現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

6/20 名古屋テレビ塔が開業した日

2021-06-19 20:41:21 | 虚無僧日記

今日6月20日は、1954年(昭和29) 名古屋テレビ塔が開業した日。

名古屋テレビ塔は、名古屋市の中心街、中区栄の久屋大通り公園内に立つ日本で最初の集約電波塔。高さ180m。

東京タワーができたのは4年後の1958年、さっぽろテレビ塔はその前年の1957年。

因みに、パリのエッフェル塔は1889年3月30日竣工で、高さ324m。

東京タワーの高さは333m。札幌テレビ塔は147m

名古屋テレビ塔の建設がスタートしたのは、昭和28(1953)年の9月19日。

まだ大型重機など無い時代。工事はすべて人間の労力。ツルハシとスコップで土台を築き、鉄骨材は人力で積み上げられたという。

そして翌年の昭和29(1954)の6月19日に竣工だから、わずか9か月で建てられた。

これは驚異的。

 

開業以来、NHK名古屋放送局総合3ch・Eテレ9ch)、CBCテレビ(5ch)、東海テレビ放送(1ch)、名古屋テレビ放送(メーテレ。11ch)のVHF4局5波がここから地上アナログテレビの電波を送信していたが、2011年7月24日にアナログ放送が終了したため、現在は電波塔としての役目は終了した。

デジタル放送は瀬戸市にある瀬戸デジタルタワーから送信されている。

そして、名古屋の中心部・栄のシンボル『名古屋テレビ塔』としてリニューアルし、ホテルやレストランがはいり、今年(2021年)5月1日より新名称「中部電力 MIRAI TOWER」として新たにスタートした。

THE TOWER HOTEL NAGOYA(ザ・タワーホテル ナゴヤ)』が入居。

 世界初? タワーの中のホテル

 

 


6/17 保科正之が生まれた日

2021-06-19 20:41:02 | 虚無僧日記

今日は何の日、6月17日は会津藩祖「保科正之」が生まれた日。

保科正之が生まれたのは、慶長16年(1611)5月7日だが、グレゴリオ暦だと6月17日。

亡くなったのは寛文12年12月18日。これは1673年の2月4日。(私の誕生日でござる)。

徳川2代将軍秀忠は、正室が織田信長の妹「お市の方」の三女「お江」。NHK大河ドラマでも取り上げられた。それゆえ、秀忠は恐妻家でお江に頭が上がらなかった。しかし、乳母大姥局の侍女「お静(志津)」に手をつけ 懐妊させてしまった。

お静は懐妊すると宿下がりして兄の家で男児を産み、幕府に届け出たが、正室お江にバレることを恐れ、その子は武田信玄の次女見性院に預けられた。名前は「幸松」。
見性院は武田信玄の次女で武田一族の穴山梅雪(信君)の妻。穴山梅雪は織田・徳川連合軍が甲斐の武田勝頼を攻めた時、徳川に寝返り、勝頼滅亡後、家康とともに安土に参上。堺見物中に本能寺の変が起こり、家康と別行動で東帰の途中、賊に襲われて果てた。それで、見性院は家康・秀忠に庇護されて、江戸城田安門内に屋敷を与えられて住んでいた。

そして、幸松丸は元和3年(1617) 信濃・高遠の保科正光に預けられる。一般的には、見性院が武田の旧家臣だった保科を頼ったいわれているが、見落とされている事実があった。

秀忠が隠し子の正之を 預けた先が、なぜ保科正光だったのか?

実は、正光の父正直の室は、家康の妹、秀忠にとっては叔母の多劫姫だったのである。

寛永6年(1629年)6月、正之は兄の3代将軍徳川家光と初対面。

寛永8年(1631年)11月、幕府より幸松に「出府せよ」との命令が下り、重臣5名と出府、土井利勝井上正就同席の上、「幸松儀、肥後守・信州高遠藩3万石相続仰せつけられる」と上意があり、秀忠の命で幸松は、保科肥後守正之と名を改め、高遠藩藩主となった。


会津藩祖保科正之と見性院(詳細)

2021-06-19 20:40:45 | 会津藩のこと

武田信玄の次女で穴山梅雪夫人「見性院」は、家康により、江戸城 田安門 内の北の丸、比丘尼屋敷に住居を与えられ、武蔵国 大牧(おおまき)村(さいたま市緑区)に3百石を与えられていた。

さて、徳川2代将軍秀忠は、信長の妹お市の娘で年上の正室「お江」に頭が上がらぬ恐妻家だった。それが、乳母の下女に手をつけ、懐妊させてしまう。

その下女の名は「志津(静)」。父は、神尾栄加といい、北条氏直の家臣であった。氏直は小田原北条氏の最後の当主。母は武田信玄の娘「黄梅院」。天正10年6月4日の本能寺の変後、信濃・甲斐の領有をめぐって家康と対峙し、8月、家康の娘「(ごう)」を妻に迎えることで和睦する。

