深い催眠状態へと至ることは、
究極のリラックス状態に至ることです。
そして、
究極のリラックス状態になるということは、
自分の内側と外側の世界に対して
心理的、物理的に無防備な状態になることを意味します。
そして、無防備な状態にあったとしても
自己を守ることを放棄している訳ではありません。
自己を守ることが必要だと感じた時には、
即座に対応することも可能ではあるのですが、
私達は、一定の環境が整わないままに
その無防備な状態になることを良しとしません。
自宅の扉や窓を全開にして家の中丸見え状態、
侵入ご自由状態で夜ぐっすりと眠りにつける人は
そうはいないのと同じです。
他者催眠は、自己催眠とは違い
他者によるリラックス誘導、暗示誘導を
受けることになります。
これは、良く知らない誘導者を近くに置いて
誘導者から無防備な状態になることを求められ、
自分でも求めているのと同じです。
ですから被験者は、
催眠の技術レベルへの信頼や人柄、
そして、催眠そのものへの
ある一定の安心感や信頼を得ることが出来なければ、
無防備状態になることを選択してはくれません。
しかし、
チーズの味は食べてみなければ分からない
と言うのと同じように
催眠誘導者の技術、人柄、催眠そのものについて、
体験してみなければ分からない部分がどうしてもあります。
体験する前に不確定要素を埋めておきたい。
その不確定要素を埋めるためには体験しなければならない。
催眠を体験するには不確定要素。。。
といったジレンマ状態が生まれます。
この時、
ここまで来たのだからもうお任せするしかないと
腹を決めて無防備状態になってくれたり、
好ましいとは言えないけれども
依存的に無防備になってくれたり、
あるいは、
流れを伺いながら段階的に
無防備になってくれる人もいますが、
不確定要素が埋まらないまま先に進むことに対して
無意識のレベルの自己防衛、抵抗が続く人もいます。
これは心理療法でも同じで
包丁が怖いので、怖さがなくなったら料理を始めようで、
理屈での技術の学びだけで
怖さや不安を完全に無くそうとしても限界があります。
技術が身に付いていないので不確定要素が埋まりません。
技術を身に付けるには、ある程度怖さや不安を軽減したら
実践するのみです。
そして、怖さや不安があるからダメなのでは無くて
その時の良い感じの怖さや不安があるお陰で
その時点の本人の能力にあった適度な行動を取らせてくれて
大きな怪我を避けながら能力を向上させることが出来ます。
心理療法では、壁を取り除いたり、壁を低くしたり、
別の道を探すことは出来ますが、
悩みのその場所から移動するための
最初の一歩に本人の決断が求められます。
ただ心理療法の場合には、
泳ぎや包丁のように本人が技術を身に付ける必要が
あるような場合と違って
もう全ての準備が整っていることがあります。
その場合には、施療者が本人の決断に任せずに
背中をポンと押してあげることも有りかと思うのですが、
何分にも心の中の様子ですから
目で見ることが出来ないので、その判断が難しい。
話を催眠に戻すと
天才的な催眠誘導者であったミルトン・エリクソン氏は、
被験者の防衛、抵抗を回避するために
ごく普通の会話としか思えないような技法を用いました。
被験者はエリクソン氏と
普通の会話をしただけと思っているのですから
いつ催眠誘導が始まったのか、
いつ催眠状態になったのかすら分かりません。
エリクソンの施療を受けた人の中には
「優れた心理療法家だと聞いて遠くから来たのに
ただ普通の話を交わしただけで期待外れだった。
でも、あれからどういう訳か気持ちが晴れやかなんです。」
なんてことを言う人もいた位です。
その自然な催眠コミュニケーションは、
その当時の催眠の専門家が傍で見ていても判断がつかず、
施療が終了してからエリクソン氏に、
先ほどの施療で催眠を使ったのかどうかを
聞かなければ分からなかったくらいです。
多くの心理療法家がその凄まじい技法に興味を持ち
分析、研究を行ったことで
その技法の一端は解明されていますが、
エリクソン氏に近いレベルで
その技法を駆使できる人はまだいないようです。
私自身もエリクソンの華麗で魔法のような誘導法に
凝った時期があったのですが、
醤油の1滴2滴、材料の投入の順番、
火加減一つで味が壊れてしまう料理のように
繊細さが求められる誘導法に音を上げて休眠状態です。
今の私は、私が使いやすく、今の私の技量で、
エリクソンのエッセンスをちょこっと混ぜて
最大限の効果を上げられる誘導法を使用して
汗をかいています。