現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

捕虜は貴重な情報源だった

2021-08-10 17:42:40 | 太平洋戦争

以前、NHK「ラジオ深夜便」で、「日本兵捕虜尋問所の真実」の著者、ノンフィクション作家 中田整一氏の話を聞いた。

「 トレイシー」と呼ばれる「日本兵捕虜秘密尋問所」の膨大な記録を精査した内容の本だそうな。

著 者: 中田整一
出版社:講談社
発売日: 2010/04/09

アメリカは、日本と戦争になりそうと判断すると、日本語教育を始め、海軍で1,000人、陸軍で5,000人、日本語を話せる兵隊を養成した。

そのためには、日系二世だけでなく、日本人の捕虜が必要だった。それで、捕虜を大切に扱った。捕虜には、暴力的なことは一切せず、煙草を与え、食事をもてなし、まず安心させた。そして捕虜収容所では、快適な二人部屋を与え、尋問には黙秘権を与え、「話たくなければ、何もしゃべらなくてもいい」と言いながら、部屋での、日本人同士の会話は全部盗聴し、日本語、日本人の性格、思考回路から方言まで、徹底的に記録したという。

その膨大な資料が公開されたのだ。アメリカにとって捕虜は貴重な情報源だったのだ。

 

戦後70年:「沖縄捨て石」 本土決戦の戦備、その悲惨な実態 - 毎日新聞繰り返すな戦争 その実相に迫る 第1回「自衛」の名で数千万人殺害 ...



しかし、日本は逆だった。日本本土には16,000名もの連合軍捕虜がいた。そしてその1割が死んだとも。捕虜を徹底的に虐待した結果だ。捕虜になったらこうなる」との見せしめにし、「生きて俘虜の辱めを受けるなかれ」と、教えた。

これは、軍上層部としては「捕虜となって情報を敵に漏らすことを怖れたため」だったのかもしれない。

日本人捕虜の多くは、思わぬ厚遇を受け、懐柔され、驚くほどよく、しゃべったという。そこには「捕虜となったからには、生きては国に帰れない」というあきらめもあったという。

中には、捕虜となっても一切無言で通し、自決したもの。機会を伺って、反乱を起こし、射殺された者もいた。彼らに共通していたものは、「生き恥を晒して、日本には帰れない」「もう死んだも同然」の思いだったという。すでに、故郷では「戦死」と伝えられ、立派な墓も立てられ、軍神として祭られているはずだ。今さら帰れないという思いがあったのだ。

こうして捕虜として、かの地で亡くなった人たちは、もっと哀れだった。厚生省も彼らの存在は無視し通してきたという。100万柱とともに、まだまだ、知られざる兵士の遺骨が帰国できずに眠っているのだ。

日本軍はなぜ捕虜や民間人に対して残虐であったか?それは戦争という ...日本の侵略


長崎も予告されていた。

2021-08-10 17:29:05 | 太平洋戦争

長崎の原爆投下は、はじめ小倉の予定だったが、霞と煙にさえぎられ、次候補の長崎に落としたといわれている。

しかし、8月9日は「長崎」と決まっていたという見解もある。しかも事前に予告され、軍の上層部は知っていたという。

広島同様、前日に「第二総軍」の幹部が集められており、軍幹部も県の上層部も 被爆を免れている。

8月7日「こちらはニューディリー、信ずべき情報によれば、米軍は来る8月9日に、広島に続いて長崎に原子爆弾を投下する予定であることを発表しております。繰り返し申しあげます」という放送が流されていたのを、軍は傍受していたともいう。

長崎には何百人かの米兵捕虜がいたが、8月9日は、他へ移され、全員難を避けているとのこと。

原爆を積んだB29が、小倉から長崎へ向かっていることまで、参謀本部の諜報機関は掴んでいながら、迎撃の命令が出なかった。

だが 直前になって、長崎では「全員避難せよ」の放送が流れたとも。何者かが、情報をキャッチして、軍の指示を得ずに流したのか。

「なぜ、長崎に?」
長崎には真珠湾攻撃に使われた魚雷を製造する三菱兵器工場があった。長崎は「真珠湾の報復」だったとか。

すべては、アメリカと天皇とのトップ・シークレット。「密約」があったという。「原爆によって戦争を終結し、日本国家の存続、再建のため」という大義名分。そのために多くの市民が「人柱」となった。

厚労省の「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」が「制度は破綻しているという意見に留意」と中間報告 - Everyone says I love  you !


