ケイの読書日記

個人が書く書評

津村記久子・深澤真紀 「ダメをみがく 女子の呪いを解く方法」

2015-06-06 10:23:19 | 津村記久子
 私の敬愛する小説家・津村記久子と、「草食男子」の名付け親・深澤真紀との対談集。
 
 津村さんは1978年大阪生まれ、深澤さんは1967年東京生まれなので、深澤さんの方が11歳も年上なのだが、お二人はすごく価値観が合うようで、対談する前でも、居酒屋で遅くまで話し込むこともあったらしい。
 2人して「ダメダメだよね、私たち」って言い合ってるけど、二人とも世間的には成功した部類に入るから、あまりに自分たちをダメダメと言っていると、かえって嫌味にしか聞こえない。
 本当にダメ人間だったら、紀伊国屋書店で本を出せないよ。


 ただ、深澤さんが、津村さんの作品について「働くことへの向き合い方のバランスが絶妙で、私や同世代の女たちが到達できなかった境地を見せてくれたこと、(中略)女を捨てず、こだわり過ぎもしない」と言ってて、本当にそのとおりだなぁ、深澤さんは良い事いうなぁ!と感心した。さすが、ファンと公言するだけの事はあります。


 今までの女流小説家のOL描写って、レストルームでせっせとお化粧を直し、これから行く合コンの事を同僚とおしゃべりしたり、給湯室で上司や会社の愚痴や、恋愛話に花を咲かせたり…といった業務にあまり関係のない事ばかり書いてあった。
 かといえば、大手企業に勤めるバリバリのキャリアウーマンが、男性以上に能力を発揮し活躍する話とか。

 普通の地味なOLが、普通の地味なデスクワークを、色んな障害を乗り越えながらきちんとこなしていく、という当たり前の描写が、本当に少なかった。
 だから私も、津村さんの小説を読んで、すごく新鮮な気がしたのだ。やっと、こういう人が現れたって。


 この対談集では、年上でキャリアが長い深澤さんの方が、押し気味に話を進めている。そのうちきっと「中学の登校時によく見かける、朝からめちゃくちゃよくしゃべっている女の子」タイプの女性が、津村さんの小説の中に登場するだろう。
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大塚ひかり 「昔話は なぜお爺さんとお婆さんが主役なのか」

2015-06-02 11:30:19 | Weblog
 そうだよねー! 「昔々 ある所に お爺さんとお婆さんが住んでおりました」というのが、昔話導入部の定番。
 こういうものだと私は気にも留めなかったが、筆者の大塚さんは、すごーく気になったらしい。自分なりに分析して、3つの理由を挙げている。

① 社会的地位の低い老人が、老人ならではの知恵や体力のなさ、鈍感さで成功を収めるという「逆転の面白さ」があるから。そりゃそうだ!金持ちや身分の高い人という強者が、成功したって、当然のことで面白くもなんともない。
 弱者である貧しく体力の衰えた老人が、超自然的な力で成功するといったギャップに読者は喝采をおくる。

② 極端化した老人のキャラが、人間の二面性という真理を語るにふさわしいから。そうそう、良いお爺さんの家の隣には、必ず悪いお爺さんが住んでいるのです。

③ 昔話の語り手が老人だったから。これ、大きいと思う。語り手は、主人公とダブるもの。物語を借りて、自分の考えや体験や希望を述べている。


 私たちには、漠然と、昔の年寄りは大勢の子や孫に囲まれて楽隠居しているイメージがある。でも、それは、江戸時代、武家社会に「親孝行」「老人を敬おう」という儒教思想が広まったからで、それ以前は、生産性の低い老人は、本当に邪魔者扱いされていた。
 だいたい、金のない男は結婚できなかった。一夫多妻制なので、金のある男のもとに何人も女が集まる。

 姥捨て伝説は、あくまで伝説であって、老人を捨てたという決定的な証拠はない、と大塚さんは書いている。でも、無い訳ないじゃん!! というのが私の考え。
 だって、飢饉の時に人肉まで食べたんだもの。ちょっと不作の年には、年寄りに食べさせる物なんかないよ。
 しかし、「70歳になったら、ここらの年寄りは皆、姨捨山に行く」という不文律があったら、さほど抵抗なく従うんじゃないかな? 

 人間の幸せ不幸せの感覚は、周囲との比較で決まる…と思う。隣の爺もその隣の婆も、みんな数え70歳で姨捨山に行った。わしも、来年70だから行くんだな、と心構えのようなものができると思うよ。
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