現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

石丸進一『人間の翼』

2021-08-19 20:48:04 | 太平洋戦争

「石丸進一 映画」の画像検索結果

戦争回顧と反戦の映画は数々あれど、一番泣けたのが人間の翼―最後のキャッチボール』です。

「特攻隊員として戦死した名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のエース、石丸進一君」について、従兄弟の牛島秀彦氏が 裂帛の思いを込めて制作した映画『人間の翼―最後のキャッチボール』。



一般の映画館では公開されない自主制作映画ですが、私は3回も見る機会に恵まれ、またVTRも入手し、原作の本も買い求めました。


水道橋方面から、東京ドームの外壁沿いに、地下鉄「後楽園」駅に向かう途中に、『鎮魂の碑』というのがあります。

戦争に狩り出されて亡くなった野球選手の霊を慰めるために建立されたものです。

名投手「沢村栄治」選手をはじめ 69人の名前が刻まれています。

そして、その隣りに「石丸進一」君の追悼碑があります。



床屋を営む父親の借金を返すためにプロ野球界にはいり、兵役免除と聞いて日大に入ったものの、学徒出陣で特攻隊員となります。

1945年4月25日に鹿屋への移動命令が下り、浅野文章少尉から揮毫を求められ、「葉隠武士 敢闘精神 日本野球は」と書いた所で、浅野少尉から「この期に及んでまだ野球か!!」と叱責され、石丸進一は「おう!! 俺は野球じゃ、俺には野球しかないんじゃ!!」と怒鳴る様に言い残し、鹿屋に旅立ったのです。

太平洋に散華したのは、それから2週間後の5月11日でした。

野球一筋、球に命を懸けた青春が、戦争という不条理な運命に消されていく、その無念の思いを込めたこの石丸進一の絶筆が、なんと靖国神社の「遊就館」に展示されているとのこと。

「遊就館」は 侵略戦争を正当化し、国のために散ることを賛美するコンセプトで展示されています。石丸進一の魂はここで休まるのだろうか。

「戦争への道開き」を声高に叫ぶ人は、石丸進一君の映画『人間の翼―最後のキャッチボール』をぜひ観てもらいたいものです。

終始無口だった父親が、戦後、飛行機の爆音を聞くと、家を飛び出し、「進一が帰ってきた、進一、進一」と空に向かって手を振る。それを妻が抱きかかえて家に引き戻そうとする。あのラストシーン、もう涙が止まらず、映画が終わってもしばし立ち上がることができませんでした。。

この映画が、一般に公開されない、という現実に、またいつか来た道を歩んでいる危うさを感じます。

鎮魂の碑 (日本プロ野球) - Wikipedia


バベルの塔

2021-08-19 20:46:59 | 虚無僧日記

世界一高い超高層ビルは、ドバイの「ブルジュ・ハリーファ」。
全高828m、162階建て。東京スカイツリー(634m)より高い。

そのドバイに 2,400mの「ドバイ・シティ・タワー」が建設中とか。

天まで届け。まさに神を畏れぬ所業。“バベルの塔”ならぬ“バブルの塔”。

ポーランドの「ワルシャワラジオ塔」は、東京スカイツリーより高く
646mだったが、1991年に 倒壊した。おそろしや、恐ろしや。

ところで『バベルの塔』とは?

『ヨベル書』によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、
それぞれの場所に住むよう命じてられた。しかし、人々は、新技術を
用いて天まで届く塔をつくり、大集合住宅に住んで、人間が各地に
散るのを免れようと考えた。それは、神を威嚇し、ノアの箱船時の
大洪水の復讐でもあった。エホバは この塔を見「人間は言葉が同じ
なため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じないよう、
違う言葉を話させるようにしよう」と言った。

このため、人間たちは言葉が通じ合わなくなり、塔の建設をやめ、
世界各地へ散らばっていった。

「バベルの塔」が崩壊したとは書かれていないそうな。「バベルの塔」の
話は、世界の人々が、多岐な言語に細々と分かれていることの理由づけ
とのこと。

さて、言葉が通じ合わなくなったことで、「民族、部族間の争いが
起きるようになった」とは書かれていない。

言葉が通じ合えば、平和になるのだろうか?夫婦、親子でもケンカ
するのだから、やっぱりダメか。言葉とはやっかいなものじゃ。


2万年前の土器、3千年前の琴

2021-08-19 20:41:46 | 虚無僧日記

中国・江西省の洞窟遺跡で、280個もの土器片が発見され、炭素測定の結果、2万年も前のものとされました。ドキッ! どき どき!。

今まで、世界最古の土器は、わが日本の青森県大平遺跡から出土した縄文土器で、1万6千年前と測定されていました。世界史上、日本の縄文土器が最古だったのですが、4千年前のものが中国から出たとはザンネン。

