現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

尾瀬での戊辰戦争にわが先祖の名

2021-06-14 19:30:39 | 虚無僧日記

蜂谷 緑『尾瀬ハイキング』岩波ジュニア新書77 」

蜂谷緑は実は私の妻の叔母(義父の妹)。山が好きで日本山岳会会員。エッセイスト。この本の中で

戊辰戦争の時、尾瀬でも、会津藩と官軍の戦いがあったことが書かれていました。

本文から抜粋

群馬県側から尾瀬にはいる玄関口  戸倉。江戸時代 関所があり、官軍はここに砲台を築き、古仲の大圓寺を本営として、100名ほどが戸倉に陣を張りました。会津軍は土地の事情に詳しい猟師たちを案内に立て、一隊は荷鞍山(にくらやま)から戸倉の背後を突き、一手は古仲の本営を襲ったのです。戦の始まったのは戊辰(明治元年)5月21日。村は春蚕のさなか、ネコの手も借りたいほどの繁忙期。この戦いで村は数棟を残したのみで皆焼き払われたといいます。

 

私も父も尾瀬で戦いがあったことは知らなかった。これを読んで、我が家の先祖もここに居たような気がして、ネットで検索してみた。すると、なんと尾瀬を守る隊長が「牧原文吾」でした。

牧原文吾」は、「会津藩を脱藩して、松井九郎と改名し、佐々木只三郎の見回り組に所属し、鳥羽伏見で戦い、大鳥圭介に従って、北関東、宇都宮、日光、そして尾瀬の戸の倉で戦い、会津開城後は、函館まで行き行くへ不明」となっています。

それが『天極記』に「別伝習隊、松井九郎、元会津藩士、牧原文吾」として、名前が載っていることが判りました。


「戊辰戦争で、上州の宇都宮、足利等の諸藩は官軍側に付き、尾瀬を越えて会津に攻め入ろうとした。
そこで、幕府別伝習隊が、松井九郎(牧原文吾)を隊長として、桧枝岐から尾瀬に向かい、戸倉の戦いで、官軍を撃退した。

しかし 会津より帰藩命令がきて、松井九郎(牧原文吾)は会津に戻り8月24日、会津若松城下七日町で 敵の陣中に斬り入り、戦死した」とありました。

8月24日は、前日に官軍が若松城内に侵入し、白虎隊が自刃した日の翌日。

なんとも、不思議な気がする。父は「尾瀬林業」に勤めていたが、このことは知らなかった。そして、私は、妻の叔母から「尾瀬でも戦いがあった」ことを知って、なぜか先祖のことが頭に浮かんだ。

ところが、ネットで検索すると「行くへ不明で 墓も無い」はずの「牧原文吾」の墓が載っていました。

しかし、大窪山墓地にある墓の写真には「直義」とあるのみ。その説明文に

 

「牧原文吾は、勘太夫の弟。別名を松井九郎。十石三人扶持。一ノ寄合。歩兵頭?。慶応四年(1868)八月二十三日、戸ノ口原(大野原とも)にて戦死。三十四歳」と。

誰がどのようにして調べたのか、根拠は不明。

「直義」とは亡くなってからの諱名。牧原一族は皆「直」の字をつける。その「直義」は二人いる。

8月23日戸ノ口原強清水で戦死(自決)したのは「牧原奇平直義」である。そして、奇平に従って出陣し負傷したことで生き残った、私の直接の祖「牧原源八」も「直義」である。この墓は「牧原奇平」の墓であって「文吾(松井九郎)」では無いと思われる。

 

 


尾瀬の国(藩)境争い

2021-06-14 16:25:12 | 会津藩のこと

蜂谷緑著『尾瀬ハイキング』の中で、「銀山平」のことが書かれている。

「寛永18 (1641)年、銀鉱が発見され、越後高田藩と会津藩で、その領有権をめぐって、争いとなった。
決着つかず、幕府に訴え出て、その結果、会津は外様、高田の松平氏は親藩ということもあってか、正保3年(1646)、只見川を国境として、銀山平は高田藩のものとなった」云々とある。

これは変だ。会津藩は、徳川秀忠の妾腹の子 保科正之が藩主となって立藩された。23万石。親藩筆頭である。

越後高田藩も、松平忠直の子「光長」を藩主とする26万石の親藩だった。光長の母は、秀忠と「お江」との娘「勝子」である。

時の将軍 家光からみると、保科正之は弟、松平光長は甥になる。しかし、「正之」は 秀忠の隠し子で、「お江」に気遣って、信州高遠の保科家に養子となった。
会津保科家が「松平」姓を許されるのは3代目からなので、この時は、まだ「保科姓」だから「外様」扱いだったというのだろうか。