「大地の子」再び

2021-08-10 10:04:41 | 太平洋戦争

1996年放映された、山崎豊子原作の『大地の子』が再放送。

陸一心(松本勝男)は満蒙開拓団信濃郷の一員として祖父・母・二人の妹とともにソ連国境に近い黒竜江省の開拓地に居た。父親は応召して不在。

昭和20年8月9日、7歳の時、ソ連が国境を越えて侵攻。

逃げる途中祖父、母と末の妹が死に、かろうじて生き残った妹あつ子とも離れ離れになって逃げ惑う。人買いに売られ、善良な小学校教師の陸徳志に救われ、育てられる。しかし文化大革命の嵐。日本人の子という理由で労働改造所に送られる。養父の必死の嘆願で救い出され、大学まで行かせてもらい、鉄鋼技師として働くようになる。やがて日中国交再開で日中共同事業の製鉄所建設に携わる中、偶然にも日本企業側の所長松本耕次が父とわかる。

 

 

妹と再会するシーンが泣けた。

 

その妹「あつ子」に目を奪われた。極貧の中での重労働、身体を壊し、病に倒れる。頬がこけ、痩せ衰えて死んでいく。その顔がすごい。ネットで調べて、演じたのは「永井真理子」と知る。

ミュージシャンで役者としてはド素人。どういう経緯で抜擢されたのか分からないが、彼女のブログ

「台本を読ませていただいたのですがもう涙が止まらなくなってしまい、すぐに出演を受けさせていただきました。とにかく作品の力が強くて役者としてど素人の私が「やらなきゃいけない。これは運命だ」とまで思えた作品でした

役者としての演技をどう評価されたかはわかりませんが、私の人生の歴史に大きく刻まれたお仕事でした」

この死相現れる迫真の演技。いや演技ではない、もう実写かと思えるほどリアル。もう泣けて泣けて、一晩眠れませんでした。

 

 

ソース画像を表示

[大地の子] 主演 上川隆也 不朽の名作ふたたび!日中共同制作スペシャルドラマ アンコール放送 | NHK

放送予定はこちら 大地の子 https://www.nhk.jp/p/ts/8NYG2RL9ZV/?cid=dchk-yt-2107-18-...

youtube#video

 

 


日本も原爆開発に取り組んでいた

2021-08-09 10:21:44 | 太平洋戦争

日本でも「原爆の開発」は進められていて、核分裂の実験装置では当時 世界最高水準のサイクロトンが東京の「理化学研究所」と京大、阪大の3ヶ所に4台あった。しかし戦後、マッカーサーの指令で、すべてことごとく破壊された。東京の2台は、東京湾に沈められた。

終戦の翌年、昭和46年の10月、アメリカの新聞にこんな記事が載り、米軍関係者を驚かせた。

「終戦3日前の8月12日、日本は朝鮮半島で核実験に成功していた。その後、南進してきたソ連兵が、日本人科学者6人を拘束し連行。彼らはソ連の原爆開発に携わっている」と。

これは誤報だったようだが、アメリカがソ連の原爆開発に神経を尖らせていた時期の疑心暗鬼だった。

日本の高い能力をアメリカも認識していたのだ。
そういえば、湯川英樹は、師の仁科教授の「核融合」の理論をこっそりアメリカに売り渡し、アメリカの原爆開発を手助けした。その功績で、戦後いち早く、
日本人初のノーベル賞に輝いたとか、ネット上にありましたっけ。

福井県に本社を置く非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。

「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた」

水田氏は早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させた。

新家博/Niinomi Hiroshi on Twitter:  "ノーベル物理学賞の湯川秀樹の日記のこと。興味深く読んだ。人間悲しいかな。たとえノーベル賞受賞者の頭脳を持ってしても人間の本能(闘争本能)とそれに基づく「政治」については、事が終ってからでないとピンとこないのである  ...

 


「焼き場に立つ少年」

2021-08-09 10:03:49 | 太平洋戦争

10年ほど前、日本原水爆被害者団体協議会のポスターを見て、衝撃を受けた。

アメリカの報道官だったジョー・オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」の写真が全面に使われていた。

そして、オダネル自身の説明が添えてあった。

1945年長崎の爆心地近くの火葬場で撮影されたもの。 

考えると、火葬場で、待つ、姿は。 - 二言瓦版

 

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「10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。

おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。

重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が
感じられました。しかも裸足です。

少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。

この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まばゆい程の炎が、さっと舞い立ち、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。

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 以来ずっと、この少年の写真のことを気にかけていたら、2008年にNHKで

ドキュメンタリー番組として放映されていたものを、YouTubeで見た。

NHKスペシャル
解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI

語り 柴田祐規子

この写真を撮った「ジョー・オダネル」について取材したもの。

ジョー・オダネルは2007年の8月9日、まさしく長崎原爆の日に85才でこの世を去った。そして、この写真は、50年封印され、彼が、その封印を解いて、公開する気になった動機。公開してからのアメリカ国内での反感、特に退役軍人からのいやがらせに、彼の家族はさいなまれることに。