で、アフリカや中近東の砂漠からは なぜ出ないのでしょう。これも考古学上の“謎”なのです。

ところで、青森県八戸市にある是川中居遺跡から出土した木製品が、“世界最古の弦楽器(琴)”の可能性があることが、先日発表されました。
こちらは、3千年前、紀元前1,000年頃の縄文晩期ですから「縄文琴」と命名されたよし。


ちょっとまって、紀元前1000年だったら、エジプトは、もう「新王朝時代」で「ツタンカーメン」の遺品など、日本の縄文土器とは比較にならない高度な製品が作られていました。竪琴は まだ出ていないのでしょうか。


ブログで「縄文文明の発祥は、四大文明とされるメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明より遥かに古く、中国では北京原人が洞窟で生活していた頃に、日本人は土器を作り、琴を鳴らしていたのだ」というのがありましたが、1万年ではありません、たかだか3千年前です。
おお勘違い。


『零の進軍--大陸打通作戦』 吉岡義一著

2021-08-16 23:24:00 | 太平洋戦争

『零の進軍ー大陸打通作戦』吉岡義一著 

「打通作戦」とは、制海権を失って海上輸送が困難となった日本は、インドシナからの米や石油を運ぶために、上海からタイまでの1,400km の陸路を切り開こうとした作戦。そのために大量の軍隊が投入され、ただひたすら、敵中を行軍した。食料の補給はゼロ。現地調達。兵士には行き先も告げられず、情報もゼロ。ただただ頭を からっぽ(ゼロ)にして、上官の命令のままに行動させられた。

実際に敵と遭遇して、名誉の戦死を遂げた者は 3割。7割が衰弱して置き去りにされたり、絶望して自殺、逃亡、そして病死。犬死だ。

 

 

一昨年だったか、NHKでも「会津若松第65連隊の悲劇」として取り上げられた。私の父も参加していて、『従軍記』を書き残しているが、この『零の進軍』の著者「吉岡」氏は、熊本の連隊。上下二巻に及ぶ、実に詳細な記述で、「戦争で負けているとは思っていなかった」とか「中国人は戦後も親切にしたくれた」など、父の話とも共通する。

 


『少年H』の大ウソ問題

2021-08-15 19:33:17 | 太平洋戦争

少年H』は、妹尾河童の自伝的小説。

1997年(平成9年)に『週刊こどもニュース』でアニメ化、1999年(平成11年)と2001年(平成13年)にスペシャルドラマ化、2013年(平成25年)に映画化されている。

累計発行部数360万部を記録し、朝日新聞はじめマスコミが絶賛。高校、大学の入試問題にまで利用されている。

ところが、その内容が、山中恒氏によって「当時としては考えられられない、ありえない言動、事実ではない箇所が何百か所もある」と指摘されて問題になっている。私も映画を観たが、疑問だらけの内容だった。中学で「実弾射撃演習」なんか無かったのだ。

 

同世代で児童文学作家の山中恒は、「作中に夥しい数の事実誤認や歴史的齟齬がみられること」や、「主人公やその家族の視点が当時の一般的な日本人の感覚から大きく乖離していること」、「戦後になるまで誰も知らなかったはずの事実をまるで未来からでも来たかのように予言していること」、さらに「自身が編纂に関わった書物の記述がその誤りの部分も含めてまるごと引用されている点」などを自著『間違いだらけの少年H』で指摘し、『少年H』は妹尾の自伝でもなんでもなく、戦後的な価値観や思想に基づいて初めから結論ありきで描かれた作品であると看破し、「年表と新聞の縮刷版をふくらませて作り上げたような作品」「戦争体験者の酒の席での与太話を小説風にまとめただけのもの」と酷評した[4]。さらに、2001年(平成13年)に山中は『「少年H」の盲点』という批判書を出版した[5]

帝国議会での斉藤隆夫の反軍演説である。その演説内容については、戦後斉藤が亡くなった後に始めて明らかにされたにもかかわらず、作中ではHの父親の盛夫が知っていて、それをHに説明している。独ソ不可侵条約でポ-ランド分割占領の秘密議定書も、つい最近になってわかったことなのに、何故か隆夫は知っていて、それを聞いたHは、「ドイツは狡い!」と作中で述べる。間違いの多くは、『昭和二万日の全記録5巻・一億の「新体制」』(講談社)の記述に促した所が目立つという。戦後になって判明したことでも、こういった本では記述されているから、当時の了解事項との間に当然違いが出てくる。それに気づかずに参考にしたところが間 違いのもとになっているのだが、各種の年表の記述間違いも多いので、年表を参考にして描かれたところは、間違いをそのまま映し出している。