調べたら、銀鉱脈が発見されたのが、1641年。この時会津の領主は加藤明成。たしかに外様大名でした。そしてまもなく改易され、保科正之が入封したのば1643年。幕府の採決があったのは1646年ということでした。

 

ウィキペディアで調べてみれば、
最初、高田藩に届けられ、幕府の許可を得て採掘に踏み切った。その後に会津藩から横槍を入れたが、1646年「只見川を国境とするよう」裁決が降りた。

その後 1681年、高田騒動で松平光長は改易され、銀山の採掘は中止となってしまった。

そして 1689年(元禄2)には、只見川を隔てた会津藩領からも銀鉱が発見されたが、江戸幕府は両銀山を直轄経営としてしまった。

つまり「トンビに油あげ」だったか。

一時は、銀鉱で働く者2万余の盛況を極め、女郎屋もあったそうだが、今は、奥只見湖の湖底に沈んでいる。


呪われた東京オリンピック。80数年前の武漢三鎮攻略の祟りじゃ

2021-06-14 09:25:39 | 虚無僧日記

2020東京オリンピック・パラリンピックが延期となり、今年開催されるか否か、瀬戸際にきて未だに賛否両論。

80数年前の「1940年東京五輪」の中止も「武漢」由来だった。1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争。同年12月の南京攻略、1938年の徐州占領で勢いづいた大日本帝国は、1938年4月「一億火の玉総力戦」に向けて「国家総動員法」を成立させると、徐州を占領し直ちに「武漢作戦」を決定する。「武漢三鎮」とも呼ばれるこの作戦は、日本軍35万人が投入され、日中戦争最大規模の戦闘となった。

(下の画像は、武漢占領を報じる昭和13年10月27日付の『東京 朝日新聞』号外)

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10月、中国・蒋介石軍が撤退し「武漢作戦」は終わるが、日中双方の人的被害は、「日本軍:戦死9,500人、病死900人、負傷26,000人。中国軍:遺棄死体195,500人、捕虜11,900人」と言われている。さらに特筆すべきは、この戦いで日本軍は悪名高き「731部隊」(関東軍防疫給水部本部)の「毒ガス兵器」が使われたことだ。『化学兵器被害解決ネットワーク』のサイトにこういう記述がある。

【1938年6月から11月までの武漢攻略作戦は、日中戦争最大の侵攻作戦だったが、ここでは毒ガス兵器が本作戦に必要不可欠なものとして組み入れられている。中国軍はガスに対して無防備で、あか剤を吸い込んだ兵士は激しく苦しみ、回復までに30~40分を要したという。その間に日本軍は、多数の中国軍兵士 を銃剣で刺殺した】(『毒ガス兵器を中国でどのように使ったのか』)

そのことが欧米列強の批判を浴び、東京オリンピックは幻と消えたのだった。

新型コロナウイルスの発生源はいまだ不明だが、「中国科学院武漢国家生物安全実験室」(通称:武漢P4実験室)で「コウモリ由来のコロナウイルスを研究する科学者が人体に適応するように遺伝子操作している」と医学雑誌で発表されていた。

80数年の歳月を経て、「武漢・東京五輪・科学兵器」という三題噺がつながってくる。これは何かの因縁ではないだろうか。

★1938年:武漢を軍事侵略→化学兵器使用→日中の死者20万人→国家総動員法→東京五輪・札幌五輪・万博中止
★2020年:武漢で新型肺炎→武漢のP4実験室→世界の死者3,155人→非常事態宣言?→東京五輪中止?

呪われた東京オリンピックは「武漢の祟り」か…… 

 

 蒋介石

 

  

 

 

 

 

 

 

 


ペリーと津波

2021-06-14 09:13:41 | 虚無僧日記

日本は、地震大国です。
南海トラフによる地震が、いつ起きてもおかしくない。


南海トラフが原因と思われる地震は、1946(昭和21)年に起きた「昭和南海地震」(マグニチュード8.0)。その前は、1854(嘉永7)年に「安政南海地震」(M8.4)というように、大きな地震が周期的に起きている。

私の母方の先祖「山室重明」が書き残した日記を紐解くと、地震、日の玉(彗星か)の記事が大変多い。

 

幕末と地震

1853(嘉永6)年にペリーが来航してからというもの、ほぼ毎年のように日本列島は地震に襲われました。

1854(嘉永7)年12月23日、「安政東海地震」(南海トラフ巨大地震)が発生し、地震による津波(4〜6メートル)で下田港は大打撃を受ける。流出家屋841軒、半壊30軒、無事だった家は4軒しかなかった。

