に伝わったものである。
五木寛之の調査もすごい。ステッセルのピアノの謎を解明すべく、ロシアとフランスに渡って、製造元や伝来の跡を克明に調べているのだ。五木氏に情報を提供しておけば良かった。
このブログをきっかけに、疎遠になっていた万沢氏から電話がはいり、「ステッセルのピアノ」のことを聞いてみた。
「両側に燭台があり、相当年代もので、漆も剥げ、ボロボロになっていて音も出ないので、引っ越す際処分してしまった」と、ザンネン。浜松の「楽器博物館」に同様のがいくつかあり、そこへ寄付すれば良かったのにと悔やまれる。
昨日のNHK「フジコ・ヘミング」でも、ドイツで購入して日本に持ち帰ったピアノを800万円かけて、今でも使っていると。
五木寛之の著作に『ステッセルのピアノ』というのがある。
五木寛之は、「ステッセルのピアノ」というのが、日本の各地にあることに疑問をもち、ロシアやフランスのピアノメーカーまで訪ねて、その真相に迫った。
「ステッセルのピアノ」と言い伝えられているものは、石川県の金沢学院をはじめ、水戸、旭川、遠軽、呉と、何箇所かにある。私も以前 テレビで「金沢のピアノが修復され、漆に金蒔絵まで施されて、演奏会が行われた」というニュースと、「旭川の修道院」に保管されていたというピアノを見た。その時、私の親戚の万沢家にも「ステッセルのピアノ」があったので、怪訝に思ったものである。
五木寛之はロシアの史料を丹念に調べて、バルチック艦隊出撃の際、ロシア皇帝より、各艦船の艦長にピアノが贈られていたことが判った。
日本海海戦で勝利した日本は、ロシアの艦船を拿捕して金沢や佐世保、横須賀に曳航してきた。そして、艦長室にあったピアノを戦利品として、ゆかりの人に下賜したのだった。
分捕ったピアノは8台あったが、五木寛之は「横須賀で降ろされた1台が行き先不明」と記している。調査が及ばなかったのであろう。五木氏が「ステッセルのピアノ」について調べているとわかっていれば、教えてあげればよかった。
その一台こそ、酒井勝軍の「東京唱歌学校」に下賜されていたのだ。
「竹内巨麿」が神代の昔から先祖代々伝えられたとする『竹内文書』を世に広めたのが「酒井勝軍(かつとき)」である。
「酒井勝軍」(1874~1940)は 山形県の生まれ。明治のはじめ、アメリカに渡り賛美歌を習い、キリスト教の宣教師となった。
語学堪能なため、1918年(大正7)大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に、当時、西欧を席巻していた「ユダヤ禍論」を知り、帰国後はユダヤ人とフリーメーソンの研究に没頭し 反ユダヤ論の論客として名を馳せた。
ところがその後、エジプトに行き、ピラミッドの調査や、パレスチナで古代イスラエルについて調べるうちに、「親ユダヤ」になり、「日本とユダヤは同祖」という「日ユ同祖論」を展開するようになる。
ついには、モーゼが神から授かったという「十戒」は、日本にまで運ばれ、日本国内に隠された。あるいは、「ピラミッドは日本の何処かにもあるはず」という仮説を立て、神の啓示と称して、次々とその場所を言い当て、予言を的中させた。
「酒井勝軍」は その探索旅行中、昭和4年、茨城県磯原の「天津教本部」を訪れて、「竹内巨麿」から「竹内文書」や「モーゼの十戒」を書き付けた「石」、「ピラミッド建造の由来書」などを見せられた。
その石には「アダムとイブ」「モーゼ」などの名前が書かれていたり、ムー大陸やアトランティス大陸の消滅を思わせる記述があったりで、酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。
最近、若手の琵琶奏者が増えてきています。しかし「琵琶の製作師」が二人しかいないとか。
以前は「石田琵琶店」のみだったのですが、そこで修行され、独立したのが、なんと「小椋佳」師の次男「神田宏司」さん。
「小椋佳」の息子が「神田」?。姓が違うやんけ。そうでした。
「小椋佳」の本名は「神田紘爾」。そして次男は「神田宏司」。
あれ、親子とも字は違うが「こうじ」で 読みは同じ。
次男の「宏司」さんは、中学生の時に「若年性脳梗塞」で倒れ、全身不随になり、リハビリで少しは体が動くようになりましたが、学校も辞めて、悶々とした青春時代を過ごします。
父の「小椋佳」が50歳の時、「一緒に琵琶を習わないか」と勧められ、「山下晴風」師に入門。そして琵琶の製作にも興味を示し、「石田琵琶店」で9年間修行を積んだとか。
父が息子に語った言葉。
