「蜂谷 緑著『尾瀬ハイキング』岩波ジュニア新書77 」
蜂谷緑は実は私の妻の叔母(義父の妹)。山が好きで日本山岳会会員。エッセイスト。この本の中で
「戊辰戦争の時、尾瀬でも、会津藩と官軍の戦いがあった」ことが書かれていました。
本文から抜粋
群馬県側から尾瀬にはいる玄関口 戸倉。江戸時代 関所があり、官軍はここに砲台を築き、古仲の大圓寺を本営として、100名ほどが戸倉に陣を張りました。会津軍は土地の事情に詳しい猟師たちを案内に立て、一隊は荷鞍山(にくらやま)から戸倉の背後を突き、一手は古仲の本営を襲ったのです。戦の始まったのは戊辰(明治元年)5月21日。村は春蚕のさなか、ネコの手も借りたいほどの繁忙期。この戦いで村は数棟を残したのみで皆焼き払われたといいます。
私も父も尾瀬で戦いがあったことは知らなかった。これを読んで、我が家の先祖もここに居たような気がして、ネットで検索してみた。すると、なんと尾瀬を守る隊長が「牧原文吾」でした。
「牧原文吾」は、「会津藩を脱藩して、松井九郎と改名し、佐々木只三郎の見回り組に所属し、鳥羽伏見で戦い、大鳥圭介に従って、北関東、宇都宮、日光、そして尾瀬の戸の倉で戦い、会津開城後は、函館まで行き行くへ不明」となっています。
それが『天極記』に「別伝習隊、松井九郎、元会津藩士、牧原文吾」として、名前が載っていることが判りました。
「戊辰戦争で、上州の宇都宮、足利等の諸藩は官軍側に付き、尾瀬を越えて会津に攻め入ろうとした。
そこで、幕府別伝習隊が、松井九郎(牧原文吾)を隊長として、桧枝岐から尾瀬に向かい、戸倉の戦いで、官軍を撃退した。
しかし 会津より帰藩命令がきて、松井九郎(牧原文吾)は会津に戻り8月24日、会津若松城下七日町で 敵の陣中に斬り入り、戦死した」とありました。
8月24日は、前日に官軍が若松城内に侵入し、白虎隊が自刃した日の翌日。
なんとも、不思議な気がする。父は「尾瀬林業」に勤めていたが、このことは知らなかった。そして、私は、妻の叔母から「尾瀬でも戦いがあった」ことを知って、なぜか先祖のことが頭に浮かんだ。
ところが、ネットで検索すると「行くへ不明で 墓も無い」はずの「牧原文吾」の墓が載っていました。
しかし、大窪山墓地にある墓の写真には「直義」とあるのみ。その説明文に
「牧原文吾は、勘太夫の弟。別名を松井九郎。十石三人扶持。一ノ寄合。歩兵頭?。慶応四年(1868)八月二十三日、戸ノ口原(大野原とも)にて戦死。三十四歳」と。
誰がどのようにして調べたのか、根拠は不明。
「直義」とは亡くなってからの諱名。牧原一族は皆「直」の字をつける。その「直義」は二人いる。
8月23日戸ノ口原強清水で戦死(自決)したのは「牧原奇平直義」である。そして、奇平に従って出陣し負傷したことで生き残った、私の直接の祖「牧原源八」も「直義」である。この墓は「牧原奇平」の墓であって「文吾(松井九郎)」では無いと思われる。