「少年H」父親妹尾盛夫役 水谷豊

「少年H」父親妹尾盛夫役 水谷豊

youtube#video

 

 

少年H ①

中井貴一 桃井かおり 吉岡秀隆 陣内孝則 窪塚洋介 杉本哲太 笑福亭鶴瓶 田中邦衛 西村雅彦 岩城滉一

youtube#video

 

 


終戦 中国でも北と南では大違い

2021-08-14 20:23:03 | 太平洋戦争

日本軍は中国大陸で誰と戦っていたのか?

中国では蒋介石国民党毛沢東共産党軍が激しく対立し内戦状態にあった。中国北部の華北地方では関東軍によって清朝最後の皇帝溥儀を迎え満州国が成立。その満蒙開拓団は馬賊と、毛沢東率いる共産軍(八路軍)の襲撃に悩まされていた。8月9日ソ連が国境を越えて侵入してくると、関東軍はいち早く逃げ出し、置いてきぼりにされた満州開拓団はソ連兵と馬賊と八路軍の襲撃に遭い、さらにソ連へ抑留とその悲劇は言語に絶する。

だが、中支・南支方面の日本軍は連戦連勝、優勢だった。

蒋介石国民党軍南京を首都としていたが、1937年(昭和12)12月日本軍に攻められて重慶に逃れた。日本軍は、蔣介石と対立して重慶を脱出した汪兆銘を担いで、1940年(昭和15)3月南京国民政府」を新たに樹立した。であるから南京、上海では日本軍は我がもの顔だった。

しかし日米開戦によって重慶国民党軍を支援するアメリカが日本軍への空爆を行った。国民党軍は逃げまわるだけで、日本軍の敵はアメリカの飛行機だった。

8月15日の停戦で、日本は重慶国民党軍に降伏した。蒋介石は共産軍との争いに備えて、日本軍の力を借りたいという気持ちもあって、日本軍に寛大な処置を命じた。

 

父は会津若松65連隊に入隊したが、翌年主計少尉になって第13師団、新潟県新発田の歩兵116連隊に転属。

帰還した者 3,500名。帰れなかった者 1,700名である。3人に1人が命を落とした。
中国に残してきた戦友のことを思うと「すまぬ、すまぬ」の思いで、父も戦争を語ることは無かった。

定年退職後65歳を過ぎて、秘かに『従軍記』を書き遺していた。

父の『従軍記』を読むと敗戦で「中国人の報復を怖れたが、「多くの中国人は、温厚で寛大で、同情してくれ、友好的だった」という。

父は主計だったので、食料の調達、調理、衣服などの運搬に、何人かの中国人を苦力(クーリー)として使っていた。苦楽を共にしてきた仲でもあり、情も通いあい、「我々の撤退に、どこまでも着いてきた」とも。
「壮年を苦役に連行した」という罪で、父も戦犯に問われるところだったが、訴え出る人が居なかったために救われた。

武装解除も整然と行われ、中国人による略奪などは無かった。捕虜収容所といっても、土地を指定されて、そこに自分たちで宿舎を建て、自炊生活をすることとなった。中国の村の長は、将校を自宅に迎えて、食事の接待などもしてくれた。勝者の驕りも威圧も無く、「(日本帰国後も)また、来ることがあったら、歓迎しましょう」と、その寛容さに感服した。

捕虜収容所での生活は、軍隊同様、規律正しく、各種作業も分担してスムースに行われていた。兵隊は、収容所を出て、道路や家の復旧、農耕の手伝いをして
その報酬として、食料・煙草を分けてもらったりした

時には、無聊を慰めるため、運動会や相撲大会、演芸大会なども行われた。これがまた、芸達者な人がいるもので「玄人はだしの芸に、拍手喝采、沸き立った」
という。
武装解除でも自衛のためのピストルと日本刀は所持を許された。それで世話になった中国の村長にお礼として日本刀を置いてきた。

いよいよ上海に集められると、中国の警備兵に腕時計、毛布類まで略奪されたが、ただひたすら、日本に帰れるならばと、されるがままに耐えた。

最後の最後、江順丸で支那海を渡り、佐世保に着いた所で、海が荒れ船が座礁する。「ここまで生き長らえてきたのに、ここで天命尽きるか」と、覚悟したが、アメリカの上陸用舟艇に救助される。「昨日まで“鬼畜米英”と憎んできた米兵に助けられるとは」と、父は述懐している。


