現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

6/25 龍馬を斬った男・今井信郎の命日

2021-06-25 11:26:43 | 虚無僧日記

今井 信郎(いまい のぶお) 天保12(1841)年~大正7(1918)年6月25日

27歳の時、剣の腕前を買われて見回組入隊を命ぜられ、慶応3年10月に上洛。その1か月後の11月15日近江屋を急襲し、坂本龍馬暗殺に加わった。その後、函館戦争まで加わり、捕らえられ、投獄される。

明治3年(1870年)取り調べを受けた際、今井は「龍馬暗殺には見張り役で、直接手は下していない」と証言。禁固刑の判決を受け、明治5年(1872年)1月に赦免された。その赦免には西郷隆盛の力があったとのこと。

明治10年の西南の役では、警察隊を率いて鹿児島に向かい、政府に寝返って西郷に加勢する計画だったとのこと。西下途中戦争が終結したことで断念し、静岡に戻った。

このことから、「坂本龍馬暗殺を指示した黒幕は西郷隆盛ではなかったか」との説も出る。

明治11年(1878年)、旧幕臣による大井川南方の牧之原一帯の開墾に従事。榛原郡の農事会会長に就任した。明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、明治34年(1901年)までの20年間、会長職を勤めた。明治34年(1901年)、学務委員就任、入植地の初倉尋常小学校の教育に関わった。明治22年(1889年)より3回、村会議員に当選、明治39年(1906年)から3年間、初倉村長を勤めた。

そして最晩年になって、「坂本龍馬を斬ったのは自分である」と明らかにした。その他、今井信郎の妻「イワ」の証言、見回り組隊長佐々木只三郎の兄「手代木直右衛門」が臨終に際して語った証言で、今井信郎が龍馬を斬ったことは疑いない。

今井信郎の当初の証言は「龍馬暗殺の実行犯は佐々木只三郎をリーダーとする京都見廻組の7名。襲撃したのは三名で、佐々木只三郎、今井信郎ら四名は見張りを行っていた」と。その三名は鳥羽伏見で戦死しており、責任が他に及ばないようにする保身の内容だった。

明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者和田天華の質問に対し、今井が語った内容。

1 暗殺ではない。公務であった。幕府(京都守護職)の命令に依り、職務を以って捕縛に向かい、格闘したるなり。

2 新選組は関係していない。自分は「京都見回組」の与力であった。

3 坂本龍馬は、伏見寺田屋で同心3名を銃撃し、逸走したる罪の為なり。

4 場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり 


6/25 宮城道雄の命日「浜木綿忌」

2021-06-25 09:30:21 | 筝尺八演奏家

今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日浜木綿(はまゆう)」。

「浜木綿」は宮城道雄の遺作となった曲名。それを記念しての命名。

宮城道雄は、紀州の実業家・小竹林二氏と親交があり、たびたび白浜を訪れていた。そして白浜に因んだ「浜木綿」という詩を作り、自ら曲をつけた。

温泉の匂ひほのぼのと
もとおりきたる鉛山の
これの小径いくめぐり
今平草原にわれはたたずむ
かぐわしき黒潮のいぶき
妙なる浜木綿の花のかおり
うずいして一握の砂を掌に掬べば
思いはかの千畳敷三段壁
はては水や空なる微茫の彼方につらなる
ああ常春のうるわしき楽土よ
時に虚空にあって聡に鳶の笛澄む
朝もよし木の国の白良浜やこれ

宮城道雄 自ら作詩、作曲した曲はこの「浜木綿」が唯一。

昭和31年(1956)6月4日、「宮城道雄先生詩碑」が完成し、その除幕式が行われ、「祝賀記念演奏会」が白良浜ホールで行われた。

この像については、大変不評であった。

宮城道雄氏は、ふだんのしぐさは建常人と同じで、盲人と思わせなかったという。

昭和31年6月4日、この像の除幕式に、宮城道雄と姪の喜代子、数江も列席した。幕を引いて現れたのは、等身大の宮城道雄?の像。眉をゆがめ、壁を探すように手を差し伸べている。いかにも盲人とわかる像に、喜代子、数江は不快感を顕わにした。

「宮城先生は、歩かれる時も普通の人と同じです。こんなぶざまな格好はしません!」と、作り変えを要求したそうな。

それでか、宮城道雄 没後40年たって、平成5年9月、詩碑のそばに宮城道雄の胸像が建てられた。

白浜での公演の20日後、宮城道雄は再び東海道線に乗って関西に向かった。
そして、6月25日、刈谷駅手前で、列車から転落して亡くなった。
いかに盲人とはいえ、列車のデッキのドアとトイレのドアとを間違えるはずはない。というのが事故説を否定する理由のひとつ。
さすれば、自殺か他殺か!