1856(安政3)年、八戸沖地震(M7.5)。
北海道から三陸海岸で津波発生。盛岡藩、八戸藩、仙台藩で流死者。

1857(安政4)年、芸予地震(M7.0)。
松山藩、今治藩で数人の死者。

1858(安政5)年、飛越地震(M7.1)。
山崩れが各地で起き、302名死者。

1858(安政5)年、信濃大町地震(M6.0)。
大洪水が起き、溺死者140名。

江戸幕府崩壊の前触れかのように、幕末は巨大地震の連続。元号を「嘉永」から「安政」に改元しても、国内政治は安定するどころか、荒れ狂ったのです。

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コロナウイルスの次は 大地震、津波という予言が出回ってます。


慶応中等部の地は、会津藩下屋敷だった。

2021-06-14 05:35:39 | わが家のこと

今週の運勢に「自分のルーツを知る時」とあった。

「慶応中等部」のOB会報が来て、中等部の体育館を建て直すので、遺跡調査をしたら「会津藩下屋敷」の跡が出てきた との調査報告が載っていた。

そう、私が中等部に通っていた頃は全く気づいていなかったのだが、

三田綱町一帯は会津藩下屋敷だったのだ。

私の先祖、牧原只右衛門直源は、系図に「御田屋敷で生まれる」と書かれている。

名古屋に来てから。近くに「御田(みた) 中学」があるので、「御田」は「三田」と読むと気づいたのだ。

私が通った慶応中等部は、先祖の縁(ゆかり)の地だったのだ。

慶応に入れたのもご先祖様のご縁か。



保科正之の正室は藤木氏の娘「お万」。その子「正経」が二代藩主となったが、病弱で子供がなかった。そこで「正経」の後、三代目は、正之の側室が生んだ「正容」が継いだ。

私の先祖 牧原只右衛門は、13歳の時、保科正之の6男「正容」の小姓となった。その「正容公」が たまたま 藩主になったため、側用人として、500石取りにまで出世する。

サラリーマン社会も同じだ。自分の仕えていた上司が社長にまで出世すれば、取り立ててもらえるが、上司が失脚すれば一蓮托生。すべて運、不運。いや運を呼び込む能力も必要か。

実は、大学4年の就職活動で、求人案内を見て、たまたま家の近くなので寄ったのが千代田生命。その場で一次試験。二次試験と通り、役員面接の時びっくりしたことが。副社長が萱野章次郎氏だった。その萱野副社長から「僕君のこと知っているよ」とお声をかけていただき、びっくり仰天。萱野章次郎氏は、明治2年戊辰戦争の責を一身に追って死罪となった萱野権兵衛長修の子孫、戦後最高裁判所長官となった三淵忠彦の次男で萱野家を再興した方。会津人にとっては殿様の次に大切な方。これも奇遇。萱野氏のおかげで、私は千代田生命に入社できた。その後萱野氏は千代田生命の社長になられ、私は30代までは異例の出世。ところが、萱野氏が癌で亡くなられると、私は和歌山支社に飛ばされ、人生の転落が始まった。


辛い時こそ“笑う力” 映画監督 関口祐加

2021-06-14 04:46:12 | 心の問題

『一番大変な時こそ 笑う力 忘れないで』
 映画監督の「関口祐加」さんの話。

母親の日常にカメラを向けたドキュメンタリー映画『毎日が
アルツハイマー』は、老いや認知症という深刻なテーマを
「明るく前向きに捉えた」と評判になった。

「ドキュメンタリーは真面目に撮ると深刻になりがち、
それをコメディにするには、どうしたら良いだろうと、
試行錯誤の末できた」と。

 

「NHKビデオコンテスト」でドキュメンタリー賞をとった
 私の『あつーい1日』も、受験地獄の中で“笑い”があった
のが「大賞」につながったと思える。あの“笑えるシーン”で、
審査員もみな目に涙をためていた。

「一番大変な時に笑うことは“生き抜く力”」と関口さん。
チャップリンの言葉に「人生はクローズアップで見ると悲劇、
ロングショットで見ると喜劇」と。



風呂嫌いな母に「お風呂はいろ」「いや絶対はいらない」と
毎日押し問答。介護する方も される方も必死なのだが、
はたから見れば、お風呂一つにバカバカしい争論。笑える
でしょと、関口祐加さん。

ほんとにその通り。“いじめ”にしても“体罰”にしても
本人は深刻でも、神様の視点でみれば「愚かしい」と笑える
のかも。そう思ったら解決の糸口はある。何も死ぬことはない。
この年になって そう思える。