ミスワカナの戦争

2021-08-13 15:59:26 | 太平洋戦争

8/11に放映された NHK「ドキュメンタリー 戦場の漫才師たち
~わらわし隊の戦争」を見て、慰問団について関心を持った。

吉本興業のトップスターたちが、慰問団として中支・南支に
派遣されていたという話。「荒鷲隊」をもじって「わらわし隊」
とはスバラシイ。エンタツやアチャコ、柳屋金語楼は知って
いたが、紅一点のミスワカナは知らなかった。

You-Tubeを見ると、ミスワカナの漫談や歌がレコードに吹き
込まれていて、いくつかが聞ける。男尊女卑の世の中、特に
戦場で戦っている兵隊さん相手に、夫である相方の玉松一郎を
徹底的にコケにし、やりこめる。それがうけたというのも不思議。

ワカナには、歌と踊り、そして各地のお国訛りや、中国語さえも
自由に漫談に取り入れるという才能があった。

戦中慰問で、戦場の現実を見つめ、次第に心病んでいったか、
やがてヒロポンに溺れ、終戦の翌年、36歳で逝ったという。

森光子が演じた「おもろい女」のモデルが、ミスワカナだった
とは知らなんだ。番組でも森光子(90歳)がインタビューに応じ、
「妹のように可愛いがってもらった」と語っていた。
森光子は嵐寛三郎の従妹であり、映画界の名門の出だが、
森光子も「わらわし隊」に参加していたのだった。

あの時代を自由奔放に生き、鉄砲玉のように逝ったワカナの
生き様に、私は心惹かれる。私も、現代に逆らい、そして
老人ホームなどの慰問で、尺八と漫談で、笑いを呼ぶ虚無僧
なのだから。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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広島原爆に思う

2021-08-13 15:54:31 | Weblog

私の父は、戦争のことを決して語ることは無かったが、父が亡くなって
遺品を整理していて、父が書き残した『従軍記』が見つかった。今それを
私は『牧原五郎-日中戦争従軍記』として、別ブログを開き、書き込んで
いる。ぜひそちらも見ていただきたい。

そこには、中国人への残虐な行為や従軍慰安婦のことまで書かれている。

私は、父の証言だけでなく、日本人が犯した残虐行為を見聞きするにつけ、
この国の人は本当に「和」を愛する民族なのかと疑いたくなる。
日本人は約3百万人が戦争で亡くなったが、それを上回る数の人を殺して
いる。10倍の3千万とも言われる。
何事も裏と表の見方があって、「原爆被害者」と声高に叫ぶ日本人に対して
東南アジア諸国は「原爆で戦争が終結し、一千万人の命が救われた」と思って
いる。久間防衛大臣の「仕方なかった」発言は、ある意味では世界の共通認識
なのだ。ただ「核兵器の根絶」という点では、「しょうがない」は許せない
という理屈は解かる。


政府は従軍慰安婦問題についても、沖縄の集団自決についても、南京虐殺に
ついても、これは軍の責任とか、旧憲法下の日本政府のことで、今の政府は
関係ないなどと、責任逃れしているが、これは日本人全体としての罪だ。
広島の人が、「罪もない人が殺された」と云うのに対して、諸外国の目は
「本当に責任はないのか?」と手厳しい。日本国民一丸となって戦争に加担
していたではないか。それを頬かむりして、責任を一部A級戦犯にだけ
押し付けて、自分たちも被害者のように装うのは如何かと思える。

私の親戚には、東条英機に逆らって投獄され、拷問の末、割腹自殺した中野
正剛がいる。また硫黄島で戦死したバロン西も遠い親戚に当たるらしい。
サイパンで玉砕した人もいる。戦争の愚かさを思う時、「憲法9状」を守る
のは当然のことと思うのだが、改憲を唱える理由はどうしても理解できない。
イラク戦争もますます泥沼化して死者は増えるばかり。あのヴェトナム戦争
は一体なんだったのか。武力で平和は勝ち得ないことは証明済みだ。


虚無僧で、天竜川沿いの村々を回ったとき、「殉国の家」という札が、あち
こちの家に掲げてあるのを見た。夫を父を息子を、働き手を失って、遺族は
どんな思いで戦後を過ごしてきたのか。涙にかすみながら、深い鎮魂の思い
を込めて「手向け」を奏する。今年も暑い夏。また虚無僧の旅に出る。


戦中慰問団

2021-08-13 14:32:36 | 太平洋戦争

昭和16年5月30日 新潟慰問団

 