それから8年後の天正18年。北条氏は秀吉に攻められて滅亡する。ところが、「氏直」は 家康の娘婿であったため、命を助けられ、高野山に幽閉されるが、3年後に亡くなる。

北条氏の後、秀吉の命で関東に移封してきたのが、家康である。
秀吉としては、北条の残党が7万人も残る関東の支配は至難であり、家康の自滅をもくろんだのであろうが、家康は、よく彼らを懐柔した。帰農もせず、商人にもなれず、尺八しか能の無い者が虚無僧として生きることをも許したのである。

そんな事情であるから、北条の遺臣の娘が、2代将軍秀忠の乳母の下女として奉公していたのもうなづける。

志津は天正12年(1584)小田原で生れた。天正18年(1590)北条氏の敗北で、父は浪人し、一家で江戸に出てきた。志津は将軍秀忠の乳母「大乳母(おうば)殿」の下女として働いていたところ、秀忠の眼にとまり、寵愛を受け懐妊した。

将軍秀忠の御台所「お江の方」の目を怖れて、志津は、神田白銀町の姉婿 竹村助兵衛次俊方に身を寄せた。そして、信玄の六女「信松尼」に保護されるようになった。その経緯は不明である。

慶長16年5月7日(1611)、無事に男児を出産。翌日竹村助兵衛は南町奉行に届け出、奉行所から老中土井利勝伝えられた。翌朝利勝秀忠に報告、秀忠は「幸松」と名づけ、葵の紋服を 利勝に手渡し「穏便に養育するように」言ったという。

幸松は 竹村助兵衛の家で育てられたが、「お江の方」が 詮索しているという噂が流れた。志津は「大乳母殿」に訴え、「大乳母殿」は 土井利勝に相談した。

 慶長18年3月1日(1613)、老中土井利勝と本多正信が比丘尼屋敷の「見性院」を訪ね、幸松の養育を依頼した。

翌3月2日、見性院は 家来の有泉重治と野崎太左衛門を迎えに遣わし、志津と「幸松」を 江戸城北の丸の比丘尼屋敷に連れてきた。

「お江の方」は幸松が見性院に預けられたのを知り、使いを送って責めた。見性院は「預かっているのではない、養子に頂いたのだ」とはねつけた。見性院は「幸松君」を養子にして武田家の再興を考えていたのかも知れない。

見性院の許で育てられた幸松は、元和3年11月8日(1617)母志津、万沢権九郎、野崎太左衛門、神尾左門(志津の甥)、有泉金弥、それに女中4人と比丘尼屋敷を出、信州高遠城に移り、保科正光の養子となった。

保科氏は信州の名家で、保科正俊は 高遠頼継に従っていたが、後 武田信玄に従い、さらに正俊の子の「正直」は 織田信長に従った。

保科正直は 「本能寺の変」で旧武田領内を支配していた信長の家臣達が支配者を失って騒然としている混乱に乗じて、高遠を占拠して、家康に臣従を誓い 所領安堵された。

正直の子が「保科正光」である。「幸松」を 保科正光の所にやったのは、見性院と保科正光が親しかったためで、見性院は老中土井利勝に相談、秀忠の内聞を得て決定した。

幸松が高遠に入った翌年、幸松の養育費として 信州筑摩郡洗馬郷(塩尻市周辺)5千石が 加増となり、高遠藩は 3万石となった。

「幸松」は寛永6年6月24日(1629)18歳の時、正光に従って江戸に出府し、前将軍秀忠に初めてお目見えしたが、父子の名乗りは なかった。秀忠は 正室「お江」の手前、死ぬまで 幸松を実子であるとは 公的には認めなかった。
NHK大河ドラマ「お江」では、この時、お江とも会ったことにしている。

寛永8年10月7日(1631)、保科正光が亡くなり、「幸松」が高遠藩3万石を継ぐこととなり、元服して名を「正之」と改めた。

寛永13年7月21日(1636)、保科正之は 出羽国最上(山形市)20万石に転封になり、7年後の寛永20年7月4日(1643)には 会津23万石に転封になった。

保科正光には、実は、幸松の前に、すでに一人養子を入れていた。
自分の弟「保科正貞」である。正貞の母は家康の異父妹「多劫姫」。将軍の落胤である「幸松」が入ってきたため、「正貞」は、元和8年(1622)正光の許を去り、母方の叔父である伊勢長嶋の松平定勝に寄食していた。