そして、オダネルのからだも、原爆症に侵され苦しむことに。

彼の死後、息子によって トランクの中から オダネルの肉声を録音したテープが発見される。

 

『アメリカは きのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。

でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだった。

確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。

「原爆は戦争を終わらせるために必要だった」と教え込まれてきた。

しかし、あの小さな子どもたちが、何をしただろうか。

戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。

1945年、あの原爆は、やはり間違っていた」。

 

「はだしのゲン」の露骨な表現より数倍も、この一枚の写真が

戦争のすべてを語って、見たものの心を揺り動かす。


広島原爆は予告されていた 4

2021-08-08 19:58:38 | 太平洋戦争

広島も長崎も、原爆投下の日時は予告されており、軍の首脳部は知っていた」という。

原爆投下の前日に「(西部方面)第二総軍」の幹部クラスの会合が行われていた。

畑俊六総司令官以下、若松只一岡崎精三郎の両参謀、太宰博邦特高警察課長、さらに、高野源進広島県知事といった最上級幹部クラスは生き残っているのだ。

高野知事は、前夜遅くまで畑俊六司令官と酒を飲み交わしておりながら、翌朝8時15分の原爆投下の時間には なんと福山に居た。昼間の空襲を避けて、夜に移動する情勢下にあったとはいえ、なぜ福山に行ったのか、用件ははっきりしていない。
原爆投下の後、10時間かけて広島に帰り、即「復興対策本部」を立ち上げている。

畑司令官自身、原爆の破壊力のすごさは把握できていなかったであろうが、とりあえず、何人かの人に原爆投下の危険を知らせた。

前日の会合に集まったメンバーの中で、畑俊六に楯突いた粟屋広島市長は 家族とともに爆死している。「6日の朝8時までに、西部方面の将校全員、学徒動員の中学生を集めろ」という命令に対して、粟屋広島市長は「今、広島に集めても仕事も無いし、食料もない」と反対した。それに対して畑は「一週間たてばわかる」と答えた。

広島市長が抱いた疑問「なぜ、6日の朝8時までに、大勢の人を集める必要があったのか。それは、

広島は当時市民の大半が疎開してしまって、空っぽだった。「これでは原爆の被害者のサンプルがとれぬ」というアメリカの極秘要請にこたえたものだった。

天皇とアメリカとの間に秘密の通信があり、天皇の承知のもとに、広島・長崎への原爆投下が行われたのだ。

そして「終戦後の天皇の地位保障」を条件に、アメリカの 原爆投下を受諾した。

追記

テニアンとエノラゲイ搭乗員との交信は東京の陸軍・特殊諜報部隊でも傍受していた。

広島の「(西部方面)第二総軍本部」にも当時最新の通信システムが置かれており、インド・デイリーからやテニアンから発せられる通信をすべて傍受していた。その通信所は原爆で吹き飛ばされたので、通信に携わっていた職員は全員亡くなっている。彼ら職員に緘口令を強いていたとしても、大事のことであり、秘かに身内に口外していたであろうことは考えられる。


やはり知らされていた広島原爆

2021-08-08 19:54:58 | 太平洋戦争

以前、中日新聞で こんな記事が連載されていた。

藤原章生 広島の謎」 その中で

 福井県に本社を置く 非鉄合金の先端企業「大阪合金工業所」の会長「水田泰次」氏(88) が、1988年10月発行の『広島高等学校排球部史』に次の一文を寄稿している。

 

「4月に 京都大学工学部に入学したが、 5月に冶金の教室主任教授の西村秀雄先生に呼び出されて、広島市内に住居があり、親がいるということで、内密に情報を教えてもらった。米国の学会から秘密裡にニュースが送られて来、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行うことに決まったから、できるだけ早く、親を疎開させなさいということです。早速帰郷し、理由は誰にも話せず、父を無理やり、廿日市まで大八車で家財を積んで疎開させたものです」

 

ジャジャジャ~ン。

さて、この後も執筆者の「藤原章生」氏は、いろいろ疑問を呈している。

西村教授は、アメリカの学会からどうやって、そのような情報を得たのか。

無線も手紙もすべてチェックされている中、情報を得る手段は無かったはず。

不思議とのこと。その時、湯川秀樹も傍にいて、黙って座っていた。

何か意味ありげ。

 

