現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

形原温泉「あじさいの里」へ

2021-06-20 22:52:17 | 虚無僧日記

愛知県の三河湾岸、蒲郡市の西にある形原温泉「あじさいの里」。

約5万株の紫陽花(アジサイ)が咲き誇っているとのことで行ってきた。

形原は「牧原姓」が100軒以上あるとのことで、以前二度ほど訪ねたが、その時は「あじさいの里」など知らなかった。

そして、今日行ってびっくり。紫陽花の種類の多い事。

「あじさい」は日本原産だが、シーボルトによってヨーロッパに持ち出され、その種類は2000種にもなるという。

一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われているが、同じ所に赤と青が同時に咲いているのはどう説明できるのだろうか。

 

 


6月21日 夏至

2021-06-20 22:20:17 | 虚無僧日記

今日は何の日 今日6月21日は「夏至(げし)」。日の出から日の入りまでの時間がもっとも長い日。

名古屋の日の出は午前4時38分 日の入りは19時10分。

4時頃から明るくなり、夜7時20分頃まで明るい。

私はいつも通り4時に起床。5時からの朝起き会の演談原稿を作成

5時からZoomで朝起き会スタート。

6時から那古野神社の清掃。6時半からラジオ体操

7時ラジオ体操仲間と喫茶店でモーニング

8時半帰宅。

 


今日6月21日は旧暦の6月2日

2021-06-20 21:14:00 | 虚無僧日記

今日6月21日は旧暦の6月2日。本能寺の変があった日

この事件で命を落とした人

織田信長

織田信忠 (信長の長男。二条城で落命)

織田勝長   (信長の4? 5? 男)

織田長利 (信長の末弟)

森成利(蘭丸) (森 可成 三男)

森長隆(坊丸) ( 森可成 四男)

森長氏(力丸) ( 森可成 五男)

斎藤利治            斎藤道三の末子 明智方で信長を討った斎藤利三とは別家

毛利新介   永禄3年(1560) 桶狭間の戦いで今川義元を打ち取った

服部小藤太  桶狭間で今川義元に一番槍をつけた服部小平太の弟

 

穴山梅雪   武田家一門衆、妻は信玄の次女・見性院 

天正9年(1581年)12月、勝頼の寵臣・長坂長閑跡部勝資らを憎み、織田信長に内通し

天正10年(1582年)2月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して、甲斐一国の拝領と武田氏の名跡継承を条件に、家康の誘いに乗り、武田から離反した。

同年5月には信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、安土城で信長に謁見。その後、堺遊覧の途次、6月2日本能寺の変を知り、家康と共に畿内を脱しようとするが、宇治田原で郷民一揆の襲撃を受けて殺される。

家康は無事三河岡崎に帰りついたが、家康と別行動をとった理由は、「家康を疑ったから」とも。

家康は、穴山氏に武田家を再興させる約束を果たすべく、妻の見性院を江戸城内に住まわせた。二代将軍秀忠の落胤「幸松君」を預かったのも「養子にして武田家を継がせる」という思惑があったもよう。

 


6/2 本能寺の変 織田信長の最期

2021-06-20 21:12:18 | 虚無僧日記

今日6月21日は旧暦の6月2日、ということで、再掲です。

 

6月2日は、天正10年(1582年6月21日本能寺の変。

明智光秀が織田信長を弑した日。信長の嫡男・織田信忠も攻められ、自刃して果てた。

 

明智光秀が織田信長を弑した日。信長の嫡男・織田信忠も攻められ、自刃して果てた。

信長は、3月11日に武田勝頼を討ち、4月10日に甲府を立ち、富士の裾野を回って4月12日、駿河興国寺城(静岡県沼津市根古屋/国の史跡)で北条氏政の接待を受け、江尻城(静岡市清水区江尻町/本丸跡=清水江尻小学校)を経て4月14日、田中城に入城。4月16日に浜松城。浜松からは船で吉田城(現・愛知県豊橋市)に至り、4月19日に清洲城。4月21日に安土城へ帰城。

5月15日より3日間、安土城で徳川家康と武田一族の穴山梅雪ら一行をもてなした。その接待役が明智光秀だったが、17日、備中高松城攻めの羽柴秀吉から援軍要請の手紙が届いたため、信長は光秀に出陣を命じる。そこで光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた

 

6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。『川角太閤記』によれば「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、「中国出陣の準備ができたか、信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時頃出発した。

6月2日未明、桂川に到達。戦闘準備にはいる。家臣には目的を知らせず、ある者は「家康を討つ」のかと思っていたという。

ドラマでは明智光秀自ら本能寺を襲ったと描かれているが、斎藤利三明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8km南の鳥羽に控えていたとされる。

戦後、明智勢は信長の遺体を探したが見つからなかった。

 

阿弥陀寺上立売通大宮)の記録によると、大事を聞きつけた玉誉清玉上人が本能寺に駆けつけ、裏手の墓地で信長の遺骸を火葬しようとしている武士の一団に遭遇、上人らは信長の遺灰を法衣に詰めて運び出し、阿弥陀寺は後に廃寺となりも、寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。