寛永14年(1637)、将軍家光の意向により、保科正之の所有していた保科家伝来の重宝は、すべて正貞に譲られた。このことは保科家の名跡は正貞が継ぐということを意味していた。正貞は慶安元年(1648)、1万7千石の大名として取り立てられ、上総野藩保科家が創設された。この飯野藩が、保科の正当嫡流となり、幕末まで、会津藩と いろいろ関係が続くのである。

3代将軍となった家光は、公式には名乗らなかったが「保科正之」を、弟として遇し、重用した。慶安4年4月22日(1651)、家光は最期の時に 正之を呼び、「大納言(家綱)は幼少ゆえ、くれぐれも後のことを頼むぞ」と,後事を託したという。

見性院は、幸松を手放して5年後の元和8年5月9日(1622)、田安の比丘尼屋敷で亡くなった。79歳という。


家康の義妹「多劫(たけ)姫」とは

2021-06-19 20:06:34 | 会津藩のこと

多劫姫」(たけひめ)とは?

母は於大の方。 於大は、初め「松平広忠」に嫁ぎ「竹千代(後の徳川家康)」を

生んだが、離縁させられて「久松俊勝」に再嫁した。そして生んだのが多劫姫

多劫姫は家康の異父妹となる。

多劫姫は、最初、桜井松平家松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく

忠正が亡くなったため、その弟の松平忠吉と再婚し、信吉忠頼の二人の子をもうける。

 

桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、

代々短命で、忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は広。その後は忠頼が継ぐが、

忠頼も27歳で旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、

浜松の城主だった松平忠頼の家臣だったが、忠頼の落命でお家断絶。その後

浜松の藩主となった水野重仲に召抱えられた。

 

さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室となるのである。三度目の夫。

保科正直には先妻との間に「正光」がいた。

多劫姫は正直に再々嫁して、「正貞」を産む。母親違いの兄「正光」には

子がなったため、「正貞」を世継としていた。そこへ二代将軍秀忠から

正之」を押し付けられる。

 

秀忠が隠し子の正之を 預けた先が なぜ保科正光だったのか?

多くの書籍では、「武田信玄の娘見性院が、旧武田の属臣であった保科正光に預けた。(信州の片田舎、高遠であれば目立たない)」というような論調であるが、見過ごしていた。その時の正光の母は、家康の妹、ということは秀忠にとって叔母の多劫姫だったのである。つまり秀忠は保科正光というより叔母の多劫姫に預けたのだった。これなら理解できる。

さてそれで、多劫姫の生んだ子「正貞」(正光とは母違いの弟)は気の毒にも、出奔して放浪し一時は桑名にいた。後、正之が会津藩主となると、正之は兄「正貞」を立てて「保科本家」として遇する。といっても元々高遠保科は一万石の小藩だったのだから、房総の飯野に陣屋を置く程度で江戸詰めの大名だった。

だが、この飯野保科家と会津は幕末まで深いつながりを持つ。

ペリー来航で会津藩が房総の警備に当たった時は、飯野陣屋に世話になる。

また、容保の義姉「照姫」は飯野保科の出。そして会津戦争の責任を

負わされて、萱野権兵衛長修が切腹した場所が、保科家の江戸藩邸。

これは偶然ではない。明治政府も、よくぞ遡って会津と飯野との

つながりを知っていたものと感心する。

千葉県房総半島の飯野保科家の祖となった保科正貞

 


多劫姫と保科正貞の不思議な縁

2021-06-19 20:06:03 | 会津藩のこと

多劫姫(たけひめ、天文22年(1553年) - 元和4年(1618年))は、久松俊勝の娘。                                       

母は於大の方で、松平広忠に嫁ぎ竹千代(後の徳川家康)を生んだが、離縁させられて

久松俊勝に再嫁した。つまり、多劫姫は家康の異父妹となる。

多劫姫は、最初、桜井松平家の松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく忠正が亡くなったため、

忠正の弟の松平忠吉と再婚し、信吉と忠頼の二人の子をもうける。

桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、代々短命で、忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は家広、その後は忠頼が継ぐが、忠頼も27歳で旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、この松平忠頼の家臣だったが、忠頼の落命でお家断絶。一時浪人となっていた。

さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室となるのであるのであるが、

なぜ、信州の国人保科正直に嫁いだのか、疑問に思っていた。

すると、名古屋市の東、安城市に「保科屋敷」跡があることを知って、謎が解けた。

 

保科正直は信州高遠の国人で武田に臣従していた。信長の武田攻めで高遠を追われ、弟の正俊(武田重臣の内藤家に養子となっていた)を頼って、群馬に逃れる。まもなく武田勝頼が滅びると、小田原北条氏の後ろ盾で高遠を奪還する