 原爆が完成し、西部ニューメキシコ州の砂漠で世界初の実験に成功したのは

45年の7月16日。日本のいくつかの都市を攻撃目標と定めたのは、7月25日。

最初の投下を広島と決定したのは8月2日。

 

それが、なぜ、5月の時点で「広島に投下される」という情報がはいったのか

これまた不思議。まるで未来を見通せるタイムマシーンでもあったかの話。 

 


「原爆投下は知らされていた」関連出版物

2021-08-08 19:54:18 | 太平洋戦争

「原爆投下は予告されていた」で検索すると、次のサイトと関連書籍が出てくる。

①「Author:ひろもと」のブログ『読書日記』

②『原爆投下は予告されていた!第五航空情報連隊情報室勤務者の記録』黒木雄司著(1992年)
  岡山市在住の黒木雄治さん(77)=元安治川鉄工建設和歌山工場長の証言

  Amazonでは「この本は現在お取り扱いできません」となっている。「発禁本」か!?


③『原爆の秘密 昭和天皇は知っていた』大分県在住のノンフィクション作家「鬼塚英昭」著(2008年)


④『原爆投下は予告されていた。国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪』 古川愛哲著 講談社(2011年)
 
「なぜ広島と長崎では高級将校の死がほとんどないのか? 福島原発事故と原爆投下、
 2つの悲劇に隠された驚愕の真実! 被爆直後の長崎に上陸した米軍捕虜救出部隊の証言、
 そして原爆投下を黙認した日本軍上層部の陰謀…「昭和史最大の闇」を東日本大震災が暴いた。


長崎も予告されていた?

2021-08-08 18:18:37 | 太平洋戦争

今日8月9日は、長崎にも原爆が落とされた日。

広島の原爆はウラン。長崎型はプルトリウム爆弾。プルトリウムは自然界では存在せず、原子炉で人工的に製造する。そのため爆弾の動作原理と構造は両者は全く異なる。プルトリウム爆弾は広島型の1.5培の破壊力があったとされるが、長崎は山で囲まれているため、爆風はさえぎられ、被害は広島より少なかった。

 

長崎で アメリカの飛行機から撒かれたというビラがある。

「日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを 注意して 読みなさい。
 米国は今や 何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を
 発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は、只
 その1発を以てしても 優に あの巨大なB-29 2千機が
 1回に搭載し得た爆弾に匹敵する。

 我等は今や 日本本土に対して 此の武器を使用し始めた。
 若し諸君が尚 疑いがあるならば、この原子爆弾が 唯1箇
 広島に投下された際、如何なる状態を惹起したか調べて
 御覧なさい。

 この無益な戦争を長引かせている軍事上の凡ゆる原動力を
 此の爆弾を以て破壊する前に、我等は 諸君が 此の戦争を
 止めるよう 陛下に請願することを望む。
 
 米国大統領は曩(さき)に 名誉ある降伏に関する13ヶ条の
 概略を諸君に述べた。この条項を承諾し、より良い平和を愛好
 する新日本の建設を開始するよう 我らは慫慂するものである。

 諸君は直ちに 武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。 
 然らざれば我等は 断平この爆弾 並びに其の他 凡ゆる優秀な
 武器を使用し 戦争を迅速 且(かつ)強力に終結せしめるであろう」。

 

家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編『日本の原爆記録1』
(1991年)の中の「長崎22人の原爆体験記録」にも

 8月7日の15時頃、米軍機がビラをまいて、「皆さん、我が軍は
 昨6日広島に原子爆弾を落しました。それで、皆さんの親、子、兄、
 妹、知人など20万人近くもけがをされました。この爆弾は1発で
 これだけの力があります。この爆弾が落ちたところは、70年間は
 草も木も生えません。上空で爆発するので其の力は、直径20キロ
 メートルもあります。皆さん、この次は★8日に長崎に落とす
 予定です。皆さん、今ならば まだ間に合いますから、早く戦争を
 止めるように言って下さい」というようなビラを落してゆきました。

ジャーン。長崎への原爆投下は予告されていた?。

8日に投下されなかったので、やはりデマかと安心していたら、9日の昼に落とされた」との証言もあった。

これについては、米軍は「第一目標を小倉、第二目標を長崎」と決めていた。

小倉上空にさしかかった時、霞と煙で町を目視できず、あきらめて長崎に向かったことになっているから、「長崎に予告するはずはない」という意見もある。いや「小倉または長崎」だから予告はあり得たとも。

小倉では広島の情報から「B29が単機で来たら原爆投下の可能性がある」と警戒していて、B29の接近をキャッチしてタールを燃やして煙幕を張ったという。これはすばらしい。

小倉に落とされていたら北九州から下関まで灰燼に帰していただろう。

 

Nagasaki