NHK「わらわし隊の戦争」を見て、戦中慰問団に関心を持ち いろいろ調べてみました。

慰問団は、吉本興行だけでなく、映画俳優も地方の温泉芸者も、また、各県、各市ごとでも結成され、派遣されていたようです。


父の所属していた歩兵第116連隊の記録にも、慰問団のことがしばしば登場します。

昭和16年5月12日 映画慰問団宜昌へ帰る
    5月30日 新潟慰問団来る 
    5月31日 慰問団第二大隊へ
    6月13日 第二大隊へ「特殊慰問団」来る

はて「特殊慰問団」とは何でしょう? 調べてみましたが不明です。
性を売るのかと想像してしまいます。

    11月 5日 夕刻慰問団来る。「ハイカラ」にして新しきも、
         郷土色稀薄なり

やはり、「郷土色」が望まれていたのでしょうか。

父は福島県会津若松の出身だったので、故郷 福島の飯坂温泉から芸者連中の慰問団が来た時は なつかしく大歓迎。

「衣食住は経理室の役目だから」と 彼女らの世話を 経理室に与えてもらった。経理室の連中の喜びようといったらない。風呂焚き役は奪い合いになった。夜は経理室一堂、彼女らと会食し、日頃の憂さを忘れ 楽しい一夜となった」とある。

さて、この先は、とても公表できない内容です。(が、あえて・・・)
その慰問団の団長が「戦地の土産話に、ひとつ頼む」と要求してきたのは、・・・・・。

なんと、中国人の首を斬ることです。
中尉が 捕えていた少年を連れ出してきて・・・・・・。

父は少尉でしたので、父祖伝来の名刀「会津三善(みよし)長道」を軍刀に仕立てて携行していました。その「軍刀を貸してくれ」との要求に

父は「父祖伝来の刀、もし刃こぼれしたら どうしてくれる」と言って断った。 当時、にわか作りの[昭和刀」は戦地では すぐサビて使い物にならなかった。ホンモノノの刀はサビずに輝いていたとのこと。

 

まったく、市民をも狂気にさせる戦争、ホントにアホらしく、

バカバカしい。許せんことです。


信ずる人と信じない人

2021-08-13 00:36:16 | 社会問題

昨日、私のブログに5000件超のアクセスがあり、300万ブログ中なんと18位に。過去最高!  でも 5,000人は 日本の人口 1億人のわずか0.00005%。

最も読まれている記事は「日航機墜落事故の真相」そして「東電OL殺人事件の真相」「原爆は予告されていた」と続く。

いずれも、マスコミが報じない闇の話

私の関心事は、定説になっているもの、通説になっている話の否定。しかしこうした記事に関心のある人は数%。それを読んで信じる人はその半数。そして99%の人は無関心。このような話は一笑にふして無視する人が大半。


長いものにはまかれろ。お上(かみ)のいうことには従え」の日本人の体質がわかるというもの。そんな風潮に警告を鳴らしたい私。

日本があのバカげた戦争に突き進んだのも、そのような体質の故。こうした過ちは正さなければならないと憤っても、笛吹けど踊らずか。

 

2005年にTBSで放映された番組の中で原爆投下に関わったアグニユー氏と被ばく者の対話がかみあわず、面白い。

謝罪を求めたい被ばく者に対してアグニュー氏は「No!」と突き放す。「原爆投下は正しかった。罪のない無辜の人を殺したというがそれは間違いだ。日本人全体が、女も子供も皆戦争に加担した罪がある。原爆で死のうと、鉄砲の弾に当たって死のうと同じことだ」そして最後に「(原爆を投下した理由は)パールハーバーだ」と。

言われてみれば確かに、婦人も子供もみな戦争を煽っていた。松岡外相が国際連盟を脱退した時も、真珠湾攻撃が成功した時も、国をあげて女も子供も歓喜し旗を振った。マスコミに乗せられたのだ。子供の方が純真で同調しやすい。

内心では戦争に反対していた人もいただろうが、声をあげて「戦争反対」と叫ばなかった罪がある。世論を起こして戦争を止めなかったのは同罪と個人主義のアメリカ人はそう考える。日本人はお上と周囲の社会にさからえない全体主義

というわけで、私の関心事は「大きな力に抗(あがら)えない個のあわれ、虚しさ」というところか。

それは「会津戦争の悲劇」を受け継ぐ血故かと思う。

 

【アーカイブ】原爆を開発、投下に同行、映像撮影したアグニュー博士と被爆者の対話の一部始終(2005年放送)

綾瀬はるかさんも出演し2005年にTBSで放送した特別番組「“ヒロシマ”・・・あの時、原爆投下は止められた」のなかで、原爆を開発、投下に同行...

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