現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

6/24 美空ひばりの命日 林檎忌 麦の日

2021-06-23 13:46:17 | 虚無僧日記

6月24日は「麦の日」???

麦畑にはヒバリが巣をつくりピーチクパーチク。ヒバリといえば「美空ひばり」。

つまり「美空ひばり」から「麦の日」だそうだ。

そして「林檎忌」とも。「リンゴの木」ではなく、美空ひばりのヒット曲「リンゴ追分」から「林檎忌」だそうです。

美空ひばりは、

1937年(昭和12年)5月29日、神奈川横浜市磯子区に生まれる。本名は加藤和枝(かとう かずえ)。

1946年(昭和21年)の9歳から劇場に出演、1948年(昭和23年)に歌手デビュー、「天才少女歌手」として評判となる。翌1949年(昭和24年)、映画『踊る竜宮城』に出演し、その主題歌『河童ブギウギ』でレコードデビューを果たす。

『悲しき口笛』(1949年)、『東京キッド』(1950年)など主演映画とその主題歌が次々にヒット。1952年(昭和27年)映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』では当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる。

1954年(昭和29年)、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場。江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」として人気を博す。その後、熱狂的なファンの少女に塩酸をかけられるなど、不運の時期を経て、「歌謡界の女王」と称される存在となる。

52歳で死去。女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞。

全作品は1000曲以上に及び、その他の代表曲に『哀愁波止場』(1960年)、『柔』(1964年)、『悲しい酒』(1966年)、『川の流れのように』(1989年)などがある。

 

 

 


6/23 沖縄戦終結の日

2021-06-23 04:03:37 | 虚無僧日記

今日6月23日は 昭和20年(1945) 沖縄守備軍司令官牛島満が自決し(前日22日との説もあり)、沖縄戦が終結した。

以前、知人から「今なお、屍とともに生きる沖縄戦、嘉数高地から糸数アブラチガマへ日比野勝広」という本をいただいた。(発行:夢企画大地 名古屋市東区 052-712-0706 )



内容は、沖縄戦で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされ、沖縄戦が終わってからも3か月も暗闇の中にとじこめられながら奇跡的に助かった日比野勝広さんの回顧録だが、4人の娘さんたちがそれぞれに戦後の父の生き様を書き綴っている。
娘たちの視点で書かれているということが、話題になって、TVでもとりあげられた。わずか140ページ。ぐいぐい引き込まれてイッキに読んだ。

日比野さんは沖縄線で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされた。

暗闇の中で半年、日比野さんが救出されたのは9月。死体と汚物と蛆。言語に絶する壮絶な地獄から奇跡的に生き残った日比野さんは、戦後全国各地の戦友の遺族を訪ね、友の最期の様子を伝えようとするが、遺族からは
「なぜあなただけ助かったのか」と責めたてられる。
「逃げたのではない、置き去りにされたのだ」という心の葛藤に苦しめられる。

そして2009年亡くなるまで110回以上も沖縄を訪れ、各地の戦跡を回って戦没者の慰霊を続けてきた。

 

戦後60余年を経てもまだ夜の闇をこわがり、寝る時も電灯をつけたまま。それでも夜中に「お~い、お~い」と叫び声をあげ、夢にうなされる父親の姿を見て育ってきた娘4人。それぞれの父への思いが また感動を呼ぶ。

昭和39年東京オリンピック、「もう戦後は終わった」と叫び、国旗日の丸」を掲げようという愛国運動が起きる。町内回覧で国旗の斡旋があったが、日比野家だけは買わなかった。
「うちは貧乏で買えないのだ」と思い続けていた四女。後になって母から「日の丸を振って送り出した人が みな帰ってこなかった。だから日の丸を見ると悲しくなる」と聞かされる。母には、父との結婚前に婚約者がいたのだ。その人を日の丸の旗を振って送り出した。そして帰らぬ人となったのだった。

糸数アブラチガマ

全長270mのこのガマ(自然洞窟)は日本軍の地下陣地となり、戦況が悪化すると南風原陸軍病院の分室として使用された。およそ600名の負傷兵が運び込まれ、軍医、看護婦とともにひめゆり学徒が看護にあたった。その後、5月25日に撤退命令が出されると、破傷風や脳症に苦しむ重症患者が置き去りにされ、空気穴から入ってくるひと筋の光に生きる希望をつなげ、45人の住民と7人の負傷兵が奇跡的に生き抜いた。日比野さんはその一人。