「生きている上で必要なことが二つある。
生活の糧を自分で得ること。
誇りに思える仕事を見つけること」。
さて、これは偶然でしょうか、ネットで調べていたら、
元禄年間(1690頃)に“神田吉松”という琵琶製作師がいました。
小椋佳(本姓は神田)の先祖につながるのでは・・・・・
小椋佳の父親も琵琶の師範で、小椋佳は子供の頃から父親の琵琶を聴いて育ったと。
ついでに、紀州徳川家伝来の楽琵琶【千歳丸】は「山室小左衛門永斎」作。慶長の頃伊勢の住人とありました。
私の母方の姓が「山室」で、祖父の名は重信。私がネットオークションで手にいれた琵琶の銘は「重信」でした。そして重信の子(私の母の兄=私の叔父)「山室重遠・信朗」兄弟から私は尺八を習いました。なにか“気脈”を感じます。
「酒井勝軍(かつとき)」について「Wiki-Pedia」より
1874.3.15(明治7)~1940.7.6(昭和15)
山形生まれ。明治21年受洗。 1894東北学院に入学、
卒業後、1898渡米。シカゴ音楽大学、ムーディ聖書学院に学び、
1902(明治35)年 帰国。「東京唱歌学校」を設立。
神の賛美伝道に従事。
『うれしき鐘歌』『讃美論』『教育と音楽』などを刊行。
「讃美奨励会(のち日本讃美団)」を組織。
『讃美の友』誌、『クリスマス讃美歌』などを編刊。
日露戦争に各国からの観戦武官の接待役(通訳)として従軍した経験から、神政政治の樹立を強調。
大正13年月に異象を見て、日本が「神の秘蔵国」だと直観。「日猶(ユダヤ)主義」を唱える。
アルマゲドン(Armagedon、天魔両軍の最終決戦・日米戦争)が近づいているが、その時、「神選民族」ユダヤ人と「天孫民族」日本人が勝ち、神州天子国が確立され、再臨のキリストの託身「天皇」が世界統治者として君臨する、と主張。
『猶太(ユダヤ)人の世界征略運動』、『猶太(ユダヤ)民族の大陰謀』
昭和2年『神州天子国』を発刊。その多くは「発禁」となる。
皇軍のパレスチナ遠征を夢想。昭和15年歿す。勲五等。
墓標に「日本天皇の世界君臨を主張する」と刻む。
日本にもピラミッドがあったと主張し、日本各地でそれを発見してみせた。
彫刻家であり詩人の「高村 光太郎 1883年(明治16年) -1956年(昭和31年)」の『回想録』に、「酒井勝軍」の名が出てくる。
高村光太郎『回想録』
音楽は私もてんで駄目である。小学校の時に唱歌を教わって、帰って家で歌うと怒られた。そういう中で育ったせいか、曲そのものは解るし、音も頭の中に入っているが、声が出ないのである。だから小学校の時は、先生が弱ってオルガンを弾かせてやっと及第させた。
青年になってからも、本郷の中央会堂の椽たるきの下のところでやっていた「酒井勝軍」のもとに通ったりして、発声の稽古けいこなどしたが、私には 酒井勝軍も驚いた。
音は知っているが、それを出そうとすると 馬鹿に大きな変な声が出るものだから、酒井勝軍も弱って、君は後でやろうなどということになった。
姉も駄目なので、母は「この子は女のくせに三味線が弾けない」といって、変だと言っていた。そして細工物が好きで、画を描いたり、そんな方へばかり行って了うので、父が気がつき、西町に居た時に十歳前後で画を習わせ初めた。師匠は狩野寿信という人であったが、狩野派のやり方のよいことは、稽古の時に決して悪い材料を使わせないということである。
悪いものを使って描いていると上達しないことは事実だ。稽古だからと言って決して悪い材料を使わせないことは、確に立派な方法である。父はその為、貧乏な中に姉に与える材料を買うのに苦労した。姉は絵を習い出すと、めきめきうまくなって、師匠の言うことは眷々(けんけん)服膺(ふくよう)して、熱心に通った。実に師匠思いで、先生から貰ったものは紙一枚でも大切に蔵しまって記念にしていた。
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私(牧原一路)も歌はからっきしダメだった。絵の方が得意だった。
また「道具は、稽古だからといって悪いものを使っていては上達しない」というのも同感である。
竹製の本物の尺八が “たけぇ” からといって、安い練習管やエスロンの尺八で初めた人で上手になった弟子はいない。
長続きする人は、最初に数十万の尺八を買った人だ。
私は最初、1,000円の「外国人向けおみやげ品」のような、形だけが尺八で音律もメチャクチャなヤツだった。それのおかげで、10年 無駄にした。
まともな尺八で10年も稽古すれば「師範」になれたのだ。