しかし、その後、信州は家康が支配するところとなり、家康に臣従したため、北条方に人質として置いてきた妻(跡部氏の女)は殺されたという。長男の「正光」は、武田勝頼の下に人質として置かれていたが、井深氏(ソニーの井深大氏の祖)によって救出され、高遠に戻った。

さて、武田滅亡後の信州は大混乱に陥り、保科正直と正光父子は家康を頼って三河安城に来ていたのである。家康は、妻(跡部氏娘)を殺された保科正直を哀れんで、多劫姫と再婚させたのであった。

そして、太閤秀吉の小田原北条攻めには、保科正直・正光父子は家康に従って関東に赴く。正直としては妻を、正光にとっては母を殺された恨みもあったろう。

小田原北条の当主「氏直」の室は家康の娘「督姫」である。氏直は家康の嘆願により死を減ぜられ高野山に幽閉される。小田原は無血開城したが、関東一円の城は北条方であり、忍城(現埼玉県行田市)などは、最後まで抵抗して戦った。

そのひとつに房総(現千葉県山武市)に山室城があった私の母方の祖である。

その山室一族は「保科正直・正光」父子に攻められて滅ぼされた。

当主以下多くが討ち死にしたが、家康は北条方の残党に対しても寛大であった。

一族の「山室丹後守」は、この時、保科正光に仕える。保科正直・正光はその後10年間、房総の多古一万石の城主となっていたのである。

そして、1600年の関が原の時、東軍について浜松城を守り、その功で旧領の高遠に2万5千石で戻るのであった。

そして私の母方の祖は、信州高遠に行くのであった。その後会津へ・・・

 


多劫姫のつづき

2021-06-19 20:05:25 | 会津藩のこと

家康の異父同母の妹「多劫姫」は、保科正直との間に 保科正貞北条氏重

大涼院黒田長政継室)、清元院(安部信盛室)、貞松院小出吉英室)、

高運院(加藤明成室)の二男四女を儲け、元和年(1618年)、死去した。

 

長男 保科正直は保科本家として房総飯野藩一万石で残る。

次男 氏重は、小田原北条氏の一族北条氏勝の養子となって北条家を再興する。男子なく絶家するが、その娘が生んだ子が「大岡越前守忠相」。

 

末娘は加藤明成の室。これも驚き。

保科正之が会津に移封されたとき、会津の前藩主は「加藤明成」である。

加藤明成は、伊予松山から会津40万石の太守となった加藤嘉明の子。

ちなみに、加藤嘉明は三河の出、諸国流浪の末秀吉に仕え、加藤清正とともに賤ケ岳七本槍の一人として名を馳せた。加藤清正とは同姓だが、別家。

その子明成は家老「堀主水」の出奔という失政をとがめられて改易された。三代将軍家光が東北の伊達、上杉等外様大名の抑えとして会津に弟の保科正之を派置するために無理無理改易させられた感もある。

その明成の夫人が、多劫姫の産んだ高運院。保科正之の叔母になる。

それもあってか、正之は、加藤家の家臣を多く召抱え、重用している。

萱野権兵衛もその一人。元は四国松山の出で、加藤嘉明に就いて会津まで来、

その後保科家でも奉行格で召抱えられた。幕末には家老に取り立てられている。

 

尚、私は「加藤嘉明時代の家臣禄」所持しています。

どなたか、必要な方に お譲りしたい。

 

 


6/14 明智光秀の最期

2021-06-19 09:33:51 | 虚無僧日記

天正10年(1582年)6月13日は山崎の合戦。明智光秀の最期。

6月2日の本能寺の変で織田信長を討った後、明智光は坂本城に入り、6月5日には安土城に入って信長が貯蔵した金銀財宝を開放し、9日には朝廷に銀500枚、京都五山大徳寺に銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った

備中高松城攻の最中にいた羽柴秀吉は、本能寺の変を知って、急遽、毛利氏と和睦し、山陽道を大返し。変から11日後の6月13日(1582年7月2日天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で明智軍と対峙。

ただし、秀吉とその配下の本体は疲れ果てて、山崎で休息しており、高山右近と池田恒興らが光秀の重臣斎藤利三を包囲し、勝敗が決したとも。

13日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りに襲われ、小栗栖村の長兵衛という百姓に槍で衝かれたとされる。

光秀のものとされる首は、翌14日本能寺でさらされた。その後17日、斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)さらされた。

ただし、「明智光秀の首」として届けられたものはいくつもあり、小栗栖村の長兵衛に渡された報奨金も少なかったことから、これも偽首だったか。それで光秀の生存説が多く存在している。