現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

6/25 宮城道雄の命日「浜木綿忌」 転落死の謎

2021-06-24 20:02:07 | 筝尺八演奏家

今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日浜木綿(はまゆう)

1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城道雄は、東海道線夜行寝台急行「銀河」に乗って大阪に向かっていた。そして午前3時頃、愛知県刈谷市の刈谷駅手前で、

列車から転落。

 東刈谷駅の手前、三河線のガードのところに横たわっていた

午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から「線路際に人のようなものを見た」という通報を受けて現場に向かった刈谷駅の職員に発見され、豊田病院(現・刈谷豊田総病院)へ搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる

私は、その少し前、母に連れられて、歌舞伎座での宮城道雄の演奏を観ていた。今でもはっきりと覚えている。私は宮城道雄の演奏を直接見たことがある最後の世代かも)

それだけに、新聞・ラジオで宮城道雄の死が報道された時、世間が大騒ぎになったことをよく記憶している。

その後の宮城会の大分裂騒動も知っている。ところが今それをネットで検索しても全く出てこない。宮城道雄の死は「盲人にしては方向感覚が鈍く、誤って転落した」と片付けられている。これには宮城会からの相当の圧力がある故であろうか。

「宮城道雄、死の真実」を明かせば、邦楽界から抹殺される。でも関係者は皆故人となったので、ここで書かずにいられない。

宮城道雄には実子が無く、妻の姪「牧瀬数江、喜代子、芳子」の三人を養女にしていた。

道雄は末娘芳子を特にかわいがっていた。そして一番弟子の小野衛(まもる)と芳子を娶せ、婿養子にとり宮城衛となった。宮城衛は点字楽譜を出版したり、尺八もよくし、宮城道雄の後継者として認められていた。ところが、芳子が早世し、その後、衛が尺八家の兼安洞童の娘と再婚するとなって一大騒動が起きた。芳子の姉の喜代子と数江が猛反発し、衛を追放し、自分たちが宮城会宗家となった。「衛が宮城会の金を使い込んだ」とか警察に訴え、衛は刑務所に入れられ、「衛の罪状を挙げて、衛は宮城会と一切関係がない」との新聞広告までデカデカと出した。そして宮城(小野)衛と親しかった会員も全員追放。それは私の師 堀井小二朗はじめ、尺八家・邦楽家にも及んだ。(というわけで、私は今でも宮城会とはお付き合いしていただけません)

数江、喜代子の宗家横奪に反目した松尾恵子とその夫であり宮城会の副会長だった松尾清二氏はじめ、宮城道雄直門の幹部も宮城会から離れ独立した。

さてそこで、宮城道雄の死の真相、といってもあくまで推測にすぎないが、

宮城道雄は婿養子の(まもる)と数江、喜代子の争いに心を痛め、ノイローゼになっていた。当時はラジオ放送もまだ生放送。亡くなる直前のラジオ放送ではめずらしくミスをした。心そこに在らずの状態だったという。

喜代子、数江は、道雄の収入で高価な宝石や着物を買い身につけていたが、宮城道雄には古い紋付を着せていたという。ある時(喜代子だったか?)、箏の稽古の時、宮城道雄が「指輪をはずしなさい」と注意したという。盲目でも喜代子が大きな宝石のついた指輪をしていることがわかったのだ。

 

そこで、自殺説

宮城道雄は盲人とはいえ、トイレと列車のドアを間違えるはずがない。ドアを開ければ当然猛烈な風が当たる。「道雄は酒好きで、寝る前に酒を飲んでおり、酔いを醒ますために、ドアを開けて涼んでいたのでは? そして揺れた拍子に振り落とされた」ともいわれるが、現場は直線で揺れることはない。

救出された時、「ここはどこですか、私は列車から落ちたのですか? どこかへつれていってください。名古屋は近いですね」などと話していることから、自殺の意思は確認できない。大阪公演をボイコットするはずもない。とすると、デッキで涼んでいて、誰かに突き落とされた。他殺説。

列車には付き添いとして姪の喜代子が乗っていたが、朝7時、乗務員に呼び出されるまで「道雄が居なくなったことを知らなかった」という。いつもは「道雄が夜中にトイレに行くときは必ず付き添っていた」というのにである。一番疑われる立場だが、それについて言及したものは一切ない。

もっとも、この前後、三件だったか、この近辺で列車転落事故が起きているという。盗み目的か、突き落とす犯人がいたのかも。

悲しき記録

http://web.archive.org/web/19990824195159/http%3A//www.sinfonia.or.jp/~manfan/kanasiki.html

 

 


美空ひばり 壮絶な最後

2021-06-24 19:35:30 | テレビ・映画・芸能人

昭和の大歌手「美空ひばり」

1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。52歳だった。

 

だがそこに至るには数々の病気との戦いや、荒れた私生活があったという。

ひばり44歳の1981年、実母・喜美枝は転移性脳腫瘍で、68歳で他界。

ひばりの2人の実弟、かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)も42歳の若さで後を追う。

今の世としては、皆短命だ。

肉親の死で精神的にも落ち込んだひばりは、1987年4月に極度の体調不良で緊急入院。重度の慢性肝炎、特発性大腿骨頭壊死症と診断され3ヶ月半芸能生活を休止する。

47歳、1985年5月、ひばりの「誕生日記念ゴルフコンペ」のプレー中に原因不明の腰痛を訴える。

49歳、公演先の福岡市で極度の体調不良に陥り緊急入院。重度の慢性肝炎(肝硬変)と両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、入院療養。明治座の公演中止となる。

退院後も肝機能は回復せず、大腿骨頭壊死の治癒も捗々しくなく、病状は一進一退。

50歳の1988(昭和63)年4月、東京ドームでの復帰公演。痩せ衰えた体をかろうじて支え、脚の激痛に耐えながらも全39曲を熱唱。体調は悪化していたものの、ドーム公演後の10か月間、13カ所の全国公演、テレビ番組収録などに精力的に挑む。

 51歳、1988年12月25日、26日は帝国ホテルで生涯最後のクリスマスディナーショー。

年が明け、1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに」と短歌を詠む。明日の自分は、今日の自分に勝ちます」――。

3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルをリリース。だが、特発性間質性肺炎はかなり進行し、ひばりを苦しめる。

2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化によるチアノーゼ状態になるが、コンサートを強行。1100人の観衆を前に全20曲を熱唱。

翌2月7日、北九州市小倉にある九州厚生年金会館での公演が、生涯最後のステージになる。

 会場の楽屋では、酸素吸入器と医師が控える。肝硬変が急変すれば、食道静脈瘤が破裂し、吐血寸前の病態に追い込まれる。以後、横浜アリーナのこけら落とし公演に執念を燃やすが、自宅療養を余儀なくされる。

 だが、3月21日にラジオのニッポン放送の『美空ひばり感動この一曲』と題する10時間ロングランの特集番組に自宅から生出演。番組終盤に生涯最後のコメントを残す。

「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」